35-1.アネネとチョーワ
マクは自嘲して笑う。
「情けないな、おれは。そこまでされなきゃ、あいつを抱けなかった」
「母さんは結婚してたんだから、マクがそうできなかったのも仕方ない……よ」
倫理の是非を問えば、マクとリックの関係は許されないものだ。だがリックの心は確実にそれで救われた。それはリックの感情を読むのに長けていたカノンにはよくわかっている。だから本当は言いたい事は逆だ。どうしてもっと早くに母さんを受け入れてやらなかったんだ!
「ディアンダに隠れて関係を持っている事は心苦しかった。だがリックはおれが抱きしめると、泣いたんだ。こんなに安心した気持ちになれたのは初めてだと言って泣いたんだ」
マクはまた自嘲する。
「おれはただのバカだった。あいつの幸せを何も考えてやれていなかった。あいつの幸せこそが、おれの幸せだと気づけなかった」
本当にそうだ、とカノンは言ってやりたかった。だがその言葉の代わりに、涙が浮かんでくる。
「だからこれはおれの勝手な言い分なんだ。今のおれの幸せは、おまえが幸せになってくれる事。おまえにどんなに責められる事があったって、おれがおまえの幸せを願う事に変わりはない」
カノンはかろうじて頷いた。涙がさっきとは違う理由で湧いてくる。しかしカノンはためらったが、まだマクに聞きたい事が残っていた。青空を映す神が言っていた言葉の真偽を確かめたかった。だから最後にリックの死に様を尋ねた。
「リックは胸を抉られたようなひどい傷があった。痛かったろうにな。そんな殺し方をしたあいつをおれは……」
マクは歯ぎしりしてその先を言わなかった。母さんは喰われたんだ。そんな事は口が裂けても言えない。カノンの涙はまた別の意味になって流れる。だがマクはふっと息を吐いて、カノンが驚く言葉を呟いた。
「守る。おれはそんな事すらできなかったんだな」
その言葉は以前別の人から聞いた。狂気を忘れろ。家族を守れ。ひたすらそう伝えてくる言葉。マクが「許さない」という言葉を口にしなかった理由もそれだったのかもしれなかった。カノンはその夜三つの涙を流しながらベッドの中で眠った。
西エルフは、やや後ろ向きに耳が伸びている北エルフと違い、横向きに耳が伸びている。また北エルフは色白、面長で鼻筋の通った者が多いが、西エルフは丸顔で鼻ぺちゃな者が多い。肌色も黄色、もしくは浅黒い。
そんな西エルフの特徴をそのまま持っているその少女の名はアネネ。髪の毛はショートカットで、歳は十七だ。一緒にいる緑色の鱗の竜人は、チョーワという名で十五歳。二人は幼馴染だ。
「あたしはまだ竜人が残っていた村で、竜人に育てられたんだ。本当の親? そんなもの知らないよ。あたしの親はチョーワの親だったパパとママだけさ」
後にカノン達と出会う事になるアネネは、カノン達にそう話した。
「パパとママは病気になって死んじゃったんだ。ママは元々体が丈夫じゃなかったからね。パパにもそれが移っちゃったんだ。あたしがいた村では竜人は恐れられててね。医者も来ちゃくれなかった。でもママ達は恨み言は一切言わなかった。いつでも優しくて、誇り高くて。あたしはそんな人達に育てられたのが自慢なんだ」
アネネとチョーワは、もうこの国に入ってきた時のようにフードを被って歩いてはいない。このカラオ国の端の町ではもうちょっとした有名人になっていて、二人が歩いていると誰かしらが友好的に声をかけてくる。
日雇いのバイトで配達を手伝っていると、八百屋のおかみさんはリンゴを投げてよこしてくれる。アネネは本気でこの国に永住しようかと悩んでいるくらいだ。
「竜人の国? 行ってみたいけどね。あたしは心は竜人だけど、外見は西エルフだから。竜人の国は今は他の人種が入り込むのを拒んでるって話だし、パパとママもあたしを連れていけなかったんだ」
アネネとチョーワはカラオ国の別の町にも足を延ばしてみる。いちいち声をかけてくる人がいるのはちょっとうざったくもあったが、気分は悪くない。それに誰もチョーワを見て鱗を狙おうなどとしない。……と思ったが、やはり全員が全員味方じゃない。チョーワを見ながらひそひそ話をして、後をつけてくる者が三人。この国には珍しい翼人がいると聞いて、人気の少ない森の方向に歩いているのも悪かった。
大樹の森の大きな木が見える広場まで来ると、男達がアネネとチョーワを取り囲んでくる。
「殺したりはしねえよ。ちょっと鱗をもらうだけだ」
なんて事を言ってくる。竜人の誇りである鱗を奪われる事は、死ねと言われているようなものだ。チョーワは状況が分かっていないのか、にこにこ笑いながら「アーアー」と言っている。
チョーワは言葉を知らないわけでも知能がないわけでもない。ただ性格が小さな子供のものから成長せず、意味ある言葉をあまり喋ろうとしない。アネネが腰から短剣を取り出してからやっと不穏な雰囲気に気づいたのか、今度は不安そうに「アーアー」と言う。
アネネが武器を取り出した事で、男達の目の色も変わった。不気味に無言になり、それぞれ剣や短剣を取り出す。
「チョーワ、あたしが合図したら、あんたは走るんだよ。……さあ、走れ!」
アネネはその言葉と同時に男達に突っ込んでいく。しかしチョーワは逃げようとしない。おろおろとしているだけだ。
「何やってんだ、バカ! 走れ! 逃げろって!」
三対一で、しかもチョーワに気を取られているアネネが男達に敵うわけもない。アネネは腕を捻られて、地面に転がされる。
「ちくしょう!」
アネネが悪態をついてなおも暴れようとしていると、鳥が羽ばたくような音が聞こえた。そして「何してるんだ?」という女の声も聞こえてくる。
「と、り」
チョーワが近づいてきた者に気づいて、そう言葉を放つ。アネネも見た。翼の生えた人が、アネネと変わらないくらいの少女に連れられてやってくるのを。アネネにはそれが神秘的な光景に見えた。




