21-2.石楠花慶雲伝
満の国。そこが月国地方に何人かいる天子の一人、石楠花重慶の治める国だった。
母親の身分が低い老虎丸は、重慶の子として迎え入れられる事はなく、重慶の側近、山粟馬山の養子となった。元服した老虎丸は、名を山粟慶雲と改めた。その名をくれたのは重慶であったが、馬山は老虎丸、今は慶雲を部屋に呼び、厳しい顔で言った。
「慶雲、おまえは重慶様の子と名乗る事はもちろん、子を作る事も許されない」
慶雲は義父となった馬山の前に正座している。馬山は横に置いていた掛け軸を開いた。そこには長い黒髪の若い男が描かれていた。
「これは月夜の神のお姿だ」
「角……」
慶雲は絵の中の男の額に生える一本の角を見る。
「そうだ、天子はこの月夜の神の末裔。だからまれにその血筋にこのような角が生えた者が生まれる。この意味がわかるか?」
「……おれの子に、角が生える事があるかも……」
馬山は「そうだ」と頷く。
「この月国地方は角付きが生まれるたびに、争いが起き、国が割れてきた。重慶様の子にはおまえの他に男児が三人、女児が二人おる。みな角は生えていない。おまえにも角はないが、もしおまえの子に角が生えれば、後継者争いが起こる事は必然だ」
馬山は今度は大きな地図を開いて慶雲に見せる。それはこの大陸の北部に位置する月国地方が描かれた地図だ。
「半の国、新の国、弦の国、朔の国、そしてこの満の国。月国地方は分裂と統合を繰り返して、今はこの五つの国となっている」
「……馬山様は満の国を割るわけにはいかないとお考えなのですね?」
「そうだ。国が割れ、弱まればすぐに他の国に飲み込まれてしまう。神の血を引く確かな証である角付きの誕生は望ましいが、だがそれはおまえの子であってはならない」
慶雲は黙ってうなずく。馬山は表情一つ変えず馬山の話を聞いている慶雲に強く語る。
「おまえの命はおまえが角付きでないからこそある。それを心に留め置き、自分が重慶様の子だという事は忘れるのだな」
「はい、馬山様」
全てを悟っているような慶雲の返事を聞いて、馬山は軽くため息をついた。
「おまえは見た目以上に賢しいな。だがそれが分かったのならもう少し本当の親子らしくするのだ。わたしのことは父上と呼べ」
「はい……父上」
慶雲は答えながら、軽く頭を下げた。
生き延びるために正体を忘れる事。そして役に立つ事。慶雲はひたすらに勉学にいそしみ、教養を身に着け、そして剣を振り続けた。慶雲が十七になる頃には慶雲に敵う者はいなくなり、いくつかの小さな戦を戦い抜いた慶雲は、二十三で部隊を束ねる武将の一人となった。
昼餉を取った慶雲は城の近くの小高い丘の上に寝そべり、青い空を眺めていた。そこへくせ毛の強い髪を上で結わえた男が近寄ってくる。
「山粟武将! 見てくださいよ、あそこ」
その男は民豊という名で、慶雲の副官だ。民豊は人好きのするような笑みを浮かべながら、丘の下の花畑を眺めている。そこには高貴な着物を着た女性が二人、お付きの者を側に控えさせながら花を摘んでいた。
「重慶様の娘のすみれ様とさくら様ですよ。すみれ様、お噂通り美しいですねえ。ああでも、さくら様は素朴な方ですがお優しそうで、わたしはさくら様の方が好みですねえ」
「軍人が浮ついた事を言うな」
慶雲は顔も上げずに答える。
「もう! 武将の女嫌いは相変わらずですね。武将もそろそろ奥方の一人や二人、いらっしゃってもいいと思うんですがねえ」
「うるさいぞ、民豊。午後からは騎馬の調練だ。そのように伝えておけ」
「騎馬ですね。はい、準備しておきます!」
重慶様の子は暗愚ばかりだ。慶雲は民豊が眺めていた二人の淑女を一瞥し、歯ぎしりしながらそう思う。
みんな平和ボケしている。何もその姫達にそう思っている訳ではないが、彼女達を見れば嫌でもその兄の皇子達を思い出す。
天子は他の国にもいる。他の国に角付きが生まれ、その力が強大になっても、この満の国が潰れてしまわぬような力を持っていなくてはならない。それが義父、馬山の考えだ。それなのに兵の訓練はどこかいい加減だし、内政もそれほど力を入れているようには思えない。
何か表現しがたい鬱屈とした気持ちが、いつも慶雲の心の中にはあった。穏やかな晴れた空すら憎らしく思える。
「こんなところでお昼寝ですか?」
慶雲は驚いて跳ね起きた。隣にはいつの間にかさくらが横に立っていた。
「ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたか?」
慶雲は人の気配に気づかぬほどぼーっとしていた自分に内心唾を吐きながら、「いえ」と口にする。眉間にしわを寄せている慶雲をさくらはじっと見る。
「フフ、やっぱり思った通りですわ。おじいさまにそっくり」
「え?」
「あなた、山粟慶雲武将でございましょう? 山粟馬山様の息子の」
「そうですが……」
「以前お見かけした事があるのですが、その時あなたが亡くなられたおじいさまにそっくりだったので、びっくりしたのです」
さくらはふわふわとした優しい言葉で話していた。その心が癒されそうな声色に、慶雲は若干イラついていた。さくら自身にではなく、そう感じてしまう自分に嫌気がさしていた。
慶雲がどうにか話を早く切り上げられないかと思っていると、さくらが不意に声の調子を落とし、内緒話をするように口元に手を当てた。
「実はですね、こんな噂があるのです。山粟武将は、わたくしの父、石楠花重慶の隠し子ではないかと」
慶雲は驚いてさくらの顔を凝視する。さくらは自分がそう深刻な事を話していると思っていないのか、子供のようないたずらっぽい顔をしている。
「父上は否定してらっしゃいますし、兄上様達や姉上様はそんな噂に眉をひそめているのですけれど、わたくしは少しわくわくしていたんです」
何に? と言いたそうな慶雲の顔に、さくらはにこっと笑って見せる。
「だって兄弟が増えるんですよ。楽しそうじゃありませんか」
慶雲はやはりこの腹違いの妹は愚かだと思った。重慶に何かあれば、いつ後継者争いが行われても不思議ではないと言うのに。
だが愚かだと思いながらも、それこそ花が咲くようなさくらの笑顔は心に残った。




