第46話
(どうしよう……)
このまま学習室には戻れない、と史武は思った。
太郎たちは、午後も学習室で勉強を続けるだろう。
目が合ってしまった以上、いたのに気づかないふりももう無理だ。
かといって、しれっと同じ部屋で宿題を続けられるほど、史武は図太くはない。
(仕方ない……今日はこのまま帰るか)
確保した机には使用中の置き札を置いたままだが、一時半になれば勝手に撤去されるはずだ。
せっかく朝早くから席取りしたのにもったいないと思っても、やはり戻ることなどできない。
史武は悔しさに唇を噛みながら、その足で図書館の正面玄関を出た。
途端に湿気たっぷりの夏の熱気がぶわっと押し寄せてくる。
朝来たときはまだ少しマシだったが、昼を過ぎて気温も本格的に上がっていた。
「あっつ……。くっそあっついな、ちくしょう……」
いらいらがますます募り、史武はふと目に付いた転がる空き缶を、反射的に蹴飛ばした。
カン、と小気味いい音を立てて飛んだ空き缶は、しかし間の悪いことに、ちょうど歩いていた柄の悪い二人組の目の前をかすめてしまった。
「あっ!」
「うおっ?」
「なんだっ?」
しまった、と思うまもなく、二人はじろりと史武を睨め付ける。
「あ……あの、すみません……」
思わず頭を下げた史武に、高校生くらいに見える、いかにも不良ですといった出で立ちの二人は顔を見合わせ、ニヤニヤしながら声をかけてきた。
「おう、そこの坊主。危ねぇことしてくれるじゃねぇか」
「ちょーっと来いや。おハナシしようじゃないの」
まずい。逃げなきゃ、と思ってもとっさに足が動かない。
躊躇っているうちに、二人のほうから史武のそばまで来てしまった。
「いま、おれらに空き缶蹴り飛ばしたの、お前だよなぁ? ああ?」
「おれら大怪我するとこだったぜ? どーしてくれんだ、ええ?」
「あ……あ……ごめん……なさい」
顔を寄せ、あからさまにすごむ二人に、史武の足がガタガタ震え出す。
その反応を見て、二人はますます嬉しそうに身体を揺すった。
史武を挟むようにして左右から腕を掴み、路地の建物の陰へと有無を言わさず連れ込む。
「さーて、どう落とし前付けてもらおうか?」
「ぼくちゃん、いくらワビ入れてくれんのかなぁ?」
下卑た笑いを浮かべながら史武を小突く。
史武は震えるだけで声も出なくなっていた。
カツアゲか、リンチか。
あるいはその両方がまさに始まろうとしたときだった。
「川原君」
二人の後ろから名前を呼ばれ、史武はびくっと飛び上がった。
史武を捕まえていた不良二人も、まさかこの場で声をかけてくる者がいるとは思っておらず、驚いて振り返る。
「まだ勉強途中でしょ。戻らないの?」
そこにいたのは、太郎だった。
「え……穂村? なん……で」
無表情で立つ太郎を見て、史武が涙目を大きく見開く。
「ああ?」
「なんだてめぇ。カンケーねーだろ。余計な口突っ込むんじゃ……」
立っていたのが史武よりさらに小柄な中学生と見て取り、追い払うかこっちもマトにするか、と相手の値踏みを始めた二人のうち、一人がよくよく太郎の顔を見てあんぐりと口を開け、固まった。
それで太郎も一人の顔には見覚えがあると気づく。
「あなたは……三宮さんの」
そう太郎が口にしたとき、固まった一人はぴんと背筋を伸ばして見る間に青ざめる。
もう一人は連れの様子が一変したことにまるで気づかず、史武から手を離すと太郎に向かって二、三歩近づいた。
「なあ。おれらはこのぼくちゃんと大事なお話し中なんだよ。わかる?」
「お……おい、待て。ダメだそいつ……いやその人は」
青ざめた一人が止めようとするのも意に介さず、もう一人は太郎に迫って胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
が、その手はあっさりと空を切った。
「なめやがって」
カチンとなり、不良は再度太郎を捕まえようとするが、何度やっても太郎に触ることができない。
とうとう掴むのはあきらめ、不良は拳を握って振りかぶった。
「このちび! ちょこまかと逃げんな!」
「ほ、穂村、あぶな……」
思わず声を上げた史武は、そこで信じられない光景を目にする。
この日、学習室に入ったときから、中に史武がいたことを太郎は見てとった。
史武とは一年生のときに同じクラスではあったが、格別仲がよかったわけではなく、また向こうがこちらに気づいた様子もないので、とくに声をかけはしなかっただけだ。
それが、ことりと真理がやって来た途端、史武の様子がおかしくなったのである。
ことりたちをきっかけに、史武も自分がいるとわかったようだと太郎は思った。
それにしても史武から向けられる『気』が、明確に敵意を含んでいたのだ。非常にとげとげしい意識を突きつけられ、そんなふうに敵視される覚えはないがなぁ、と太郎は首をひねる。
午前中いっぱい、史武の敵意は変わらず、勉強どころではなさそうな注意の向け方に、心当たりの浮かばない太郎は戸惑っていた。
やがて昼になり、先に史武のほうが席を立った。
飲食スペースでも、史武がいることはわかっていたが、ずっと睨み付けられている相手に、「ぼくなんかやった?」と訊きに行くのもどうなんだろうと、ひとまず様子見で太郎はことりたちと弁当を食べた。
まさかことりと真理が自分に弁当を用意してくれるとは思いもせず、その心遣いと、単純にたくさんご飯を食べられることが嬉しかったのだが、そのあたりから史武の敵意が殺意に近いところまで跳ね上がり、感情の揺れも激しくなって、太郎はますます戸惑っていた。
お昼がパンだけでは足りないのか、弁当を分けてあげればよかったのかな、とも思ったが、空腹の感覚は史武の『気』には含まれていない。
しかし、羨望や嫉妬は感じ取れた。
(うーん、何なんだろう? それにしても『気』を感じ取れるって、面白いけど、まだ慣れないや)
いまの太郎は、自分に意識を向けている相手がいれば距離や方向まですぐに感じ取れるし、どんな意志が込められているのかもかなり細かいところまで判別することができる。
また逆に太郎の方から意識を向けた相手が、どんな感情を抱いているのかも知ることができるようになっていた。
だが判別はできても、その感情の理由まではわからない。
なぜそんな感情を抱くに至ったのかについては想像するしかなく、太郎に史武の考えまでは読めないのだ。
食べ終わった弁当箱を洗おうとしたとき、史武が自分に何か仕掛けようと企んでいるのも、太郎にははじめから筒抜けだった。
わざとらしく顔を背けた史武本人は、おそらく慎重にタイミングを計って足を伸ばしていたのだろうが、見てから対処しても容易に避けられる太郎にとって、来るとわかっている足に引っかかることはあり得ない。
軽々と躱して史武の横を往復した。
(はて。川原君ってこんないたずらしたがる性格だったっけかな?)
そう思って最後にちらっと表情を窺うと、史武の感情にはなぜか怯えが混じり始めていた。
(ええ? どういうこと? 悪さしようとしてきたのはそっちなのに。ぼくは何もしてないのに)
飲食スペースから出た史武は、学習室へ戻るのかと思いきや、そのまま外へ出て行ってしまう。
史武も自分たちのように、使っていた机に置き札をしているのを目にしていた太郎は、様子のおかしいことが気になって、ことりたちに「先に戻ってて。ぼくちょっとトイレ」と言って席を立ち、史武を追いかけたのだった。
太郎が外へ出たときには、史武は不良二人に挟まれて建物の陰に連れ込まれるところだった。
予想と違う展開に、一瞬どうしようかと迷った太郎であったが、とにかく史武と話をしないことには始まらない。
何が起きたのかわからないまま、三人を追いかけて自分も路地裏へ向かった。
「川原君」
声をかけると、三人ともに太郎を見たが、反応はそれぞれだった。
それを見て、詳しいいきさつまではわからないが、何かのきっかけで、史武が不良二人に因縁を付けられたらしい、ということは想像がついた。
すぐに不良のうちの一人が太郎の胸ぐらを掴みに来たが、どこまで本気なのかよくわからないのろさである。
軽く下がってその手を避けると、半ば予想できたことだが、最後は逆上して殴りかかってきた。
(こういう人たちって、みなこうなのかな? 自分から突っかかってくるくせに、相手が避けると怒り出すのはおかしいと思うんだけど)
正直なところ、太郎は不良たちの典型的な反応にほとほとうんざりしていた。
さりとて、大人しく殴られる気にはならない。
軽く一発返せばそれで終わりにできることもわかっているが、相手に怪我させてしまうのも太郎の本意ではなかった。
(……ここは、黄先生の技を試してみるか)
自分に向かって伸びてくる右拳の斜め前方に踏み込み、前に出ながら避けると同時に、右手をすっと相手の右肘あたりに下から添える。
相手の動きの詳細が触れた部位から即座に伝わり、相手の重心や回転軸といった情報が感覚的にわかると、そこをどうずらせば良いのかも自然と見えて身体が動いた。
(なるほど、考えてないのに身体が動く)
理解と行動がほぼ同時であって、頭で行う思考を通過していない。
目の前のボールを掴もうとしたとき、頭でいちいち「右手を伸ばして、指を開いて」などと考えたりはしない。
それと同じように、やろうと思えば身体が勝手に適切な動きを選択している。
相手が自分の一部であるような、自分を相手と一体化するような、不思議な感覚に包まれながら、身体が動くに任せて相手の右手を巻き込むように軽くひねった。
「ひゃぁっ?」
殴りかかってきた不良は、右手を軸にしたドリルのような回転を始め、頭が下がるとともに両足が宙に浮く。
太郎が相手に触れたまま右手を下へ下ろすと、今度は前回りの回転も加わり、二つの回転軸で複雑に回りながら、頭から地面に突っ込んでいく。
(あ、これまずい)
そのまま行くと回りながら脳天が地面に刺さってしまう。
太郎はいったん右手を相手から離し、さらに踏み込みを足して背中と首の境目あたりに手を添え直すと、少し身体を支えてやる。
するとそれまでの回転運動が弱まると同時に、そこにはまた別の回転の中心ができて、頭より先に足が下がり、くるりと回った不良は見事に両足から着地した。
相手がきちんと自分の足で自身を支えて立つまで、太郎は背中に手を当ててサポートを続ける。
結果だけ見れば、体操競技の初心者が、コーチに介助されながら前方宙返りをぎりぎりで成功させたような絵になった。
「あ……え……?」
何とか一人で立った不良は、しかしぽかんとしてそのまま動かなかった。まだ目を回しているような表情だ。
「うわ……さすが……てっぺん」
見覚えのある方の不良が思わずつぶやく。殴りかかってきた方は、ようやく我に返ってキョロキョロし始めた。
「え? え? おれ、いったいどうなって……?」
「まだやりますか?」
太郎の声に、はっとしたようにこちらに顔を向けると、「いまおれに何しやがった?」と再び飛びかかりそうな素振りを見せた。
しかし今度は、もう一人が肩に手をかけて動きを抑える方が早かった。
「もう止めとけ!」
「んだよ、なんで邪魔する。おれは……」
「お前じゃ相手にならん」
「何言ってんだ? こんな中坊のちび助相手に」
一瞬、太郎の眉間に小さくしわが寄る。
「この人が、てっぺんだ」
「なに? てっぺん? はぁ? こんな……いや、て、てっぺん?」
その呼び名はなぁ、と太郎の眉間のしわがさらに深くなった。
「もう一度言ってやる。この人が、三宮さんにタイマンで勝ったてっぺんだよ。間違いねぇ」
「……こいつが」
「そうだ。お前、三宮さんに勝てるか? いやそもそも三宮さんとのタイマン受けられるのかよ」
「ばか言うな、無理に決まってんだろうが」
「その三宮さんよりこの人の方がつえぇんだぜ。……わかんだろ。おれは見たんだ、三宮さんが……負けるとこ」
「マジか……いや、そうだな。いまの……」
ふっと、不良たちから怒気が抜ける。
太郎は連れを止めた方の不良を見た。
「やっぱり、あのときバイクのところにいた人ですよね?」
三宮に呼び出されたとき、後ろで空ぶかしの爆音を立てていたバイクにまたがる特攻服の一人だったな、と太郎は思い出す。
今日はそこまで気合いの入った格好ではなかったが、記憶違いではないだろう。
「お、覚えててくれたんすか!」
相手の顔がぱぁあっと輝き、感激した表情で太郎に迫ってきた。
「おれ、三宮さんの後輩で、鷺丸って言います! また会えて嬉しいっす!」
いや、ぼくはぜんぜん嬉しくないけどね、と太郎は内心思うが、もちろん相手には伝わらない。
「あの……」
殴りかかってきた不良の方も、ちょっと神妙な顔になって寄ってくる。
「おれ……近藤主税っす。鷺丸のダチで、その……てっぺんの話は聞いてました。あの……ツっかかっちまって、ほんと、スンマセンした!」
いきなり頭を下げる近藤に、太郎は面食らう。ナニその態度の変わり方。
「それにしても……」
顔を上げた近藤は、先ほどの憎々しげな表情とは打って変わって、ものすごい笑顔であった。
「さっきのてっぺんの技、すごかったスね! どうやったんスか? おれ、なんかぐるぐる回ったことしかわかんなくて! びっくりしたっす」
しかも敬語? そっち年上だよね? 戸惑う太郎は無表情で通すしかなかった。
「いやおれ、てっぺんに投げてもらったことになんだな! うおぉ、ちょっと自慢になっちまうな!」
えええ?
何が嬉しいの?
そもそも自慢てなに?
太郎はもうどう反応してよいのかもわからない。
しかも、そう喜ぶ近藤を見て、鷺丸までうらやましそうな顔になるのはどういうことだろう。
「あの……勉強の続きがあるんで、もう行ってもいいですか? 彼ももう構わないですよね?」
とにかくこの場をすぐにも去りたくなって、太郎は切り出す。
不良二人は、一瞬残念そうな表情をするが、すぐに笑顔に戻って「もちろんす!」と声を揃えた。
「じゃあ、これで。……川原君、行こう」
太郎は後ろにいた史武に向かって言った。
史武は不安そうに成り行きを見守っていたが、太郎の声にはっとなると、すぐにがくがく頷いた。
「お疲れ様っす!」
並んで頭を下げてくる不良二人に見送られ、太郎は振り向きもせず、史武はおっかなびっくりで後ろをチラチラ見ながら路地裏を抜け出した。
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