56-1.自分らしく
「男なんてさー」
イニャは手を頭の後ろにやりながら言う。
「みんな女の匂いに惹かれてくるもんじゃねえの? おまえは考えすぎなんだよ」
カノンは返事もせずに、宿屋の食堂の方から聞こえてくる喧騒にしばし心を傾けた。イニャはそのまま続ける。
「おれのさ、言霊。人を操る力があるけどさ、例えばおれが死ねとか言ったってさ、みんな自分の喉を突く直前に正気に戻るよ。本気で死にてーとか思ってない限り、本当に操られたりなんかしない」
イニャはそこで言葉を途切れさせた。その沈黙に気づいて、カノンはイニャの方に顔を向けた。イニャはじっとカノンを見つめていて、カノンと視線が合った時に聞いた。
「そいつら、本気じゃなかったの?」
カノンはぐっと言葉に詰まった。思わず唇を噛み締める。
ハマもスラトも本気だった。そんな事わかっていた。詭弁を弄して、二人の気持ちを煙に巻いたのはカノンの方だ。泣く資格なんかない。そう思っても涙が零れてくる。
「わたし、怖かったんだ。本気の二人に対して、自分の本当の気持ちがどこにあるのか知るのが」
「どこにあったんだ?」
「わからない……ただ二人の優しさに甘えて、利用した事だけが事実だ……」
カノンはギネスが「甘えていいんだよ」という視線を向けていた事を思い出す。いや、それは自分がギネスに抱いた願望の言葉だったのかもしれない。
「わたしはまた、甘えようとしてるんじゃないか……?」
カノンは自問する。そして|(がんばれよ! 自分で立て!)。そう自分に言い聞かせる。イニャは真面目だった顔を少し緩めて、軽く空を見上げる。そうしながら足をぶらぶらさせた。
「なんか必死だよなー、おまえ。いいんじゃねえの?」
何が? カノンはわからなくてイニャの横顔を眺める。
「甘えて、甘えて、甘え切っちまえよ。好きな奴にそんくらいしても、バチは当たらねーんじゃねー?」
「そんな事、できな……」
「つまりだな、一人で抱え込むなって事だよ」
イニャはカノンの言葉を遮って言った。カノンは思わず苦笑する。
「わたし、重い女だな」
イニャはそれには答えず、生まれた黒エルフの隠れ里の事を話し出した。
黒エルフには言霊の力を持った子が生まれる事がある。その人を操る危険な力を押さえるために村全体に結界を張っているのだが、稀にその結界でも抑えられない程、強い力を持った子が生まれる。
そういう子は村はずれの岩屋に閉じ込められる。一応、日に二度の食事が運ばれてくるが、それ以外では人との接触がほとんどない。
「おれと同じように閉じ込められている奴もいたよ。たぶんおれよりもっと子供の奴。そいつは外から来た西エルフに連れていかれた。まあ言っちまえば助けられたんだ」
カノンはそれを聞いてキョウを思い出した。イニャはその子供の名前を知らないと言っていたが、恐らくキョウで間違いないのだろう。
イニャは縁側からひょいっとジャンプして立ち上がった。そして石ころを拾い、それを思い切り下に投げつける。石ころは弾んで転がった。
「おれは助け出されなかった。岩屋には声が届かない結界が張ってあったから、たぶん気づかれなかったんだ」
イニャはまた石をいくつか拾い、手の中で弄ぶ。
「荒れたぜえー。なんもない岩屋ん中で死ぬほど暴れた。おれは死ぬまでこの中で暮らすのかって。マジに涙が出て、狂いそうだった」
そんなイニャが岩屋を抜け出せたのは全くの偶然だった。ある嵐の日、落雷が落ちて岩屋を塞いでいた木戸が割れたのだ。
「あの時はマジで神様って奴に感謝したな。あ、でもすぐに反吐が出た。おれを閉じ込めたのはその神様の指示だって言うんだからな」
さっきも言ったようにイニャがいくら「死ね」と言ったって、イニャには人は殺せない。それでも里の者に散々悪態をついて、里から逃げた。そして一人で盗賊まがいの事をして生きてきたのだ。
イニャはくるっと振り向いて、カノンににやっと笑って見せる。
「重い女だろ?」
カノンは何も言えずに僅かに首を振る。イニャはまた庭の暗闇に目を向けて、弄んでいた石ころをぽーん、ぽーんと投げながら喋る。
「別におまえが背負ってるもん、全部話しちまえって事じゃないんだ。都合が悪い事は隠してもいい。ただ甘えてごめんなさいじゃない。甘えさせてくれてありがとうってそう言えよ。そう言える相手に、出会えよ」
イニャは背中を向けたまま、腕で目をこすった。
「やべ、なんか泣けてきた。自分で言って、自分で泣いてりゃ世話ないぜ。ホントに重い女だな、おれ」
イニャはにひひと笑って見せる。カノンも目尻に涙を滲ませながら微笑む。
「ハハ、わたし、イニャに惚れそうになったよ」
「おう、いーぜ。おれ、かっけーだろ?」
カノンは思わず声を上げて笑う。イニャも声を上げて笑った。
その日、カノンはイニャの提案で、ギネスの後をつけてみる事にした。ただのいたずら心だ。今はとにかくイニャとなんでもない事ではしゃいでいる事が楽しかった。
ギネスはカノン達がつけている事なんて、きっとわかっていただろう。時折、少しだけ振り返って含み笑いをしているような気がした。
「あ、アインだ」
ギネスはすっかり仲良くなったのか、武具屋で働いているようなアインと話し込んでいる。そしてギネスが武具屋を後にした後、イニャはアインに話しかけに行った。
「カノンはギネスの兄ちゃんを追いかけてろよ」
そう言ってカノンの背中を押す。
「へえー、アインって武具屋の息子だったのか」
そんな声が聞こえてくる。カノンがちらっとだけ入り口からイニャの様子を見ると、イニャが来た事をすごく嬉しそうにしているアインの顔が見えた。たぶんだが、アインはイニャに好意を抱いているのだ。
カノンは甘酸っぱい気持ちになって、しばし二人の会話に耳を傾ける。イニャが好かれている事は、カノンにとって純粋に嬉しい事だった。
しばらくそうしていたが、ギネスの事を思い出して慌てて振り返った。もう行ってしまったかなと思ったが、遠くの方でギネスはまた別の誰かと話しているのが見えた。そしてカノンが振り向いたのに気づいたように、またふっと含み笑いをして歩き始めた。




