22-4.緒丹薊秋草伝
毛烏は、満の国のとある屋敷に忍び込んでいた。そして暗い部屋で一人書き物をしていた老齢の男の後ろに降り立ち、その喉を掻き切った。倒れた男の名は山粟馬山。弦の国の皇家に鬼人を忍び込ませ、敏重皇を暗殺させた男だった。
弦の国に帰った毛烏は、そのことを新しく皇になった敏藤にではなく、まずお腹の大きい秋草に報告した。秋草はころころと笑った。
「そうか、やはり満の国の手の者であったか。よくやったの、毛烏」
「はっ、秋草様の助言あったればこそ」
毛烏は弟の猫萩に見せていたような朗らかさはなく、冷徹に秋草に忠誠を誓う男の顔になっている。秋草は主と定めた者に一本筋に仕える毛烏の気性を気に入っていた。
「敏藤様についている間者はいかがいたしましょう?」
毛烏は間者が敏藤の命をも奪うのを、秋草が期待しているのかと勘繰る。しかし秋草は首を振った。
「間者は主を失った事を知れば、消え失せるであろう。敏藤兄様にはまだ皇でいてもらわねば。わらわが皇にふさわしい証を立てるまではな」
「あなたが皇に相応しい事、わたしは疑いませんが、それを周りに知らしめるとなると簡単ではございませんね」
「くく、そうでもない。威海には泣かされたが、おかげでわらわはわらわが何者か知る事ができた」
「威海に……?」
秋草は「こちらの事じゃ」とにたりと笑った。
秋草は離れで一人、鏡の前に座っていた。じっと精神を集中する。するとずずずっと秋草の額の真ん中から白い角が一本生えてくる。それはこの月国地方の守り神である月夜の神の子孫である証だ。角の生えた自分の顔を見て、秋草はふうっと息をつく。
「まだかなり集中しないと生えてこぬか。それに……」
秋草は少し角の生えた辺りをさする。
「少々痛みがあるの。それはよいが、感情が昂った時に勝手に生えてくるのはよくない。最も効果的な時を狙って、わらわが神に選ばれた者だと示さねば」
秋草は威海に振られた時に、初めて自分に角がある事に気づいたのだ。秋草は鏡の中の自分をじっと見つめた。
「わらわは天下を取る。そのために生まれたのじゃ」
その頃、隣国の満の国に一人の少年がいた。名を伊春。歳は十五だがまだ元服していない。満の国の当主、石楠花慶雲の二人目の実子。慶雲は男児の養子を二人取っているので、順位は四男となる。
伊春は自由奔放な性格で、よく城を抜け出しては城下町に遊びに行っていた。特に南方の外国から来る行商人達が集まる市に行くのが好きだった。そこの広場で奇抜な格好をして芸をする旅芸人達にも興味をそそられた。誰にでも気さくに話しかけるため、内国の噂話、外国の情勢には父、慶雲や兄達よりも詳しいくらいだ。
伊春はその日、いつも通り城を出て山の麓の道を一人で歩いていた。伊春はとにかく国の中を見る事が好きだった。四男であったが、いつかこの国は自分の物になると信じて疑っていなかった。そのまま市に向かおうと道を曲がった時、建物の後ろの植え込みの陰に同じくらいの少年がいるのを見つけた。
まだそれほど寒い季節ではないというのに、毛糸でできた帽子を深く被っているその少年は、羨ましそうに、いや、妬ましそうに市の喧騒を睨んでいた。
「や! こんなところで何してるの?」
声をかけられた少年は飛び上がりそうなくらい驚くと、慌てて植え込みの中にしゃがみこんで、小さな帽子に身を隠すように帽子をさらに深く被った。
「もう見つかってるよ?」
伊春は無邪気な様子で少年を覗き込む。少年は恐る恐る伊春を見上げた。少年は耳がエルフのように長く伸びており、目の周りにはこの地方の鬼人特有の墨を入れている。
伊春には声をかける前からその少年が鬼人であろう事は分かっていた。それでも親しげに声をかけた。そしてその少年に髪の毛がなく、その鼻が何か悪いできものができた痕のように大きくはれ上がっているのも気づいていた。
「ご、ごめんなさい。もう山に帰るから、ひどい事しないで」
「何を謝るの? ひどい事なんてしないよ。それより市を見たいの? 今、旅芸人の一座が来てるんだ。一緒に見に行こうよ!」
少年の腕を取り、引っ張っていこうとする伊春の手を、少年は振り払った。
「ぼくなんかが人に見つかったら、殺されちゃうよ!」
「そうなの?」
伊春はきょとんとしたように立ち止まる。そして思いついたようにまた少年の手を取った。
「こっちに来て。ちょっと遠いけど、市を見下ろせる場所がある」
伊春は高台になっているところまで走り、そこにある物見やぐらに少年を連れてきた。走りながら少年の名を尋ねると、少年は「カーリン」と、小さく答えた。
そこは市全体が見下ろせた。カーリンはやぐらに上っているのを見咎められないかとびくびくしながらも、伊春に促されて下を眺めた。多くの店が並び、人がひしめく。活気のあるその市場の景色はカーリンの心を打った。
「すごい……あんなにたくさんの物がある。あんなにたくさんの人がいる」
「君の住んでいるところは違うの?」
「ぼくの村はまだいい方……。大人が半の国の兵隊に行って、お金を稼いできてくれるから。でも、いい薬は手に入らなかった。ぼく、病気で死にかけて、髪が抜けて、鼻に……ひどいできものが……」
カーリンは言いながら思い出したように鼻を隠す。
「ピエロみたいだね」
伊春はバカにするでもなく、朗らかにそう言った。ピエロって何? と言いたそうなカーリンに、広場の真ん中にいる旅芸人を指差す。遠くて見づらかったが、白塗りにした顔、紅を入れた目と口、大きな丸い造り物の鼻をつけ、ジャグリングをしている芸人はひときわ目立っていた。
「……ぼく、あんな変なのじゃないよ」
カーリンは少し泣きそうになった目を隠すように帽子を引っ張る。
「ピエロはね、わざとおどけて人を楽しい気持ちにさせるんだ。君のその悲しそうな顔も、きっと吹き飛ばしてくれるよ」
伊春の屈託のない笑顔は、まるで太陽のようだとカーリンは思った。
そして伊春とカーリンはその後も度々会って話をした。伊春はカーリンにだけ、自分の夢を話した。
「ぼくはね、天下を取るんだ。そのために生まれてきたんだ」




