第55話
クリス・スターンは元プロボクサーである。
地上最強の人類は誰か?
その問いに正解を与えることは著しく困難だが、一人候補を挙げろと言われれば、多くの人が「ボクシングのヘビー級世界チャンピオン」の名前を口にするだろう。
そしていまなら、例え「元」チャンプであっても、クリス・スターンこそ最強である、と答える人が最も多いに違いなかった。
恵まれた体躯に、豊かな才能。
そして努力を厭わない克己心。
よき指導者にも出会い、順調にキャリアを重ねて来た。
大学のアマチュアボクシング時代にアメリカ代表としてオリンピックへ出場、金メダルを獲得したあと華々しくプロへ転向した。
スターンは自分に圧倒的な自信を持っていた。
正しく才能あるものが、誰よりも努力している以上、勝てないわけがないという信念があった。
そして、彼には力や技を鍛えるだけではなく、考える頭があった。
クレバーだったのだ。
デビューから順調にK.O.勝ちを重ねて行ったが、五戦目で初めて、判定にまでもつれ込んだことがあった。
ランキングは上でも実力では自分より劣っていると考えていたベテラン選手に、真っ向勝負をうまく躱され続けたのだった。
結果、逃げ回るかこちらにしがみつくクリンチばかりで、レフェリーから警告を受けないためだけに申し訳程度の攻撃を仕掛ける相手選手を仕留めきれなかった。
判定では大差の勝ちを得たが、連続K.O.記録を止められたスターン自身は、負けに等しい屈辱を味わった。
その後のスターンはすぐさま自分のトレーニング方法を修正し、トレーナーもその問題意識にきちんと応えた。
それら過去の経験を糧とする技量とセンスは飛び抜けて高く、スターンは同じ失敗を決してしない。
そうして六戦目以降は、それ以前より早い回でのK.O.決着を量産していったのである。
逆にそれで警戒され、タイトル戦にはなかなか辿り着けなかった。
チャンピオンが対戦を避けたためだ。
結局、プロとして15戦目にようやく初のタイトルマッチを行うことができ、見事K.O.勝利でヘビー級チャンピオンとなった。
ただスターンにとって、これは当然の結果であり、驚くことではないと考えていた。
あいにくヘビー級選手は階級を上げて複数のタイトルを獲る、ということができない。
ヘビー級より重いクラスがないからだ。
となれば、より多くの称号を得るためには、防衛回数を稼ぐことと、別団体のタイトルを獲って統一チャンピオンになることである。
スターンは自らの強さをより明確に示すため、その両方を目指した。
主要二団体の統一タイトルマッチまでは比較的スムーズに交渉が進み、とはいえさすがに相手もチャンピオン、スターンの戦歴に、初めて試合中のダウンを喫するという記録が刻まれたものの、結果的には圧倒してスターンは二つ目のタイトルを手にした。
しかし、そこから先は茨の道であった。
スターンが強すぎたのだ。
統一戦を見た他団体のチャンピオンたちは、その後どんな好条件でもスターンとの試合を決して受けようとはしなくなった。
無論、相手側からの統一戦のオファーなど、望むべくもない。
ボクシングのヘビー級タイトルマッチは、プロスポーツであると同時に莫大なカネの動く巨大ビジネスである。
チャンピオンかチャンピオンでないかによって、得られるカネは金額がまるで違ってくる。
やれば負けるとわかっていて、せっかくの金のたまごを産む鶏を差し出すものはいない、というわけだった。
結局、スターンの統一タイトルは二団体で終わっている。
それどころか、自らのタイトルへの挑戦者さえ、なかなか現れなくなった。
こちらも、勝てないタイトルにあえて挑むより、もっと可能性の高いタイトルに挑戦する方がよいと、スターンの保有するものとは別団体のタイトルマッチの方が、明らかに回数が増えてしまった。
スターンは引退までにプロで37戦しているが、チャンピオンになるまでの試合を除いた22戦のうち、タイトル防衛戦はわずか12戦しかない。
挑戦者が決まらなかったためである。あいだにノンタイトル戦をはさんで試合勘を維持する、そんな工夫が必要なほど、スターンに挑もうとする強者は現れにくくなっていた。
そしてようやく挑戦者が見つかっても、だいたいは自分と相手の力量も正しく見積もれない愚か者か、実力不足のくせに自信にばかりあふれた未熟者であって、スターンと満足に打ち合えるものはいなかった。
パウンド・フォー・パウンド。
仮に体重のハンディキャップがなかったとしたら、一番強いボクサーは誰か? そんな仮想に基づくランキングを、複数のメディアや団体が定期的に発表しているが、スターンは統一チャンピオンになってから約五年近く、どのランキングにおいても一位に君臨し続けた。
そうして……スターンは苦悩していった。
「強すぎてつまらない」
タイトルマッチをやる度に、そうした論調で評されることが増えていったからだ。
実際、スターンはプロスポーツの賭けを主催するブックメーカー泣かせであった。
ただ単にスターンの勝利に賭けるとすると、ほとんどのタイトルマッチでオッズが1.0になってしまうのだ。
賭けが成立しないのである。
となると、ただ勝ち負けではなく、スターンが何ラウンドでK.O.勝利するか、といったよりシビアな条件の賭けを仕掛けていくほかなく、それでもオッズは二倍を超えたことがなかった。
「タイトルマッチというより、ただスターンの練習を見ているようだ」
「挑戦者が言葉や態度で煽れば煽るほど、彼はあとで自分を道化にしていることを思い知る」
「あれは試合じゃない。作業だ」
「ラウンドごとにシナリオが全部できていて、主演スターンで演じられる生ドラマを見ているのだ」
「結果はやる前にわかっているから、あとでK.O.ラウンドだけニュースで見ればいい」
等々、マスコミもファンですらも、散々な物言いでスターンの勝利を当たり前と位置づけた。
「ふざけるな!」
スターンは憤った。
自分がどれほど厳しいトレーニングを自身に課し、どれだけの犠牲を払ってこの地位を築いて来たか、わかっているのか。
当たり前の勝利を得るまでに積み重ねた努力など何もないとでも思っているのか。
つまらない、だと?
ならば相手も自分に劣らぬ強さを身につけてこい。
自分がここまでやっても、なお拮抗できるだけの強者になって挑んでこい。
それでこそ対等というものではないか。
チャンピオンを争うのだ。
弱い側こそ未熟を誹られるべきで、強い側が非難される謂われなどあってなるものか。
しかし、タイトルマッチを見る側にとっては、結果のわからぬ勝負のほうが面白いのである。
つまらないと言われたところで、スターンがトレーニングの手を抜く選択肢はあり得ない。
そうなれば、やはり同等の強さを備えた挑戦者は現れない。
結果のわかる勝負が繰り返されていく。
それの何が悪いのか。
スターンの思いと、世間やファンの心理との間にできた溝は埋まらなかった。
スターンが勝てば勝つほど、ファンは試合が面白くないとこき下ろす。
その身勝手な感想を笑って受け流すには、スターンは真面目すぎた。
ある日、ついにスターンは苛立ちを爆発させる。
世界中にいくつもの豪邸を所有するスターンが、一年で最も長い時間を過ごす南カリフォルニアの自宅で、夜の高級住宅街に破壊音が響き渡る。
警備員が慌てて駆け込んでくると、スターンが寝室の壁に巨大な穴を空けたところだった。
その黄金の右拳からは血が流れていた。
このとき、真っ先に寝室に駆け込んだのが妻と子どもたちでよかったと、後にスターンは語っている。
もし警備員が先であったら、自分はもっと暴れ続け、自宅と自分の肉体を破壊し続けたかもしれない。
制止されただろうが、それを振り切って暴れる歪んだ開放感、背徳感に身を委ねたかもしれない。
そう述懐している。
何より、スターンの身を案じて飛び込んできた家族が見せた、心配と怯えをにじませた必死の表情を目にしなかったら、自分は止まれなかったのではないか。
スターンはそう振り返る。
警備員が寝室に来た時点では、スターンは既に落着きを取り戻していた。
家族を怯えさせた自分を恥じ、スターンは妻と子どもたちの前で初めて泣いた。
その静かな涙を目にして、妻のキャサリンは「やっと、わたしたちはほんとうの家族になった気がしました」と語った。
後年、さらに彼女はスポーツ誌のインタビューでこう答えている。
「クリスが何か弱いところを見せてくれたことなど、それまで一度もなかったのです。彼は常に強くたくましく頼りがいのある夫であり、父であり続けようとしました。
最強のチャンピオンである自分を、おそらく本人も気づかないうちに家庭の中でも演じ続けていたのでしょう。家では優しい夫でしたが、それでも弱さは決して見せたことがなかったし、彼は自分に弱いところがあると思ったことさえなかったようでした」
スターンは、壁の穴を修理しなかった。
その穴を見る度に、自分が守るべきは何なのか、大切にしなくてはならないものは何なのか。
そして何よりも、自分を守ってくれているのは誰なのかを思い出せるようにしたい。
そう語った。
その一件があってからしばらくして、スターンは無敗のまま引退することを決めた。
引退を言い出せば言い出したで、あれほどスターンのタイトルマッチをつまらないとこき下ろしたマスコミや世間も、掌を返したように「まだやれる」「続けてくれ」「もったいない」と引退撤回コールを浴びせてきた。
それでもスターンの決心は変わらず、この年の一月に、タイトルを二つとも返上したのだった。
タイトルも現役でいることにも未練はなかったが、スターンの渇望はそこにはなく、それよりもただ強い相手が欲しかった。
鍛えに鍛えた自分の持てるすべてをぶつけ、なお上回ってくるような敵と戦いたい。
自分自身が結果の読めない勝負をやってみたい。
その中で勝つ道を模索する、ぎりぎりの緊張感を味わいたい。
いやいっそ、正々堂々と負けてみたい、とさえ考えていた。
それだけが心残りで、引退後もトレーニングは止められなかった。
スターン自身は父として家族とたっぷりの時間を過ごせたら十分と考えていたが、この偉大で強いチャンピオンが、引退後に何をするのか?
世間の興味がそちらへ移ってくる頃、スターンは所属していたジムの自分専属マネージャーを引き抜いて自らオフィスを開設し、業務の管理にあたらせた。
最強の元チャンプに対する仕事のオファーはいくらでもあった。
そうして組まれたスケジュールのひとつが、日本で行われるスーパーバンタム級タイトルマッチのゲストであった。
現チャンピオンの当麻と面識はなかったが、名前と顔は知っていた。
パウンド・フォー・パウンドのランキングでは、スターンには及ばないものの、二位や三位に選出されたことがあり、スターンも興味を持って彼の試合のビデオを観たことがあったからだ。
「ミスター当麻がせめて、ミドル級以上の階級であったら、嬉しかったのだがな」
スターンは来日後、初めて本人に会ったときにそう言った。
彼は良いボクサーだった。
高い技術と階級以上のパンチ力があり、また闘争心にあふれていた。
試合運びを見る限り、頭も悪くなさそうだ。
彼に体格さえ備わっていたら、自分と勝負できる選手であったかもしれないのに。
スターンの感想を、当麻は複雑そうな表情で通訳から教えてもらっていた。
おそらく彼は、体格が伴わなくとも自分はスターンに劣るボクサーではない、と考えているだろう。
その自負は素晴らしいとスターンは思う。
偉大なチャンピオンになるために必要不可欠なものだといっていい。
しかし、もしも実際にリングで戦ってみたら、現実はきわめて残酷なことになるとスターンは知っていた。
それは仕方のないことで、とても悲しいことだった。
スターンの日本滞在は一週間ほどであった。
タイトルマッチのプロモーターとのゲスト契約の正式締結、日本のいくつかの会社からコマーシャルやイメージキャラクター、商品のアンバサダー就任のオファーが来ていたためその商談、そしてボクシング誌の取材やインタビューを受け、テレビ出演も何件かこなした。
無論、その間もトレーニングは欠かさない。
マネージャーには必要なトレーニングができることを条件に、滞在するホテルを選ばせている。
それらの分刻みのスケジュールの中、アメリカに本家のあるテーマパークの日本版に行ってみたい、という家族の願いを組み込むことも、スターンはおろそかにしなかった。
問題が起きたのはその前日のことだ。
スターンがテレビ局での番組出演を終え、近隣の高級ホテルのカフェでくつろいでいるときだった。
一瞬、スターンの身体を目に見えない何かが通り過ぎていく感触があった。
ぞわり。
ものすごく久しぶりで、スターンに鳥肌が立った。
(なんだ? いまのは)
思わず周りを見回した。
しかし、辺りに変わったことは何もない。
様子のおかしな人物も見当たらない。
スターンの変化に気づいた最寄りのボディガードの一人が声をかけてきた。
「チャンプ、どうかされましたか? 何か問題でも?」
「……いや」
スターンは、座り心地のよいソファに深く腰掛けたまま、警護・警備の技術の一環として格闘技を専門に修めたボディガードをまじまじと見返し、いちおう訊いてみることにした。
「きみ、いま何かおかしな感覚がなかったかい?」
「は? おかしな……というと、どんなものでしょうか?」
ボディガードは首をひねって尋ねてくる。
「そうだな……なにかじっくり見られている、というか……いや違うな、もっと相手の情報を得ようとする積極的な……値踏みされている感覚といったほうがいいのか……」
「値踏みですか? まさかあなたを?」
莫大なカネを稼ぎ出す紛れもない大富豪で、その肉体ときたら地上最強に一番近い人間の一人であるスターンを、よりによって値踏みするような不遜なマネが、いったい誰にできるというのか。
訊かれたボディガードは笑って言った。
「あなたを見下ろせるような人物は、いまこの視界内には存在しませんよ、チャンプ。私にはそんな感触は感じられませんでしたね」
「そうか。……わかった、すまなかったな、混乱させて」
ボディガードは頷いて元の位置に戻る。
スターンは悟った。
この男にはあれが感じ取れなかったのだ。
あの……全身を何かでスキャンされてしまったような、とんでもない強者からの視線ともいうべき感覚を。
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