第30話
とりあえず、太郎とことりは教室から離れ、事情を訊くべく廊下の隅へ海里を連れていった。
呼んでいないのに、外山もそれに付いてきた。
左手は海里の頭に載ったままだ。その姿勢だと、海里がおとなしく従うので都合は良かった。
さらに言えば、外山と海里だけなら、校内でそんなマネをしていたらすぐに職員室へ通報が飛ぶが、そこに太郎とことりがいれば、直ちに先生を呼ぶべき案件とは思われずに済んだ。
いっぽうで、海里に太郎とことりの組み合わせだと、なんだかんだと野次馬の群がってくる可能性が高く、そこに外山が入るだけで誰も近寄ってこなくなったので、人払いにはぴったりであった。
「あんた、やけに早く学校行ったと思ったら、ここで何してるわけ?」
ことりが海里を問い質す。
「え……と、それは……」
海里は目を泳がせるが、そらした顔を無理矢理に、ぐいとことりが自分の方に向けさせた。
「はっきり言いなさいよ」
姉の強引な振る舞いに、海里がちょっとむっとして睨み返す。
「姉ちゃん」
「何よ?」
「……ほんとに、この人が一昨日言ってた穂村太郎なのか?」
海里が太郎を指して訊いた。
「……一昨日?」
「弟に何を言ったんだ、世羅は?」
太郎と外山には話が見えない。
世羅家の中の話であろうとは思ったが、どんな流れで太郎の名前が出てきたのかなど、二人には知りようがない。
「そ、そうよ。この人よ」
ことりは少し気まずそうに応じた。
海里に余計なことを言ってほしくないが、いまは釘を刺せない。
「この人が、外山さんに勝ったってのはさっき訊いた。けど、ほんとうに三宮さんて先輩との喧嘩にも勝ったのか?」
「え!」
太郎は驚いて海里を見た。なぜそれを知っている?
ことりは三宮の話を知らなかったようで、何のことと言わんばかりに太郎を見た。
「た……穂村君、まだほかにも喧嘩したの?」
「おうよ」
そこでなぜか太郎ではなく、外山が割って入る。
「伝説の喧嘩屋と呼ばれた、無敗のカリスマを相手に、穂村がワンパンで勝ったのさ。それからこいつの異名は市内五中のトップってことで、てっぺんと……」
「まてまて、待ってストップ!」
これ以上、妙な評判を広めないでと、太郎は懸命に外山を遮った。
「なんだよ、これからタップリ語ってやろうと思ったのによ。まあこいつが勝ったのはほんとうだ。おれもその場にいたからな」
外山の言葉に、海里がそれでも胡乱げな視線を太郎に向ける。
とはいえ、目撃者である外山から直接、事実であると伝えられてさえ、話を聞いただけでは信じられない気持ちになるのも、外山にはよくわかった。
目の前の太郎は、喧嘩が強いどころか、そもそも喧嘩しそうにすら見えないからだ。
「で、なんできみはその話を知ってるのかな?」
太郎が海里に尋ねる。
「え? だって、うちのクラスでもみんなが噂してたから……」
ほんとうは海里も昨日初めて知ったのだが、自分だけ知らなかったと思われたくなくて、その点は少し話をごまかした。
しかし、太郎はみんなの噂になっていると聞き、がっくりと肩を落とす。
その太郎の背中をばんばん叩きながら、外山がげらげら笑った。
「まあそんだけ三宮さんがすごかったってことよ。それに勝っちまったんだから、もうすっかり有名人だな、ええ?」
「勘弁して欲しい……」
太郎は下を向いてぼやいた。
「それで、この人が穂村太郎だったら何なのよ?」
あらためてことりが海里に訊いた。
「それは……」
ごくりと海里が覚悟のつばを飲み込む。あんなに悩んで決心して、ここまでやって来たのだ。いま言わねば意味がない。海里はきっと太郎を睨んだ。
「お願いだ! ね、姉ちゃんと別れろ……て、ください!」
太郎とことりの目が点になった。
「……は?」
「ちょっとぉ! 海里あんた何を……!」
「ほぉ」
外山だけが、おもしれぇと言いたげににやっと笑う。
「なんだ、おまえらやっぱり付き合ってたのか」
「やっぱりって何だよ……違うよ」
太郎が頭を抱えている。
「……付き合っては、い、いないわ」
ことりは真っ赤になってぷるぷるしている。目が泳いでいた。
「え? だってこの前は姉ちゃん……!」
「黙りなさい。黙れ」
ことりが海里のほっぺたを掴んで黙らせようと迫る。姉の手から逃げようとするが、海里の頭はいまだに外山の左手で押さえられたままだったので、思うに任せず、あっさりと捕まった。
「なにがどうして、そういう話になったのよ? ねぇ海里!」
頭を押さえられ、ほっぺたを掴まれながら、それでも海里は懸命にそっぽを向こうと頑張った。
「黙れって言ったくせに……」
「海里! 言いなさい!」
強い口調でことりから責め立てられると、そこで海里の懸命にこらえてきたものが堰を切って流れ出した。
目尻から涙がこぼれ落ちる。嗚咽が漏れて、きちんとしゃべれなくなった。
「だ、だって、姉ちゃんの彼氏が、そ、外山さんぶっ飛ばせるよ、ような喧嘩狂の、ふ、不良だって知ったら……」
「ふえっ?」
「か、彼氏って……」
「……喧嘩狂の、不良だとよ? くくっ」
反応は三者三様であったが、目を見開く太郎に、外山が実に嬉しそうな笑顔を向ける。
「お、おとっ、お父さん、お父さんたちが、し、心配っ、心配するに、きまっ、決まってる!」
腕でぐいっと涙を拭いながら、海里は必死に言葉を絞り出し続けた。
「だかっ、だからっ、おれっ、おれがっ、……ひぐっ。おれがっ、なんとか、し、しようと……ふぐぅっ」
「海里……あんたってば……」
ことりは海里の顔から手を離す。
呆れたように、しかしちょっと嬉しそうに、腕で隠した弟の泣き顔を見つめた。
「なんとも健気なこったぜ……だけどよ」
外山がにやにやしながら言った。
「おれより強いその喧嘩狂に、どうやって言うこと聞かせるつもりだったんだ?」
「えっ?」
「いや、いくらおまえが気に入らないからって、付き合ってる二人に別れろと言って別れさせることなんざ、簡単じゃねえ。ましておまえは、相手がうんと喧嘩っ早いやつだと思ってて会いに来たんだろう?」
海里がごしごしと涙を手で拭いて、なぜか外山ではなくまた太郎を睨む。
「余計なお世話だと、ぶん殴られると思わなかったのか?」
海里はわななく唇を噛みしめる。
だがその様子は、気づかなかったことを指摘された悔しさというよりも、むしろそんなことはわかっているとでも言いたげな表情であった。
「な、殴られても、よか、よかった」
「なん……?」
海里の応えに、ことりが口を押さえて眉をひそめる。
「なぐっ、なぐられっ、殴られてっ、お、おれが怪我すればっ……ね、姉ちゃんも、そいつが、ひどいやっ、ひどいやつだってっ……わかって、くれるとっ……ぐすっ」
拭いても拭いても、まだ海里の目からは涙が止まらず、こぼれ落ちてくる。
「へぇ、こいつは驚いたな。弱いのを逆手に取る作戦とは恐れ入った。……考えてんじゃねぇか」
外山が感心したように言うと、乗せていた左手で、がしがしと海里の頭をかき回してからようやく離した。
「海里……」
ことりはなんとも言えない様子で弟を見つめる。
「喧嘩狂の不良……ぼくが……」
ひとり、太郎だけがショックを隠せない。
ややあって、嗚咽も収まってきた海里を、ことりがついと抱き寄せた。
「ちょっ? やめっ、姉ちゃん?」
慌てる海里だが、力ではことりが上である。構わず強く抱きしめる。
「あんたがそんなにわたしのこと心配してくれてたなんて……嬉しいわ」
「ば、ばか止めろ! ちげーし! はな、はなせよ!」
真っ赤になりながら、懸命に押し返して姉の手から海里が逃れたとき、ちょうど予鈴のチャイムが鳴った。
この五分後に鳴る本鈴までに、生徒は席に着いていなければいけないのだ。
三人からぱっと距離を取った海里が、太郎に指を突きつける。
「いいか、頼んだからな! ちゃんと別れろよ!」
チャイムの余韻がまだ残る中、そう言い捨てると、くるりときびすを返して一年生の教室の方へ逃げていった。あとには、にやにや笑いの止まらない外山と、嬉しそうな困り顔という複雑な表情のことり、そして仏頂面の太郎が残される。太郎は海里を見送りながらぼやいた。
「……世羅さんの家系って、ユニークな人が多くない?」
「ええっ? なんで?」
太郎のため息と、吹き出した外山の笑い声が同時だった。
東部中の一学期の期末試験は、この週の後半に三日間かけて行われる。
そのため、試験前日にあたるこの日は部活動が休みと決まっていた。
授業が終わっていつもより早く家に帰ったことりは、海里を捕まえるために部屋のドアをノックした。
「海里、いるんでしょ? 入るよ」
返事を待たずに中に入る。勉強机の前の海里は、ちらっとだけ振り向いてまた前に戻った。
「……いいって言ってないのに、入ってくんなよな」
「そんな悲しいこと言わなくていいじゃなーい。……え、あんたゲームじゃなくて勉強してんの?」
ことりが後ろからのぞき込んだ海里の机には、ゲーム機ではなく広げられたノートがあった。
「……明日からテストだろ。姉ちゃんこそ、勉強しなくていいのか」
スポーツばかのくせに、とこれは口の中のつぶやきである。
さらに言うなら、昨日まったく勉強できなかったために今日やるべき内容が増えてしまったのだ。
それは誰のせいだと思っているのか、と海里は言いたかった。
実はばかといわれるほどことりの成績は悪くない。しかし、海里の方が姉より勉強は得意であった。
「わたしくらいになるとね、前日にジタバタなんてしないのよ」
いや、しろよ、とこれも海里の口の中の突っ込みである。
「姉ちゃん、今日はちょっと嬉しかったよー」
にこにこしながらそう言うと、ことりは海里の頭に手を載せて、髪の毛をわしわしとかき回した。
「だからそれ、止めろっていつも言ってるだろ!」
「えー、海里の髪の毛さらさらで気持ちいいんだって。外山君もずーっと触ってたじゃない」
あれは頭を掴まれただけだろ、と海里。
あの手の大きさ、握力。東部中最強の通り名は伊達ではないと感じられた。
その外山自身が「おれに勝った」とはっきり口にしたのだから、あの穂村太郎は実は強いに違いない。……あんな見た目で、いまだに信じられないのだけれど。
海里が急に抵抗を止め、黙ってしまったので、ことりは不審に思って顔をのぞき込む。
「海里?」
「……姉ちゃん」
「何よ」
「あの、穂村……さんって、ほんとに強いのか」
「そうね、強いわね」
強いどころではないのだが、詳しいことは言えないのが残念だ。
「でも、喧嘩狂にも不良にも見えなかった」
ゴリラみたいな相手を想像していたのに、背丈も自分とあんまり変わらなかったし、と海里はつぶやく。
「うーん、たぶん不良とは真逆だと思うわよ。成績は学年トップだし」
え? と驚いて海里がことりを見る。
「……頭いいのか、穂村……さん」
「うん。そっちは見た目どおりよね」
「なんで……?」
「ん?」
「喧嘩強くて頭もいいだなんて……なんでだよ」
それはもう、宇宙人からもらったナノマシンの身体だからよ、と言いたいのをことりはぐっとこらえる。
「ズルいよ、それ……」
姉に聞こえないくらいの小さな声。
海里は自分が弱いことを知っていた。
同学年で喧嘩したって、たいていのやつよりきっと弱いのだと自信を持って言えるくらいで、上級生になぞ到底敵うわけがない。
だから、姉のことを諦めてもらうには、捨て身で行くしかないと考えた。相手が喧嘩だけの乱暴者だとするなら、逆に言えば頭を使うことでまだ対抗できると考えていたのである。
それなのに、成績もよくて喧嘩も強いだなんて、それは。
それでは、姉を取られてしまうではないか……。
(って、何考えてんだ? 別にいーじゃんか、姉ちゃん取られる? おれシスコンじゃねえし!)
思わぬ方向に進んだ考えを、海里はぶんぶんと頭を振って追い払う。
そんな弟を、太郎の言うとおりに確かに面白いかも、と思いながらことりは眺め、そうして後ろから海里の頭をぎゅっと抱いた。
「だからね、海里」
びくっとして逃げかける海里に、逃がすまいとことりはさらに力を込める。
「お姉ちゃんは大丈夫。でも心配してくれてありがとう」
海里はことりのなすがままに任せて、じっと黙っていた。が、ふと思いついて訊いてみる。
「で、姉ちゃん。結局、その穂村……さんとは付き合ってるの? 付き合ってないの? どっちなんだ」
ばっと海里からことりの手が離れた。
「ちょ、なんでまたそれ……」
「だって、姉ちゃんがはっきりしないからだろ? 家ではなんか匂わせておいて、今朝の学校では付き合ってないとか言うし。付き合ってないなら、おれ、穂村……さんに、すごい間抜けなお願いをして来ちゃったことになるんだけど」
あれがお願いという物言いか? とことりは呆れたが、そういえば太郎に対しても、海里の暴走はあとでちゃんとフォローしておかなければならない。
学校ではとてもではないが、十分な話をする暇がなかった。
「つ、付き合っている……とは、うん、確かに言えない……かも、ねぇ?」
歯切れの悪い言葉になるが、ほんとうはただ付き合っているなんてレベルよりも、自分がいまのところ世界でたった一人、ヒーローの秘密を知りサポートできる立場というきわめて重要な関係なのよ、と言いたいところだった。
また太郎にとっても自分は秘密を明かした相手として、特別視をしてもらえているという自負はあるが、おそらく「付き合っている」という認識はないに違いなく、こちらがもし独り相撲で「付き合ってます」と宣言なんてしてしまった日には、恥ずかしくてもう学校へ行けなくなる。
「でも」
海里は言う。
「姉ちゃん、穂村……さんのこと好きだろ」
「ななな、なんてこと言うのよ、あんたちょっと!」
ことりが泡を食ってわたわたし始める。久しぶりに姉を慌てさせることができて、海里はにやっと会心の笑みを浮かべた。
「だって姉ちゃんわかりやすいからな。傍から見てても全然隠せてなかったし?」
「ばか! 生意気言ってんじゃないわよ! もう知らない!」
そういうと、ことりは逃げるようにダッシュで部屋から出て行ってしまった。
続いて、すぐ自分の部屋に飛び込んでいく音がする。
たぶんそのままベッドにダイブしてジタバタするんだろうな、と海里は姉の行動パターンを予想した。
するなら勉強でジタバタしろよ、と海里は嘆息する。
「……ふん」
ややあってから机に向き直り、海里はテスト勉強を再開した。
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