22-2.緒丹薊秋草伝
秋草に人の心を教えたのは、翔葉以外にもいた。秋草と兄達の教育係であった山桜桃梅家の雪割とその息子、石蕗だ。
雪割と石蕗は秋草の非情な性格を一早く見抜き、根気よく人の心を説いた。秋草が刀を振り回しながらも、人死にまで出さなかったのは二人の教育のおかげと言える。ただそれでも、人を傷つける事をいとわない秋草の所業は教育係の責任として、敏重皇から厳しいお叱りを受ける事は多々あった。
そしてとうとう山桜桃梅家が敏重皇を激怒させる事件が起こった。それは敏藤、日草、秋草の三兄妹が、城を出たところの丘にピクニックに来ている時だった。それぞれ丘の上の風などを楽しんでいる間に、日草の姿が見えなくなったのだ。雪割と石蕗はもちろん、護衛の七竈家の姉妹も必死で日草を探したが、日草は見つからかった。
七竈家も当然厳罰を食らう事になったが、敏重皇の怒りはそれで治まらず、ピクニックに誘った雪割と石蕗もひどく叱責された。そしてその翌日、丘の下の川の浅瀬で溺れ死んでいた日草が見つかると、敏重皇の怒りは頂点に達し、雪割と石蕗に切腹を命じた。
それは敏重皇が普段から率直な物言いをする山桜桃梅家の二人を快く思っていなかったからだったのだが、秋草は逆にそんな雪割と石蕗を気に入っていた。二人に切腹を命じられたと聞いた秋草は、初めて父の前で頭を垂れた。
「父上、日草兄様の死は、雪割と石蕗のせいではありません。どうかご温情を」
秋草に人の情が薄い事はもう父である敏重も知っていた。そんな秋草が人のために頭を下げている。敏重皇は雪割や石蕗にひどい嫉妬を覚えた。歪んだ笑みを浮かべて、乾いた声で笑う。
「くはは、奴らに温情をと申すか。ならよい。雪割の命は助けてやる。わしは雪割の方が嫌いじゃからな」
秋草が眉をひそめると、敏重皇はくっくと笑う。
「奴にも息子を失う辛さを味合わせてやるのじゃ。石蕗はやがて子供も生まれるところだと言う。子の顔も見ずに死なせるはさぞ悔しかろうの」
「父上……!」
秋草はなおも父に訴えようとするが、敏重皇はそんな秋草に初めて怒声を浴びせる。
「この話は終わりじゃ! これ以上の温情はありえぬ! 退室せよ、秋草!」
秋草はその剣幕に驚いた顔を見せ、少しの間を置いた後、にやりとなぜか笑みを見せて頭を下げた。
「かしこまりました、父上。ご温情、感謝いたします」
部屋を出た秋草は廊下を歩きながらぼそっと呟いた。
「あの男、邪魔じゃ」
秋草は人知れず父の事をあの男呼ばわりした。
ある日、敏重皇は久しぶりに長男の敏藤と娘の秋草を連れて、城下の視察へ行った。馬に乗って一通り見て回り、関所の前に来た時だった。汚いなりの男が関所の役人となにやらもめていた。
「何事じゃ」
敏重皇が興味を示して近寄っていく。秋草達もそれに続いた。
どうやら男は隣国である新の国から来た脱藩者のようだった。馬に乗った敏重皇の格好から、身分が高い事が分かったのだろう。今度は敏重皇に、わしは新の国のもろいところを知っている、わしを取り立ててくれなどと訴えていた。
こういう者は稀にいる。が、この男ほどみすぼらしいのも珍しい。歯抜けで無精ひげだらけ、髪もぼさぼさに結われている。明らかに食い扶持に困った浮浪者であろう事は見て取れた。
敏重皇が「さてどうするか」とため息をついている横で、秋草が馬から降りた。
「決まっています。このような者」
秋草はそう言うと刀を抜き、小柄な体で上段から男を斬り下ろした。男は間抜けな顔をしたまま、血しぶきを上げて倒れた。あっという間のことだった。妹の所業を恐れた敏藤が、「ひいいい」と情けない悲鳴を上げる。敏重皇も呆気に取られていた。
「な、何も殺さずとも……」
「自国を売ろうとした男です。この国に仕えても同じ事をするに決まっております」
秋草は刀についた血を拭うと、それを鞘に収め、ひょいっと馬に乗った。そしてとても人を殺したと思えないほどの無邪気な笑顔で微笑んだ。
「さあ、帰りましょう。父上、兄上」
敏重皇と敏藤はそれから異様に秋草を恐れるようになった。特に敏藤の怯え方は異常だった。常に妹の影に怯え、寝ている時ですら急に飛び起きて「助けて! 殺される!」と叫んだ。
「妹が皇になりたがっているのは知っておる。長男のわしを邪魔に思っているのも知っておる。日草を殺したのも秋草に違いないのじゃ」
既に二十歳を越えた男と思えないほど、ひ弱な言いようだった。それを聞いた秋草は「ほほほ」と笑った。
「日草兄様は本当に事故じゃ。日草兄様は、な」
秋草のその言葉を侍女づてに聞いた敏藤は、部屋にこもって出てこなくなった。そして自分の護衛である真葛毛烏、猫萩の兄弟を、秋草に気に入られているという理由で、その任から外した。
「毛烏の兄い、敏藤様はおれ達より新参者の護衛の方を信用するのかな」
「敏藤様はとにかく秋草姫の匂いのしない者を置いておきたいのだ。おれは満の国へ、偵察の任に就く事になった」
「毛烏の兄い、奥さんと子供もいるのに」
「まあ左遷という事でもあるまい。時々は帰ってくる。それよりおまえは秋草姫の馬廻衆になるんだろう?」
猫萩はこくんと頷くと、周りには聞こえないようにこそこそっと声を潜める。
「実はおれ、敏藤様より秋草姫の方を尊敬してるんだよな。あの姫、ちょっと怖いところはあるけど頑張り屋だし」
「……惚れてるのか?」
毛烏の言葉に猫萩は「全然違う」と不満そうに答える。
「美人なのは認めるけど、おれの好みじゃない。おれは純粋に仕えるならあの姫の方がいいと思ってるだけ」
「そうか。……まあ大きい声では言えないが、実を言うとおれもそうだ」
猫萩は「ははっ、やっぱり?」と笑う。毛烏は「大きい声で言うなよ?」と再度釘を差す。
「あ、ちなみにさ、あの黄蝦根威海も秋草様のお側に仕える事になったみたいだよ」
「そうか。仲良くしろよ」
「えー、あいつ文官のくせに剣も使えるから嫌いだよ」
毛烏は「ははっ、ケンカはほどほどにな」と言って笑った。




