50-2.邪法の完成形
ローカスは大樹の森の中に入る。森を縄張りとしている翼人は、タイミングがいいのか悪いのか現れない。
その内あまり大きくはない湖のあるところに出た。まるで鏡面のように大樹の森の木々と空を映しているその湖は、確かに神秘的で美しかった。
「心が落ち着くだろう?」
ローカスはそう言って湖の近くに座る。カノンも促されて腰を下ろした。
「本当にきれいだ」
カノンが心洗われる気分でいると、ローカスは座っている距離を縮めてきて、カノンの肩を抱いた。
「あ、あの……」
カノンが戸惑っていると、ローカスはキスをしようとしてくる。
「ちょ、ちょっと待って! わ、わたし、一応、恋人、みたいな人がいる、んだけど……!」
カノンはしどろもどろに拒否するが、ローカスはそれがどうしたとでも言いたげに顔を寄せてくる。
「本当に嫌なら平手の一つもするものだ」
ローカスは手慣れた様子でカノンの服を脱がそうとしている。カノンはローカスの体を離そうとしながら、本当に平手打ちをしてやるべきかと思った瞬間、声が響いた。
――見せつけてくれるじゃないか――
気づけば湖の上にくすんだ青色の髪をなびかせた女が浮いていた。それはカノンが見覚えのある女だ。
「青空を映す神……!」
「久しぶりだね、ディアンダの娘。カノンといったか」
青空を映す神は以前出会った時のように、不敵な笑みを浮かべてカノンとローカスを見ていたが、すぐにため息をつく。
「ったく、ディアンダの奴、何してるんだい。このまま他の男に取られるつもりか? いや、邪法は生娘でなくてもいいのか」
青空を映す神はぶつぶつと一人で喋る。しかしそれはカノンに聞こえていて、カノンはぞわっと身の毛がよだった気がした。
「ディアンダという男は、わたしの父親だという男は、わたしをどうするつもりだ!?」
カノンの声は自然と震えていた。答えなど聞きたくなかったが、尋ねずにはいられない。「さて……」と青空を映す神は考えた。
(答えてやるのもおもしろいんだが、なぜかためらってしまうね。このガキが苦しもうが、ディアンダの邪法がやりにくくなろうが、あたしには関係ないんだが)
青空を映す神が迷っていると、邪魔をされたローカスが不服そうな顔で口を挟んできた。
「ディアンダってわたしの知っているディアンダの事か? その娘だとか、何を言っているんだ?」
青空を映す神の沈黙と、ローカスの言葉はカノンの不安を確信に近いものにした。
父だという魔帝と、今の魔帝が違う者かもしれないとか、魔帝と若いディアンダという青年は違う人物かもしれないとか、混乱した情報の中でも薄々感じていた。理屈では説明できないが、直感が告げていた。あれが父だ。
それがわたしに何をしようとしているのか。怒りに負けないくらいの恐怖が湧いてくる。カノンは震える手を必死で抑え込もうとした。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
カノンの様子に気づいてローカスが声をかける。青空を映す神もわかった。カノンはすべてに感づいたのだと。
「ディアンダの殺し方を教えてやるよ」
青空を映す神はカノンに近づいてきて囁くように言う。
「あいつの寝込みを襲いな。あいつは邪法の副作用で数週間眠る事がある。できるだけ殺気を殺して近づくんだ。そして静かに殺りな」
カノンはパシッと青空を映す神の手を払った。
「断る。わたしは魔帝に関わる気はない」
それはカノンの精一杯の強がりだった。しかし青空を映す神はそんなカノンの反抗より、払われた手の方を気にした。
「あたしに触った? 気づかなかったが、あたしの体は今、現世に近づいているのか?」
青空を映す神はカノンに触ってみる。カノンの手をしっかりとつかむ事ができた。
「あんたが鍵だったのか。いや、だが考えれば何も不思議な事じゃない。こんな事を見落としていたなんて」
青空を映す神はカノンに顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「濃い魔力の匂い。あんたを喰えばいいのか? いや、違う。違う気がする。もっとおぞましい何か……」
考えている内に、青空を映す神は体にだるさを覚えてきた。嫌な予感がして、カノンから離れる。それと同時に思いついた。
「そうか、あたしらの体はもう限界なんだ。だからこの世からずれた場所に移動した。この世に返り咲くには、新しい体が必要……」
「さっきから一人で何を言ってるんだ?」
睨むカノンを見て、青空を映す神はにやりと不気味な笑みを浮かべた。
「あんたのその強い魔力の匂い。男を惹きつけるよ。惹きつけられた男は、邪法をやる力があるはずさ」
「匂い……? 惹きつける……?」
「あたしにまだ時は来ていない。あんたは哀れなほどおもしろい存在だねえ」
青空を映す神はそのまま消えていった。
「誰なんだ、あの女は」
ローカスはまだ不服そうな顔で、今さらながらそんな疑問を口にする。カノンは軽く首を振って、それを説明しはしなかった。
「あんな女の事は気にするな。たぶん、気にする必要はないと思う」
さすがのローカスも、こんな雰囲気のままでカノンを抱く事はできないと悟ったのか、カノンの頭を軽く抱くだけで、カノンを慰めた。
その時、不意に「ギャア」と声がして上から翼人が降ってきた。
「ジェス?」
カノンはそれが自分が名をつけた翼人だと気づいたのも束の間、バランスを崩して倒れこんだ。受け身を取る事も忘れ、そのまま下の岩に頭をぶつけて気絶してしまう。ジェスはカノンの上に乗って、また「ギャア」と鳴いた。ローカスは苛立って七つの魔石を浮かせた。
「この鳥もどきが、わたしの女に何をする」
「犯すのだ。わたしの子を孕むようにな。いや、わたし自身を孕むようにか」
いつの間にかもう一人翼人がいた。それは明らかに獣の頭しか持たないような翼人とは雰囲気が違う。
「何者だ?」
「わたしは、日輪の神」
「よくわからないが、不愉快だ。くたばれ」
ローカスはその雰囲気にふさわしい氷のような表情になり、魔石で攻撃を仕掛ける。カノンの近くにいる事で体が実体化している日輪の神は、それを避けきれずに深手を負った。
「邪法の呪いを解く事と、死は隣り合わせというわけか。今は選べない」
日輪の神は血を垂らしながら消えていった。




