51-2.スラトの想い
カノンの体は小刻みに震えだしていた。背中を丸めて顔を覆い、気持ちを吐露する。
「わ、わたし、本当に怖いんだ。あの男、わたしに何をするのかわからない。もう知らないふりをして生きようと思ったのに。忘れたふりをして生きようと思ったのに。でもあの男の影がいつまでも消えない」
スラトは少しためらっていたが、カノンの肩に手を置いた。カノンは自分がわかっていた。スラトの気持ちが好意だと気づいた瞬間、それに甘えようとしているのだ。
「顔、上げろよ」
とても見せられるような顔はしていない。でもいつもの訓練場を見れば、気持ちも少しは落ち着く。
「違う。こっちを見ろ」
カノンがスラトの方を向いた瞬間、スラトはカノンの腕を掴んで引き寄せ、唇を重ねてきた。
時間にしてほんの数秒。そのキスは熱かった。
「落ち着いたか?」
スラトは冷静を装った顔をしているが、カノンを掴んでいる手は確かに震えていた。
「うん、ありがとう」
カノンは思わず笑んで礼を言った。スラトの緊張が、逆にカノンの不安を癒してくれた気がした。
カノンは痛いほどに握りしめてくるスラトの腕に、そっと手を置いた。
「さっきの返事だけどさ、ごめん。わたしは付き合えないよ。一応、付き合っている人がいるんだ」
離そうとしてくるカノンの手に逆らって、スラトはますます強くカノンの腕を握りしめる。
「そいつが、あんたの怖い男じゃないのか?」
「違うよ。わたしが怖いのは、わたしの本当の父親だ」
「あんたの男は、そいつからあんたを守れてないんだろ?」
それはそうだ、とカノンは思う。ディアンダという男が怖いと口にしたのはこれが初めてだ。誰にも言えなかった。マクやレイアにも。ましてやハマにそんな事を言えば、その理由を深く聞かれるんじゃないかと思ったからだ。
「あんたさ、みんなから自分がどう見られてるか知ってる?」
スラトは急に前を向いて話題を変えてきた。スラトの言うみんなとは、この訓練場にいる兵士達の事だ。スラトはカノンの腕を離して、今度はベンチに置いていた手に手を重ね合わせる。じとっと汗がにじんでいるのがわかる。
「どうって……?」
カノンは極力目立たないようにやっているつもりだ。反感を買うようになってしまってからはなおさらだ。
「あんたの体を眺めて、下品な事言ってる人がいる。そうじゃなくたってやらしい目で見られてる事に気づいてないのかよ」
カノンはそれにはショックを受けた。確かにこの国は暑くて、普段から薄着だが、同じ訓練をしている者同士、そんな目で見られるとは思っていなかった。
「だからおれは言ったんだ。あんたをおれの彼女にするからそんな目で見るなって」
スラトはカノンに向き直った。スラトの手は汗でびっしょりと濡れているが、構わずカノンの手を強く握る。
「おれはあんたを守りたい。だから、おれにしろよ」
カノンはスラトの想いにはっきりNOを突きつける事はできなかった。スラトはカノンの手を握ったまま、カノンを家まで送る。途中で冷やかしが口笛を鳴らしたが、スラトは顔を真っ赤にしたまま手を離さなかった。
家についてようやく手を離したスラトは、自分の手を睨む。
「おれの手、こんなに汗だくだったのか。か、かっこわりい」
カノンは思わず吹き出した。
「なんだよ、気づいてなかったのか?」
いつまでもくすくす笑っているカノンを見て、スラトも微笑んだ。そしてスラトは一歩前に出て、カノンに近づいた。スラトはカノンより少し背が高いだけなので、顔の位置が近い。スラトはまたキスをした。
「だ、誰かに見られたら」
「見せるようにやってんだよ」
スラトは非常に緊張している事がわかる割には積極的だった。カノンが赤面すると、スラトもまた赤くなる。
「嘘、本当はおれも恥ずかしい。でもおれは言うから。あんたはおれの彼女だって」
スラトはそうはっきり宣言して帰っていった。カノンはなんとも言えない気持ちでそれを見送った。ハマを裏切りたいと思っているわけじゃない。でもスラトの直情的な想いに揺れ動いている気持ちがあるのも事実だった。
「カノンって、案外押しに弱いのかしら?」
また突然後ろから声をかけられて、カノンはビクッとする。レイアの声だとすぐわかった。横にはキョウもいる。買い物に出かけた帰りのようだ。
「わたし、最低だよな」
カノンが自嘲して笑うと、レイアは「うーん」と首を傾げる。
「わたしとしては無しだけれど、でもあなたが誰とうまくやれるかなんて、あなた自身しかわからないじゃない? たっぷり悩んで苦しんでみるのもありなんじゃないかしら?」
レイアは「なんなら今度家に呼んでもいいわよ」とまで言う。
「どんな人か興味あるもの。ね?」
レイアは完全に高みの見物気分のようだ。同意を求められたキョウは、ただ頷く。
「さて、夕食はカノンが作ってよね。わたし仕事で疲れちゃった」
「時間かかるけどいいか?」
「いいわよ。キョウもお手伝いしてあげてね」
キョウはまたこくんと頷いた。
ディアンダは暗い部屋の中にいた。ベッドの上で膝を立てて座っている。表情は沈んでいた。
永遠の命を得る邪法にもう興味はない。親父はそれを神を殺すためにやっていたのだから。でもカノンに会いたかった。
ローカスははっきり言って当てにならない。それどころかカノンを掠め取っていきかねない。ならば以前のように直接、カノンに会いに行くか? ただそれはマクが怖かった。
マクなんて殺そうと思えば簡単に殺せるはずだった。だがいつしかマクは家族で、気の置けない友人になっていた。それでもリックまで殺した自分がなぜ、マクを殺せないのか。
答えはわからないと思っていたかったが、薄々わかっていた。またマクに家族として迎えてもらいたいのだ。リックにそう望んだように。ベングじいさんがそうしてくれたように、「よく帰ってきた」と言ってほしいのだ。
「もうどこに行けばいいのかわからない」
望んでも得られないものがたくさん増えすぎた。親父を追い続けていれば、いつか親父は「よくやった」と褒めてくれるだろうか? それともカノンに出会い続ければ、カノンはおれを受け入れてくれるだろうか?
ディアンダは混沌とした意識のまま眠りについた。




