52-1.すべてを捨てて
カノンの心は一番弱いところまで堕ちていた。ハマとの関係が続く一方で、スラトのキスが拒めない。むしろ自分から求めてさえあった。
訓練場で最後まで残って、誰もいなくなるとキスを交わす。最初は触れるだけだったキスが、段々と熱を増して求めあっていく。スラトはとうとうカノンの胸に手を置いた。
「だ、ダメか? おれもう限界なんだけど」
カノンは迷ったけれど、こんな日がいつか来るんじゃないかって事はわかっていた。スラトは兵舎に住んでいるので、とてもそこには行けない。
「家……来る?」
スラトが怖気づいて引いてくれれば、こんな関係終わりにできるのに、と卑怯な考えが頭に浮かぶ。スラトはそんな考えを吹き飛ばした。いつものように頬を紅潮させて言った。
「おれに抱かれるからには覚悟しろよ」
レイアはスラトの突然の訪問に驚きもせず出迎えた。たまにマクが来る事があるので、いつもレイアは食事を多めに作っている。それでもちょっと物足りなそうなスラトに、カノンは自分の食事を分けた。
「ハハ、スラトの食べっぷりを見てるだけでお腹いっぱいだよ」
実際のところ、今緊張が強いのはカノンの方だった。食事もあまり喉を通らない。スラトはとっくに覚悟を決めたのか、それとも緊張している素振りを見せる気がないのか、レイアと普通に話している。
「黒エルフか。西にいた頃、聞いた事がある。黒エルフは人を操る力があるから、決して近づくなって」
スラトがそう言っているのを聞いていても、キョウは淡々と食事を続けている。
「操る? どうやって?」
「それはわかんねえけど」
キョウに注目すると、キョウはぽつぽつと喋った。
「言葉……に魔力がある」
「言葉? だからあなた喋らないの?」
レイアの質問にキョウは頷いた。
「力が、強い子供は、閉じ込められる。死ぬまで。おれは、ミズネに助けられた」
ミズネはキョウを連れていた西エルフだ。ミズネはキョウにほとんど虐待と言える事をしていたが、それでもキョウはミズネを恨む気にはなれないと言った。
キョウは少しだけカノンに視線を向ける。
「あなたは……強い魔力の匂いがする。だから、おれの言葉、平気、かも」
カノンはギクッとした。魔力の匂い。それに惑わされる者がいる。それを思い出すとまた不安になった。
スラトと共に部屋に入ったカノンは、スラトに尋ねてみる。
「わたし、匂いするか? 魔力の匂い」
「魔力の匂いなんて、わからねえよ。でも匂いはするよ。ちょっと汗臭い匂い」
「汗臭いって失礼だな。ちゃんと風呂は入ったよ」
鷹常にも似たような事を言われた事があるなと思い出して、カノンは少し笑った。
カノンの緊張が少し解れた事がわかったのか、スラトはカノンにキスをする。カノンもそれに応じる。スラトはぎこちない手つきで、カノンの感触を確かめ始める。
スラトの行為は荒々しかった。カノンを乱暴に扱っているわけではない。ただ不慣れな事に必死になりすぎているんだという事がわかる。カノンは痛くてもできるだけそれを口に出さないようにした。必死なスラトに、カノンも必死で応えていた。
長い時間体を重ねあった。終わった後は罪悪感に浸る間もなく、すぐに意識が眠りに落ちた。
「で? どうするの?」
レイアはおはようを言った後、真っ先にそう聞いてきた。カノンは「あたた、腰が痛い」と腰をさすりながら、ダイニングテーブルに座る。スラトはまだ部屋で眠っている。
「激しかったわね」
「聞いてたのか?」
「他の部屋にいてもわかるくらいだったって事よ。キョウの教育に悪いわー」
「おれの事は、気にしなくて、いい」
キョウはぼそぼそと喋る。最近話す事が多くなってきた。カノンは気まずくなって「ごめん」と謝る。
「で? どうするの?」
レイアはまた同じ質問をする。カノンは「ん」と少し唇を引き結んだ。
「ちゃんと、別れるよ」
「どっちと?」
「意地悪な質問だな」
正直に言えば、カノンはまだどっちなんて決められていなかった。それをすぐに見抜かれて思わず膨れてしまう。レイアはにまっといたずらっぽく笑った。
「あなたが悩んでいるのって、なんか楽しいのよね」
「そんな事言わないで、何かアドバイスしてよ」
「残念。そんなものないわよ」
レイアは手際よく朝食の準備をしていく。カノンも腰が痛いのを我慢して手伝い始めた。
「レイアは恋人いないのか?」
「いるわよー? まだ三カ月、手しか繋いでないけど」
「なんだよそれ。どうやったらそんなにゆっくり付き合えるんだよ」
レイアは「あはは」と笑う。
「お互い仕事が忙しいのよ。それにわたし、初めてじゃない? だから臆病になっちゃってるのよね」
レイアはキョウに向かって「しー」と人差し指を立てる。
「聞かないふりしといてね」
キョウは素直に頷く。そしてからレイアはまた喋りだした。
「羨ましいとは思わない。でもあなたの恋愛にどうこう言えるほど、わたしも大人じゃないのよ。だからもがいてみてよ。どうにもうまくいかなかったら、せめて慰めてあげるわ」
朝食の準備が整い始めた頃、スラトは大きなあくびをしながら起きてきた。まだ少し眠そうな顔をしながら朝食を平らげる。
「遠慮がないのはいい事よ」
おかわりをするスラトに、レイアはちょっとだけ皮肉を交えた顔で言う。スラトは構わず食べ続けながら、カノンに聞いた。
「今日、あんたの恋人来る?」
今日は週末だ。カノンは気まずそうに「うん」と答える。
「ならおれが話つける」
「え? いやいやいや」
カノンは手を振った。どう考えても血を見る結果になるようにしか思えない。
「わたしがちゃんと言う。話しときたい事もあるし……」
「わかった。でもおれもいる。切れてあんたに何かしたら困るだろ」
「い、いや、ハマはひどい事したりはしないと思うんだけど……」
カノンはもごもご言いながらスラトを止めようとするが、スラトの意思は変わらない。レイアはにこにこしながらキョウの頭を撫ぜた。
「修羅場になるわねー。キョウ、あなたはマク様のところに行っときなさいね」
「レイアはどうするんだ?」
「わたしはいるわよ。万が一、刃傷沙汰にでもなったら大変だもの」
「冗談でもきついよ」
カノンは脱力して肩を落とした。




