第57話
「えっと……なぜぼくなのか、詳しい理由をお訊きしても?」
太郞は、日本語だとどちらに向かって話してよいかわからず、ホワイトヘッドと戸沢を交互に見ながら言った。
ホワイトヘッドはどうやら日本語がほぼわかっていないようで、戸沢から訳されるまで待ってから答え始める。
「すまないが、私も理由までは聞いていない。ただスターン氏から、あなたをどうしてもランチに招待したいから、交渉してきてくれ、と言われているだけなんだ」
「はぁ、何それ?」と後ろで佳子の声がする。
「穂村君、スターンて人と知り合いだったの?」とこちらは真理の声。
そんなわけがあるか、と太郎は言いたかった。
どう返答したものか、太郞が答えあぐねていると、ホワイトヘッドが続ける。
「急すぎて驚かれるのは理解できる。正直、交渉を頼まれた私自身がとまどっているくらいだ。スターン氏がこんな気まぐれを言い出したことはこれまでになかったものでね。
ただ、我々に悪意がないことは信じて欲しい。スターン氏は世界に名の知られたボクシング界のスーパースターであるだけでなく、人格も素晴らしい人だ。
日本の中学生……だよね? 高校生? ああ、中学生でいいのか。うん、あなたが困るようなことは決してしないと誓うよ。どうだろう? 一緒に来てもらえないかな?」
困ることをほんとうにされないのかどうか?
その点には太郞は大いに疑問を持っていたので、ホワイトヘッドの言葉を鵜呑みにはできない。
太郞が答えに迷っていると、横にいたことりが太郞に向かって言った。
「受けなよ、穂村君」
「え?」
「だって、相手は世界チャンピオンだったすごい人なんでしょ? ここでVIP待遇してもらえるような人から、ご飯に誘ってもらえる機会なんて、めったにあることじゃないよ。理由なんてなんだっていいじゃない。ね?」
太郞は一瞬、ことりを見て黙り込むが、すぐにホワイトヘッドに向き直って言った。
「ひとつ、条件があります」
「ほう、何だい?」
太郞の返答に、ホワイトヘッドが面白そうに瞬きした。
「ぼくたち、この園内では班で行動するよう言われているんです。だから、ぼくだけでなくこの班の六人全員を招待していただけるのなら、行きます」
「え!」
「ちょっと穂村君?」
「て、てっぺん! おまえそりゃいくらなんでも」
周りが驚いてそれぞれに声を上げるが、太郞の要求を戸沢から聞いたホワイトヘッドは笑い出した。
「ははは! なるほど。うん、問題ないよ。言われたのはきみだけだったが、お友達の五人も一緒に来てもらえるなら、喜んで招待しよう」
これで交渉がまとまったとばかりに、ホワイトヘッドはくるりと踵を返して、太郎たちを手招きした。
戸沢の方はやや戸惑いが隠せなかったが、太郎たちを促して、行きましょうと言ってきた。
「あ、勝手に決めちゃったけど、もしかしてダメだったかな?」
今更ながらに太郞は班のメンバーを振り返って訊いたが、ことりはもちろんのこと、ほかの四人もこんなハプニングならむしろ歓迎とばかり、笑顔で付いてきたのでほっとした。
ホワイトヘッドに連れられて六人が列を離れると、前後の客や周りで様子を窺っていた人たちがざわつき始めた。
「なに、なんかクリス・スターンにランチ奢ってもらえるとか言ってなかった?」
「うっわー、うらやましい!」
「え、どういうこと? なんかのドッキリ企画じゃないの」
「えー、なんであの子らなの。あたしの方がゼッタイかわいいのに!」
「いや男の子のほうだろ、誘われてたのは」
「まさか、スターンてそっちの趣味?」
距離が空くにつれて騒ぎはだんだんに大きく遠慮がなくなっていったので、太郞はナノマシンに願っておくことにした。
(ぼくたちの動画や写真は、残して欲しくないからよろしくね?)
これでおそらく、スターンとランチに行く幸運な中学生たち、という動画は世間に流れずに済むはずだ。
スターンたちと合流し、ボディガードの輪の中に入っても、すぐにスターンがそばに来るわけではなかった。
スターンの元に行ったのはホワイトヘッドだけで、太郎たちは戸沢とともにちょっと離れたところで待つ。
肩車から下ろされた男の子と、もとから手をつないでいた男の子の二人が、母親のそばでじっとこちらを見ていた。
太郞ひとりではなく六人でやって来たことについて、おそらくホワイトヘッドが説明をしているのだろう。
スターンは何度か頷いていた。
とくに聞き取らなくても、口元を見ていて、「オーケー」「ノープロブレム」と言っているのはわかったので、太郞はちょっと安堵した。
「こういうことって、よくあることなんですか?」
手持ち無沙汰で、太郞は傍らの戸沢に訊いてみた。
「うーん、どうなんでしょう?」
戸沢も首をひねっている。
「世の中のセレブと言われる方々は、物差しが一般と違う人が多いのは事実よね。だから、庶民から見たらとんでもない奇行に走ったり、唐突に我儘を言い出すとか、気まぐれが激しいって人は確かにいたけれど」
思い当たる事例が多いのか、いったん空を見上げた戸沢は、スターンに目を向けて続けた。
「ミスター・スターンに関して言うと、セレブとは思えないくらいに常識人よ。私は今回初めて通訳を引き受けただけだから、あまり確実なことは言えないけれど、こんな唐突な行動はいまのところ今日が初めてだわね」
まあ、金銭感覚はさすがに庶民の常識とはかけ離れているけれどね、と付け足す戸沢に、ふうん、と太郞は頷く。
スターン側の人々を含め、他の人がどう思っているかはともかくとして、ランチだけで済むとはさすがに太郞は考えていなかった。
いや、厳密にはことりも隣りで、「きっと何かが起きるはず!」とわくわくしていたのだが、そこは太郞のあずかり知らぬことである。
「それで、どこへ行くことになるんでしょう?」
「ああそれは」
太郞の質問に、戸沢は少し遠くに見える大きな建物を指で示す。
「もともと、ミスター・スターンご一行がパーク内のホテルでランチの予定だったから、そこだと思うわよ」
「おお!」
「きゃー、やった」
それを聞いた加藤や佳子たちから歓声が上がった。
どうやらパークのファンのあいだでは、ホテルのステータスが高いらしい。
なんで? と太郞が訊くと、佳子はきわめて端的に「お値段高いから!」と答えてくれた。
ほどなくしてスターン自身が、太郞のところへ歩み寄ってきた。
「やあ。クリス・スターンだ。突然の申し出、受けてくれて感謝している」
「穂村太郞です。太郞がファーストネームです。びっくりはしましたが、ご招待ありがとうございます」
太郞は、そういえばスターン側に名乗ったのはいま初めてだな、と気づく。
「太郞か。うん、日本人にしては呼びやすい名前で助かるよ」
スターンが右手を差し出してきたので、太郞も手を出して握手した。
大きく強く、かつ分厚すぎず繊細さを備えた手だった。
太郎の手ではサイズが小さすぎて、しっかりと相手の掌を握るところまで指が届かない。
スターンは力を込めようかどうしようか迷った様子で、結局すぐに手を放した。
太郞は以前警察署長の斉藤にやられたように、最初の接触でいきなり力試しが来るのじゃないかと思って身構えていたが、何も起こらず拍子抜けしていた。
スターンはその後、ことりや外山たちにもひとりひとり握手して回った。
義理堅い人なんだな、とそれを見て太郞は思う。
スターンの『気』を読み取ったときも、嫌な感じはまったくなかったっけな、と思い出した。
「では行こうか」
スターンの一声で、一行はホテルへ向かった。
エントランスからロビーを抜けて、広い廊下を進んでいく。
中を歩いているのはスターン一行だけだった。
パークが手配したという米国人らしきコーディネーターが、スターンを先頭にみなを先導していた。
「?」
太郞が不審げに眉を寄せながら戸沢に訊いた。
「いくらなんでも、お客さんが少なすぎませんか? ホテルの人以外、誰も見ないなんて……」
「ああ、だっていまここは、ミスター・スターンの貸し切りですもの」
「ええっ?」
戸沢の返答に、太郎たちが一斉に驚きの声を上げた。
「貸し切りって……ホテルをですか?」
「できるんだ、そんなこと」
「そんな……いったいいくらかかっちゃうのかしら」
中学生らしい素朴な反応に、戸沢がクスクスと笑って続ける。
「もちろん、ホテル全部ではないわ。ホテルでもこちら側の棟はもともとこうしたスペシャルなお客様用で、仮に予約が入っていなくても、普段から一般の宿泊客は入れないのですって。で、いまはミスター・スターンが三フロアを貸し切っているので、そこでは他のお客様の姿を目にすることがないの。
さらに上のフロアは別のセレブが借りていて、そちらの方用にまた別のエントランスもあるらしいわよ。世界のセレブでは、建物ごと貸し切りにする方も少なくないそうだし、もっとすごい方はほら、パークを丸ごと貸し切りにしちゃうっていうじゃない?
お持ちの資産から考えたら、ミスター・スターンのなさりようはまだ控えめなほうかもしれないわね」
「ひえぇ……」
「す、すごい……」
考えたこともなかったホテルの使い方に、太郎たちが驚き呆れているまさにそのとき。
いきなり太郞の頭に危険を知らせる警報が鳴り響く。かつて誘拐犯の城崎にピストルで撃たれたとき以上の危機が身に迫っていた。
(え? なにこれ? どういうこと)
警報の原因は……クリス・スターンその人であった。
一行の先頭を歩いていると思っていたスターンが、いつの間にか太郞のすぐ前に立ちはだかっている。
そして一瞬で構えたかと思うと、そのまま躊躇なく右ストレートを放ってきた。
もちろん、銃弾すら避けられる太郞には、いくら世界チャンピオンの拳であろうと関係がない。
間違いなく太郞がこれまでに見た中では最速のストレートだったが、外山でも三宮でもスターンでも、ピストルの弾のスピードから考えれば、拳速など誤差の範囲だった。
しかし。
(狙いがぼくじゃない? なんで戸沢さん?)
なんとスターンの拳が向かったのは、太郞の隣りにいた通訳の戸沢だったのである。
(え、ちょっと、寸止めじゃないの? 当たったら戸沢さんが死んじゃう!)
バチーン! と鞭の弾けるような音が響き渡る。
きょとんとした戸沢の顔の前で、スターンの右拳が太郞の手のひらによって止められていた。
「チャンプ?」
「あなた? なにを!」
悲鳴のような声がボディガードやスターンの家族から上がった。
「ひっ?」
ようやく何が起きたのか理解した戸沢が、へなへなとその場にしゃがみ込む。
周りは驚きで誰も動けなかった。
太郞は動きの止まったスターンの拳から用心深く右手を剥がすと、きっとスターンの目を見返す。
「……どういうことですか?」
思わず日本語できつく問いかけたのだが、言葉の意味はわからなくとも何を言ったかは伝わったはず、と太郞は思った。
しかし目の前のスターンは……涙を流していた。
それを見て驚きに硬直した太郞に対し、そのままスターンは太郞の前に跪き、太郞の右手を掴むとその大きな両手で握りしめてきた。
「やはりきみだったか。待っていた。私はきみに会う日をずっと待っていたのだ」
「……はぇ?」
「きみだろう。昨日、私に向かって何か得体の知れない技を仕掛けてきたのは」
あー。
やっぱりそれだったか。
太郞はだいたいの事情を察して瞑目した。
スターンに向かって技を使ったわけではなかったが、スターンを技の範囲に巻き込んだのは事実である。
太郞は街の不良八人を気絶させた技の余波まで、偶然にもスターンに及んでいたことを知らない。
しかし『気』で行った探索については、スターンに気づかれたとわかっていたからだ。
「きみは強いはずだ。もしかしたら、私よりずっと」
スターンの言葉に、周りの英語のわかる人々が驚愕する。
一般人である通訳に拳を向けたこと。
そしてこんな小柄な子どもに向かって、自分より強いと言い出したこと。
彼らにはスターンが狂ってしまったとしか思えなかった。
しかし、太郞はじっとスターンの言葉を聞いている。
「お願いだ。私と試合してくれ。私と戦ってくれ。一回だけでいい。私に、全力を尽くした戦いをさせてくれ。頼む」
泣きながら、スターンは太郞に頭を下げてきた。
手が触れていることで、太郞には『気』を通じてスターンの感情がダイレクトに伝わってきていた。
言葉もだいたいは理解できたが、何よりスターンの気持ちの切なさ、やるせなさ、渇望感はきわめて切実なもので、そのまま痛切に太郞の胸を打った。
(誰よりも強いって、誰よりも孤独ってことでもあるのか……)
太郞は、空いた左手でスターンの手を覆った。
「わかりました。一回だけ」
びくりとスターンの身体が震えた。
その頭がゆっくりと持ち上がり、涙をたたえた瞳で太郞の目を真っ直ぐに見つめる。
「やってくれるか」
「はい」
「……ありがとう」
「ですが」
立ち上がろうとしたスターンを、太郞が引き戻す。
「ん?」
「まずその前に、戸沢さんに謝罪を」
スターンが、しまったと言う顔になった。
戸沢はまだ太郞の横でへたり込んで呆けている。
「す、済まない! ミズ戸沢!」
スターンは慌てて戸沢に向き直ると、周りのボディガードを呼ぼうとして、いやここは女性のほうがいいと思い直し、妻のキャサリンに戸沢を支えるよう声をかける。
「悪かった。脅かすつもりはなかった。ただ、太郞に私の拳を向けても、太郞はうまく当たらなかった振りをするだけなのではないかと思ったんだ。だがほかの誰かを標的にしたら、きっと太郞はその人物を私の拳から守ろうとすると考えた。だから、たまたまミズ戸沢が隣りにいたのを利用してしまった」
なるほど、そういうことだったか、と太郎は得心する。
確かにもし狙われたのが自分であったら、スウェーで下がって、スターンの拳がぎりぎり届かなかったように装うこともできていただろう。
あるいは躱しておいて、スターンが外したと見せることも可能だったはずだ。
キャサリンは、いまだに夫が正常な精神状態なのか疑っているようだったが、それでも言われたとおり戸沢に寄り添い、身体を支えてスターンの話を聞いていた。
戸沢のほうは、ようやく身体に力が戻ってきたふうで、キャサリンに礼を言いつつ、何とか自分の足で立ち上がる。
「だ、大丈夫、もう大丈夫です」
びっくりしただけだから、と気丈に戸沢は言って、キャサリンの支えから身を離した。
「あの……でも、私の聞き違いでないのなら、ミスター・スターンと、この穂村君が試合をする、と聞こえたのですが」
戸沢が何かの間違いだろう、といった表情でスターンに尋ねる。
「そうだ。その通りだよ」
「……は?」
スターンの返答に、戸沢は錆びた機械のようなギクシャクした動きで、自分の横にいる太郎を見た。
「はい。合ってますよ」
太郞も戸沢に頷く。戸沢の喉がひゅっと鳴った。
「えええええっ!」
一瞬ののち、誰もがびくっと震えるほどの音量で、戸沢の驚きの声がホテルの廊下に響き渡った。
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