22-1.緒丹薊秋草伝
外伝②、こちらも全7ページでございます
ここは月国地方、弦の国。月夜の神様が守護する大地で一人のお姫様が生まれた。名は緒丹薊秋草。
美しい艶を放つ濡れ羽色の髪、賢さを映す目、それにかかる長いまつ毛。柔らかい紅色の頬に小鼻の小さな鼻、そして時に大人の女性のように妖艶に微笑むふっくらとしたピンク色の唇。すべてが愛らしいその姿に詰められていた。
秋草は兄達と同じように勉学や武術を習う事を好み、そのどちらにも才を見せていた。
父、敏重はよく秋草を膝に乗せて言った。
「愛いや、秋草。そなたは兄達よりもずっと賢く強い。いっその事、そなたがわしの後継ぎとなり、皇になるがよいかもしれぬ」
兄達を差し置いて秋草が皇の座につくなど、その頃の考えからすればありえない事だったが、それでも敏重は秋草かわいさにそう言っていた。そうすると秋草はにこりと笑い、決まってこう言うのだった。
「わらわは父上に負けないくらい立派な皇になってみせます」
敏重はそれを聞くとわははと笑った。
「威海」
きれいな着物に似合わぬ刀を抱えて、十二の秋草が廊下を歩いていた一人の少年を呼び止める。くせのある赤毛の髪を短髪にした少年だ。名を黄蝦根威海と言う。秋草より三つ年上だ。秋草の兄の侍従をしている。
「剣道場に行くのであろ? わらわと一緒に参ろうぞ」
「秋草様……。何度も申し上げておりますが、秋草様は姫君なのですから剣の鍛錬などなさらずともよいのでございますよ?」
「何を言うておる」
秋草はにやりと笑う。
「わらわの敵はわらわが斬らねばな」
威海は頭が痛いとでも言いたげに眉間にしわを寄せる。
「知っていますよ、秋草様。先日、大臣を前に刀を振り回したとか。幸い大事には至らなかったようですが」
「ふん、それはわらわが刀を持っているのを奴が笑ったからじゃ」
「この前は女官を傷つけたとか」
「それはあの女がわらわの着物を汚したからじゃ」
「わざとではなかったのでしょう。それなのにあなた様は」
「わかった、わかった。小言はそれくらいにしてたも。わらわは着替えてくるでな」
秋草はくるっと回って背中を見せると、振り返りながらにこっと笑った。
「ちゃんと待っててたも」
男なら誰でもぼーっとしてしまいそうな無邪気な笑顔に、威海も少し頬を染めたが、威海は知っていた。秋草が陰で冷笑の鬼姫と呼ばれ始めている事を。見る者が見ると、その笑みには温かみが足りないように見えるのだ。そして刀を奪われるくらいなら死ぬとまで言って、刀を離そうとしない秋草に、周りの者は手を焼いていた。
剣道場にはいつもの顔ぶれが揃っていた。竹刀を構えて集中している毛烏と、その後ろで忙しなく毛烏に話しかけている猫萩。真葛家の兄弟だ。
「毛烏の兄い。敏藤様はいらっしゃらないのか?」
「兄上と呼べ、猫萩。敏藤様は体調が優れないそうだ」
「なあんだ、またかよ」
敏藤は秋草の上の兄だ。次期皇となるべき皇子だが、勉学も剣術もあまり得意でなく、さぼり癖がある。毛烏は馬廻衆という敏藤の護衛だが、鍛錬の時は他の者に護衛を任せ、剣道場に顔を出す。まだ十一の猫萩ももう三、四年すれば同様に敏藤の護衛になるだろう。
剣道場の壁の方にいる少し頼りない顔をした少年は、秋草の二番目の兄、日草だ。日草の両隣には護衛の七竈家の姉妹がついている。七竈家は数少ない女系の護衛だ。
秋草は兄の日草に形ばかりの挨拶をする。
「お手柔らかに、兄上」
にっこり微笑む秋草に、日草はびくっと怯えた表情をした。日草もあまり剣術が得意でない。この前も秋草に手ひどくやられたばかりだ。それに加え、秋草はそれをたしなめた剣術の先生に真剣で切りつけた。腕を傷つけられた先生はそのまま先生を止めてしまった。兄の敏藤が稽古に来ないのもそれが原因だろう。
秋草の兄達は、いや兄達だけでなくあれほど秋草を溺愛していた父の敏重も、今や秋草の気性を恐れていた。
いない先生の代わりに、年上の毛烏がみなに稽古をつける。そこに少し遅れて、もう一人少年が来た。少年は走ってきたのか汗を垂らしながら、遅れてきた事を詫びる。
秋草は一瞥しただけで、興味なさそうにその少年からすぐ目をそらした。その少年は名を稲黍翔葉と言い、威海と仲が良く、威海を兄さんと呼び慕っている。真っ直ぐな茶色の髪で、少年らしい温かさと優しさを持っているが、何かあるとすぐ頭を下げる腰の弱いところもあり、秋草はそれが気に食わずあまり相手にしなかった。
しかしやがて秋草が年頃になる頃、多くの縁談の話が持ち上がっている秋草に、翔葉はこう言った。
「結婚が、政治の道具になるなんて悲しすぎます。夫婦になるという事はもっと大切な事、一生一緒に連れ添いお互い支えあうという事です。秋草様が愛した方でなければ……秋草様を本当に大切にしてくれる方でなければ、わたしは嫌です」
翔葉は秋草の前でためらいながらも、真剣にそう言っていた。秋草は頭を打ち付けられたような衝撃を受けた。結婚を政治の道具と考えていたのは、秋草自身もそうであったからだ。秋草の目に初めて優しい光が灯った。
「そなたなら大切にしてくれるか? わらわと一生一緒に連れ添って、支えてくれるか?」
秋草の問いに翔葉は顔を真っ赤にしたが、それでもまっすぐ秋草を見る。
「わ、わたしは、特別秀でた才など何もありませんが、それでも、もし秋草様と夫婦になれたならば、大切にします。誰よりも、何よりも……」
翔葉はそう言った後にますます顔を赤くし、顔を背けて小さく「わ、忘れてください」と言った。秋草はそんな翔葉を愛おしそうに見つめていた。