52-2.すべてを捨てて
リビングルームに入ってきたハマは、見知らぬ男がいるのを見て少し眉をひそめた。
「ハマ様、夕食は?」
「ああ、すませてきた」
レイアはそれだけ確認すると、「それじゃあごゆっくり」と言って退室した。
「この国は蒸すな」
北エルフの服装から変えていないハマは、着物を少し緩めながら一人掛けのソファに座る。カノンは困ったような顔をして二人掛けのソファに座っている。西の国の出身と思われる男は腕を組んで壁側に立っていた。
「それで、なんなのだ?」
嫌でも不穏な雰囲気が漂っているのがわかる。カノンは話し出すのをためらっていたが、しばらくすると口を開いた。
「ハマ、スラト。わたしと別れてほしい」
ハマは馬鹿じゃない。その二人に向けられた言葉が、何を意味するのか瞬時に理解した。スラトと呼ばれた男は「なんで、おれまで」とでも言いたそうな顔をしている。
「わたし、ずっと考えていたんだけれど、やっぱりどっちかなんて選べない」
ハマは頭に血が上るのを感じながら、最近のカノンの様子を思い出した。
「おまえはどっちか迷っていたんじゃない。最初からどっちも捨てる気だったんだ」
そう言われたカノンは驚いた顔をした後、少し目を潤ませて「そうだな」と頷いた。
「わたしはただ甘えていたかっただけなんだ。不安を紛らわしたいだけだった」
「それがどうした? おれはおまえに甘えてほしいんだ。おれに縋ってほしいんだよ」
スラトがカノンの後ろから口を出す。ハマはそれが不愉快に感じたが、できるだけ冷静にいようと努める。しかしそれでも顔が険しくなるのはどうしようもない。
「不本意だが同感だった。おまえがそれに引け目を感じているのはわかっていた。だがそれでもわたしに甘えるおまえがわたしは好きだったんだ」
今度はスラトが顔をしかめたが、それにはざまあないとしか思えない。カノンはハマの言葉が過去形になっている事に、気持ちを察したようだ。
「ハマ、言ってよ。こんなわたしにもう興味はないだろう?」
ハマはその言葉に強い憤りを感じた。そんな簡単な気持ちだと思っているのか。他の男ができたらそれでさようならなんて、簡単に言えると思っているのか。
「おまえは、わたしの気持ちを何もわかっていない」
ハマは憎々しげにそう言った。
「ある人が言ってた。わたしには強い魔力の匂いがするって。ハマ、あなたはいつもわたしの匂いが好きだと言っていた。あなたはただわたしの魔力の匂いに惹かれていただけじゃないのか?」
ハマは目を見開いた。思い当たる事があるのか、言葉を失っている。カノンはハマを見つめた。
「ハマ、わたしと別れてください。あなたにはわたしよりふさわしい人がいるはずだ」
ハマは打ちひしがれたように顔を暗くして、しばらくすると立ち上がった。
「考えさせてくれ。今日は帰る」
ハマは出て行きかけた時に、一瞬足を止めた。
「その男とも別れるんだな?」
「……うん」
ハマは「そうか」と小さな声で言って出て行った。
「おれは別れる気はない」
スラトはそう口にした。しかしカノンは首を振る。
「スラト、考えてもみてよ。わたしは付き合っている人がいながら、あなたと関係を持ったふしだらな女なんだ。あなたと触れ合えてすごく落ち着いた。けど、これを恋と呼ぶにはわたしは汚すぎる」
スラトは「だからなんだよ」と食い下がる。
「あんたただ甘えたいだけだって言ってたよな? だったら誰でもよかったっていうのか? バレーリさんとか、グワリオルさんとかでもよかった? セイロンさんとかジャフナさんでもよかったって言うのか?」
スラトが言ったのは全部同じ訓練場の仲間だ。カノンは考えてみる。いくら負けてもめげずに自分に挑んでくるスラトの根性に、悪くない感情を抱いていたのは事実だ。抱き合っていれば確かに愛しい気持ちも湧いてくる。
(でも)
消えないんだ。ディアンダという影がいつも頭の片隅にあって、心を蝕んでくる。
「スラト、さよならだ。わたしはこんな気持ちのままあなたと付き合えない」
スラトに心の内を打ち明け、最後にそう言った。スラトは決して納得していなさそうだった。それでもカノンの意思が固いのを感じて、今日は引き下がった。
「おれは諦めねえからな」
捨て台詞のようにそう言い残して、部屋を出た。
「ごめん」
もういなくなったハマとスラトに謝る。カノンは無言で入ってきたレイアに呟く。
「わたしはこのままじゃダメだ。レイア、わたしは」
少し間を置いてから、「旅に出る」と宣言した。レイアは「そう」と動揺もせずに答えた。
「西に行ってみようかな。竜人の国を通って」
そこならきっとディアンダの恐怖はない。自分を見つめ直すのにきっといい経験になるはずだ。
「手紙、書いてよね」
レイアは叱咤も非難もせずにただそう言った。
カノンはマクにも話をした。キョウにも故郷に帰るか? と声をかけてみたが、キョウは首を振った。いつも笑顔の訓練隊長のデナルトは、カノンがもう訓練に来ないと聞くと渋い顔をした。
「おまえには期待してたんだぞ」
ぶつくさと文句を呟いていたが、カノンが頭を下げると、「また戻ってきたら声をかけろよ」と言ってくれた。
ハマとスラトには後でレイアから話をしてもらう事にした。スラトは少し荒れた様子で訓練しているのを見かけたが、もし旅に出ると知ったらついていくと言われそうで、言えなかった。
連れは誰もいない。その事はマクもレイアも心配だと言ったが、カノンは充分気をつけるよと言って手を振った。
イースターは山肌の雨風が凌げる岩の隙間でうつらうつらとしていた。
「今度目が覚めたら、西の神のところに行くか。朝焼けの神の言う通り、すべての神に接触してみなけりゃ答えは見えないのかもしれないからな」
イースターはこくんと眠りに落ちた。外には雨が降っていた。
カノンが旅立ってしばらく後にそれを知ったディアンダは、自分も西に行こうと考えた。
東を支配しているディアンダにとっても、西は未知の土地だったが、それが逆に好都合に思えた。ラガーナが西にも勢力を広げておきたいと言うので、それは好きにさせる事にした。実質、組織を動かしているのは今はラガーナだ。ディアンダは組織を捨てる気で旅立った。
第六章・新天の神・終




