3-2.逃亡
マクは足を引きずって歩いていた。火傷のような傷跡を負い、切り傷や痣もある。どれくらい気を失っていたのか分からない。街の夜は静けさを取り戻している。ディアンダはもういなかった。
マクはリックの側に行き、その隣に座る。僅かな明かりでも、リックの顔が土気色になり、唇が半開きで生気がないのが分かる。
リックの死に顔など見たくなかった。マクはそう思った。そっとリックの額を撫ぜる。リックの顔にぽつぽつと涙が落ちて、それを拭った。
このまま朝まで待って、それからリックを荼毘に付してやろう。その後はカノンを追いたいが、体中あちこちが痛い。傷が治ってからでなくては無理か。そう思い、マクは深く息をつく。カノン達の行き先は知っている。ゆっくりでも追えるはずだ。マクは再び深く息をつき、壁にもたれて目を閉じた。
カノンは焚火の前に座っているローカスに警戒心を燃やしていた。父だと言う魔帝は得体がしれない。その追手に捕まる事は、マクと会えなくなるかもしれない事だ。自然と顔も険しくなる。レイアはそのカノンの表情に、ローカスが不信感を抱かないかやきもきしていたが、ローカスは穏やかな笑みでカノンを見ていた。
「カレン、おまえはわたしの友人に似ている」
「あぁ、そう」
レイアの機転で名前をごまかしているカノンだが、愛想よくする事もできず、ぶっきらぼうに返事をする。
「あと二、三年したらもう一度会いたいな。わたし好みの女になっていそうだ」
ローカスの言葉はどこか間が抜けている。カノンは返事に困って押し黙った。
ローカスはお喋りだった。カノンを追っているのが魔帝である事、その魔帝は金色の髪と金色の目をしている事など、喋ってくれた。
(魔帝は娘であるカノン様を見つけ出して、どうするつもりなんだろう)
ラオとレイアは考えたが、その答えをローカスから引き出す事はできなかった。
翌朝、ローカスは拍子抜けするほどあっさりと別れた。その後はカノン達は追手に会う事なく、山道を進んだ。
峠を越えて見えたのは山の麓にある大きな城と、その下に広く広がっている街並みだ。少し休憩しながらその景色にしばらく見とれ、そのあと三人は山を下り始めた。岩を越え、木々を避けながら、道なき道を歩いていく。
「おかしいな……道を間違えたかな……」
「この山は人が滅多に立ち入らないと言われてるものね……」
「なんでだ?」
ラオ達の後ろで木の枝を避けながら、カノンが尋ねる。
「この山には一角獣という神聖な獣がいるんです。だから普通は山を迂回して行くんです」
ラオがそう言った時だった。背後に気配を感じてカノン達は振り向く。するとそこには馬が一頭いた。
「い、一角獣!」
ラオが叫んだ。その馬の額には白い角が一本生えている。三人は身構えながら、じりじりと後ずさりした。
「刺激しないように、逃げましょう」
「なんだ、神聖な獣というのはこいつの事か?」
カノンは聞きながら剣を抜く。
「そうです。いいですか、刺激しないで。一角獣は凶暴な獣でもあるんです。それに必ず群れで行動する」
斥候らしきその一角獣は様子見するようにじっと見ていて動かない。三人は距離を取り、一角獣を木の向こうにすると、さらに充分な距離を取るために急いで走っていった。
朝方カノン達と別れたローカスはしばらく山をうろうろしていた。他に山を通る者がいないか一応確認していたのだが、空を雲が覆い始め、しとしとと雨が降り出してくると、諦めて立ち去ろうと考えた。
その時ローカスの後ろの木の陰から、気配を消した何者かが現れた。
「ローカス」
「うわ、びっくりした」
現れたのは魔帝ディアンダだった。ローカスはディアンダが急に現れた事よりも、その覇気のない暗い雰囲気に驚いて声をあげた。ディアンダの前髪からは雨の雫が流れ落ち、その表情はよく見えない。
「顔色が悪いぞ。具合でも悪いのか?」
ローカスが思わずそう聞いたほど、ディアンダの顔は蒼白に見えた。
「問題ない」と、ディアンダは静かに答える。視界の邪魔になっている長めの前髪を分けて、少し虚ろにも見える目を覗かせる。
「カノンという娘はいなかったのか」
「ああ。おまえの言う通りこの辺りを見回ってたが、そんな女は通らなかったな」
「そうか……おかしいな。家にもいなかったし、この道を通ると思っていたんだが……」
ディアンダはゆっくり頭を振り、辺りを見回す。
「本当に誰も通らなかったのか?」
「カレンという女なら通ったが」
「……その女、金髪の娘だったんじゃないだろうな……」
「ああ、よくわかったな」
ローカスがきょとんとしながら答えると、ディアンダは眉間を抑えて、ため息をつく。
「バカだな、おまえは……」
ローカスはディアンダの言いたい事を察して気まずそうな顔をする。
「まあいい。行き先は分かった」
「わたしが追うか?」
ディアンダは軽く首を振る。
「居場所がわかればそれでいい。今すぐ会う気はないしな」
「おまえとカレン、いや、カノンか。どういう関係なんだ? おまえと似ていると思ったが」
詮索しだしてきたローカスを、ディアンダはじろっと見た。
「親戚……みたいなものだ」
そう答えながらディアンダはローカスに背中を向ける。
「帰るのか?」
「そうだ」
「わたしも連れてってくれないか。腹が減った」
ディアンダは眉間にしわを寄せて、横目で睨む。
「おれはおまえみたいに邪気のない奴が苦手なんだ」
「なぜだ?」
「……ただの世話役だった男に、恋人を寝取られた。忌々しい話だ」
「へえ。おまえでもそういう事があるんだな」
歩き始めたディアンダの後を、ローカスは追う。
「……ついてくるな」
「いいじゃないか。おまえと話しているのは楽しい。飯でも食べながら話そう」
「……おまえ、飯が目的なだけだろう」
ディアンダは晴れてきた空を見ながら、「まあいい」とため息交じりに言った。
「魔帝にたかるのはおまえくらいのものだぞ」
「ハハ、ごちそうになります」
ローカスはディアンダの隣に並んで、にっこりと笑った。