第28話
太郎は帰宅するなり、ため息とともにベッドに倒れ込んだ。
結局今日の学校では、ことりと話をするようなチャンスはまったくもらえなかった。
それどころか、相変わらず目が合えば逸らされる始末である。昨日からずっと、ことりの自分に対する態度に変化は見られない。
自分は何をしでかしたんだろう?
よくよく日曜日の行動について思い出してみる。
誘拐犯と格闘したり、ピストルで何度も撃たれたり、果ては宇宙人と会話して、自分がもう人間ではないことを知ったりと、強烈なインパクトの出来事ばかりが連続していたため、きちんと考え直さないと、いったい何が問題だったのかさえわからないのだ。
ことりに関することだけに限定し、ひとつずつ記憶を辿っていくと……思い当たることは、あった。
「そういえばあのとき、誘拐犯からかばうのに、世羅さんを抱き寄せて、そのうえ抱き上げて運んだんだった」
そうせざるを得ない緊急的処置ではあったが、その際に太郎はことりの同意を確認していなかったことに気がついたのだ。
つまり。
「……ぼく、世羅さんにとんでもないセクハラをしてしまったのでは?」
女子相手に同意もなくその身体にがっつりと触れ、さらに無理矢理抱えて運んでまでいる。
これは深刻な事案といって差し支えのないレベルであろう。太郎は頭を抱えた。
「うわぁ。なんてことだ……なんてことだ」
謝らなければ。しかし話ができないのにどうやって謝ったらいいのか。
こんなとき、せめて相談できる相手がいればいいのだが、あいにく太郎にはそんな友達も大人の知り合いもいなかった。
秘密の話を共有できる相手としたら、まさにことり自身がいまもっともそういう対象に近く、さすがに本人に関する相談ばかりはどうしようもない。
その次によく話をしている相手は、いまなら外山くらいであって、これはもう相談相手としては論外だった。
悶々としながら、それでも太郎はのろのろと机に向かって宿題とこの日のぶんの勉強をこなし、やがて京子が帰宅したしばらくあとには階下に下りて、この日も以前の三倍量の夕食を食べた。
どこか上の空の息子の様子に、京子も気がついてはいたが、このところの太郎の「ちょっと変」の中ではたいした部類ではなく、思春期の子どもにあれこれ詮索するのもどうなのかと思い、とくに何も言わなかった。
夕食後、しばらくはぼーっとテレビなども見ていたのだが、それも飽きて再び自分の部屋に戻った太郎は、ふと置きっぱなしにした携帯端末のメッセージポップに気がついた。
見ると、なんとことりからであった。
「このあと、電話してもいいですか?」
と書かれたメッセージのタイムスタンプは、15分ほど前である。
ことりは、自室でじっと自分の携帯端末を見ていた。
思い切ってメッセージを送ってから、15分あまり。太郎が端末を常に携帯するタイプでないことはわかっていたが、それでもいつ来るかもわからない返事が気になって、手から離すことができないのだった。
(もしかして、まだ気がついてもいないの、かな?)
それなら仕方がないが、まさかメッセージを見たうえで、なお無視されていたらどうしよう。
そういうこともあるかも、と覚悟して送ったつもりではあるが、そうだったらとても悲しい。かといって、既読かどうかを確認するのも怖かった。
ふう、とため息を吐いたそのとき、いきなり手にした携帯端末が着信音を奏で始め、ことりはびっくりして椅子から飛び上がった。
表示を見ると、かけてきたのは太郎であった。
「え! え? 返事じゃなくてかかって来ちゃったの?」
すぐに出なくちゃ、と慌てたために却って手の中で端末が踊ってお手玉となり、うっかり跳ね飛ばしてしまう。携帯端末は着信音を鳴らしたまま、机の向こう側に落ちてしまった。
「うそ! やだちょっと待ってよ!」
悲鳴を上げながら床に這いつくばって端末を追いかけ、何とか場所はわかったが、机と壁の隙間に入り込んでなかなか手が届かない。
「冗談でしょ! よりによって、いまこんな……」
太郎があきらめて電話を切ってしまったらどうしよう。こっちからかけていいかと訊いておきながら、電話に出ないなど最悪の態度ではないか。
「もうちょっと……お願い……とどい……て」
懸命に手を伸ばし、何とかストラップの端に指がかかった。
やった、とことりが思ったそのとき、非情にも着信音はぷつりと切れて、端末は沈黙したのであった。ことりは伸ばしきった腕もそのままに、がっくりと頭を垂れて突っ伏した。
「なんでこうなるのよ……」
泣けてきそう、と思った瞬間、再び着信音が再開した。
がば! と身を起こした拍子に、ことりは机の下に頭をぶつけて悶絶する。
そこを何とか耐えきって、今度こそ端末を手元に引き寄せた。太郎からのコールであることを確かめ、それから慎重に通話ボタンに触れる。
「……もしもし?」
「あ、こんばんは。穂村です」
よかった。間に合った。今度は安堵で涙が出そうになる。
「いま、電話大丈夫かな?」
「うん、大丈夫。ごめんね、すぐに出られなくて」
「いや、全然。……ほんとに大丈夫だった?」
「もちろん」
ことりはできる限りにこやかに答える。
ぶつけた頭はじんじん痛むし、床に四つん這いのおかしな格好のままだが、うん、大丈夫なのだ。
何も問題はない。
「わたしからかけるつもりだったのに、かけてもらっちゃったね。ありがとう」
「いや、そんな……ぼくこそ、こっちからかけるねと言うべきだったんだ」
ぼくこそ? はて、とことりは思う。電話の向こうの太郎に、ちょっと言い淀む気配があった。
「……ぼく、世羅さんに謝らないといけないことに、やっと気がついて」
ええっ! とことりが驚いて声を上げる。謝る? 太郎が? なんで?
「ど、どういうこと?」
「その……昨日、ぼく亜佳音ちゃんの家の玄関で……」
お姫様抱っこ! ことりの顔が一瞬でぼっと朱に染まる。前振りもなくいきなりそれが来るのか。
まずい、このままだとまたどこか破裂してしまうかもとことりは焦った。
「あの……世羅さんの了解もなしに、その、つまり」
お姫様抱っこしてくれた!
そうよ、そうなのよ。
でもそれちょっと待って、言わないで!
言葉にされたらほんとうに破裂しちゃう!
ことりが茹で蛸のようになってもだえ始める。
「世羅さんに触ってしまったから……それですごく不快な思いをさせてしまったんだろうと……」
そう! 不快だ……え?
「だから、ほんとうにごめんなさい! 申し訳なかったと思ってます」
「えええ~っ!」
「え? それでぼく、世羅さんに避けられてたんでしょ? 違うの?」
ことりは二の句が継げなかった。
なんということであろう。
どうしてそんな誤解に至ってしまったのか。
というか、これはもう原因は自分か。
ことりの態度が、太郎にこんな勘違いをさせたのか。
ことりが黙ったままだったのを、太郎は肯定と受け取ったようだった。
「その、許してもらえないかもしれないんだけど、でもちゃんと謝りたかったから……ごめんなさい」
そのまま、いまにも電話を切られそうな気配を感じて、ことりは慌てて叫んだ。
「だめ!」
「うぇ? ……ダメだった? やっぱり怒ってたんだ……そうだよね」
なぜそうなる。
「ち、違うの、そのダメじゃなくて……まだ電話切らないで!」
「あ? うん、わかった」
とりあえず時間をかせぎ、ことりはまず落ち着きを取り戻すべく深呼吸した。
何よりもいますぐに、太郎の誤解を解かねばならない。
「あのね、まずはっきりしとくね?」
「……うん」
なんだろう? 太郎の声音から、なぜか判決待ちの被告人の雰囲気を感じる。なんでそこで生唾飲み込む音がするの?
「わたしは太郎ちゃんから、不快な目になんて遭ってないです」
「……え?」
「亜佳音ちゃんの家で誘拐犯から助けてもらって、ただただ感謝してます。今日電話しようとしたのも、そのことでちゃんとお礼を言ってないと思ったからです。嫌な思いなんて、ほんとにこれっぽっちも感じてないです」
「……」
「……聞こえてる?」
「あ。うん、聞こえてる。……じゃあ、なんで」
太郎は言葉を切ったが、言いたいことは痛いほどわかった。
なぜあんなに太郎と視線を合わさず逃げ続けたのか? と問いたいのだろう。
そう、全部自分がいけないのだ、とことりは目を瞑る。
「太郎ちゃんをつい避けちゃったのは……」
やっぱり避けてたんだ……という声なき声が伝わってくる。
ちょっと黙ってて欲しい。
いや黙ってるのか。
ああもう、自分でもわけがわからない。
「その、ちょっとだけ、は、恥ずかしかったので……」
「……恥ずかしい?」
何が? とつぶやく太郎は素で理解できなかったようだ。
「だって世羅さん、いきなりあんな誘拐犯から乱暴に捕まえられて、口塞がれてピストルまで見せられたら、怖いのは当たり前だよね。びっくりだってするよね。ちょっと泣いちゃっても、恥ずかしいことなんて……」
「な、泣いてた? わたし、泣いてたっけ?」
逆にことりが驚いて訊き返す。まったくそんな覚えはなかった。
「え? うん。……ちょこっとだけ、涙目だったかなと」
「忘れて! それ、いますぐ完全に、きれいさっぱり忘れてぇ!」
悲鳴のようなことりの声に、太郎は慌てて「はい、忘れる!」と答えてきた。
「……ほんとに忘れた?」
「うん、忘れました! 完璧に」
「……なら良し」
ぷっと、太郎が吹き出した。つられてことりも笑い出す。しばらく二人で、声を上げて笑った。
ひとしきり笑い合い、ようやく収まったところで、あらためてことりが呼びかける。
「太郎ちゃん」
「はい」
「助けてくれてありがとう。お礼が遅れちゃってごめんなさい。わたし、この件で太郎ちゃんから嫌な目になんて、ひとっつも遭ってないからね? それは誤解しないで欲しいの」
「うん……良かった」
太郎のほっとした雰囲気が、電話越しに伝わってきた。どうやら誤解を解くことができたようだ。
「それでね」
「うん」
「太郎ちゃんが誘拐犯を自転車で追いかけてったあとの、詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」
ここからは、ことりの欲望が全開のターン。そして、太郎の長い長い話が始まった。
結局、太郎は迷いなく、あったことすべてをそのままことりに伝えていた。
どこまで伝えようとか、これは話さないでおこうとか、そうした線引きを一切考えることなしに、話せるまま、訊かれるままに包み隠さずすべてことりに話したのであった。
電話する前には、太郎はまだ逡巡していた。
自分の中でどこまで話すと決めていないうちに、電話してしまって大丈夫だろうか、と心配だった。
しかし、ことりからのメッセージを見たとき、いまがそのタイミングだと確信したのだ。決めかねたままでいい、いまを逃してはダメだ、と強く感じた気持ちに素直に従って、ことりへ電話をかけた。
少なくとも、セクシャルハラスメントの謝罪だけでもしておかなければならない。それで電話を切られてしまったら、それはそれで仕方がない。そう思い定めていた。
ところが、ハラスメントはとんだ思い違いで、ことりの態度も怒っていたわけではないとわかった。
「恥ずかしかった」ということりの説明には、いまひとつ納得しかねるところはあったが、怒っていないのならそれでいい。
ほっとしたためなのか、そのあとの話は、まるであらかじめ用意でもしていたかのように、スムーズに口を突いて出た。重要な部分は隠したとはいえ、一度は亜佳音の家で順を追って話した記憶が、まだ新しいせいなのかもしれなかった。
力を失いかけてピンチになったことも、勝ってから頭をピストルで撃たれたことも、それで宇宙人と遭遇したことも、ちょっとだけ躊躇いはしたけれど、ありのまま伝えてみることにした。
ことりからは大いに驚かれたり心配はされたが、その声音に嘘を疑う響きや、虚言と馬鹿にするような含みはまったく聞き取れず、純粋に興味を持って受け入れてくれた。
もしそこでちょっとでも、信じていないのに話を合わせているだけと感じられたら、すぐに太郎は続きを話せなくなってしまっただろう。
自分だって、自身の体験でなければとても信じられないような内容であったからだ。
ただそれでも、自分が既にこの世におらず、ナノマシンで作られたコピーなのだと告げるときには、大変な勇気が必要だった。
勢いに任せてしゃべってしまったものの、相手の声しかわからないので、話している最中の表情の変化までは察することができない。いま、ことりがこの話をどのような顔で聞いているのだろう、ということはものすごく気になった。
と、ふと太郎は携帯端末の画面に、ことりの顔が大写しになっているのに気がついた。どうやらことりは、端末をハンズフリーにして前に立てかけながら話しているらしい。
(なんだこれ?)
太郎は戸惑いを隠せなかったが、思い当たることはあった。
(あ! これか? ナノマシンの忖度ってのは)
三宮との勝負の際、周りから動画を撮られたくないという思いに、ナノマシンが応えて録画を阻止してくれたように、いまことりの表情が見たい、という太郎の願いを、携帯端末のカメラを使って叶えてくれた、というわけだ。
ことりのほうはどうなっているのかわからないが、おそらく顔が見えているのはこちらだけで、ことりの端末に太郎は映ってはいないのだろう。
(……つまりこれって、盗撮なのでは?)
そう思うと後ろめたさを感じたが、それでも目は吸い寄せられてしまう。
画面に映し出されたことりは、ひたすらに興味津々で、嬉しそうで、楽しげで……きれいだった。
画面のことりに向けて、太郎は言葉を継ぐ。
「ああ、もとのぼくの身体? なんか消滅してこの世からなくなってるってことみたい」
「それで交通事故って……ひどくない? その宇宙人」
「ひどいよね」
「でも、身体は変わっても、中身は太郎ちゃんなんでしょ?」
「中身……」
中身とは何だろう、と一瞬思ったが、それは何をもって太郎が太郎であると認識されるのか、という根幹の存在に関わることだ。
外見? 能力? 性格? 記憶? 命? それとも魂? 何を失ったとき、太郎は太郎でなくなると言えるのか。
ひとつずつ引き去っていったあと、太郎を太郎たらしめている、最後に残るものは何か? その答えをぽんと出すことはいまの太郎にはできなかった。
ただ、ここにいるナノマシンの集合体は、それでも間違いなく太郎自身である、と太郎は認識している。認識できている。
であれば、中身は太郎、というのはその通りなのではないか。
「うん、そうだね」
「だったら、きっと大丈夫よね。太郎ちゃんじゃなくなってしまわない限り、太郎ちゃんは太郎ちゃん。そうでしょ?」
「うん。……そのとおりだ」
嬉しかった。
もしオリジナルの太郎ではなくなったことで、ことりに拒絶されたらどうしよう。
あなたはもう、穂村太郎なんかじゃない。そう突き放されたらどうなるのだろう。
太郎がもっとも恐れ、怯えていた反応を、ことりはひらりと飛び越えてしまう。
我知らず、太郎の目から大粒の涙がこぼれだした。
ボロボロとあふれてくる涙は、太郎の頬を伝って落ち、机に染みを作った。
それを見て、太郎は自分が泣いていることに初めて気づき、ぎょっとなった。
「うぇっ?」
「? なに、どうかした?」
太郎が思わず発した声に、ことりが反応する。
「あ、いや、なんでもないよ、こっちのこと」
「……何か怪しい」
「怪しくない、怪しくない!」
ことりからも自分の泣き顔が見えてしまうような気がして、太郎はせっかく映っていることりの顔を消してほしいと、慌てて強く考える。
わずかなタイムラグのあとで、ことりの顔は太郎の携帯端末から消えた。
見えなくなったのはこちらなのに、なぜかほっとして、太郎はティッシュをつかみ出し眼鏡を外して涙を拭き取る。
顔に押しつけたティッシュの下で、自然と口角が上がっていくのを感じていた。
お読みいただきありがとうございます。
週に1話ずつ更新します。
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