初めての恋は、びりびりな味
ユリアには、恋がわかりませんでした。
ユリアが初めて恋という言葉を知ったのは、絵本の中での話です。
ある日突然出会った王子様とお姫様。二人は互いに惹かれ合い、熱い恋に落ち、結婚するのです。
貴族の娘として生まれたユリアは、他の男の子と触れ合うことがありませんでしたから、惹かれ合うなんて気持ちが想像もできないのでした。
ユリアの結婚相手を決めるのは両親です。自分が決めていいことではないくらい、ユリアだって知っています。
だから恋が絵本の中だけでの話だと思っていたユリアでしたが、それが間違いだったと知ることになります。
それはお姉様の話からでした。
「今日もあの方が素敵でクラクラしたわ。聞いてちょうだい、私に微笑みかけてくださったのよ。きっと彼の方も私を想ってくださっているんだわ」
ユリアのお姉様、セシリアは瞳をキラキラ輝かせながら、そんな話を聞かせてくれます。
セシリアお姉様は奔放で、婚約者がいません。昔はいたのですが、自分から捨ててしまったのです。
そんな彼女が追いかけるのは美しいと有名な騎士様です。結婚なんてできるはずがないのに、どうしてそんなに夢中になれるのだろうと、ユリアは首を傾げずにいられません。
だからユリアは考えてもみませんでした。
まさか自分が、恋をする日がやって来るなんて。
***
「ユリア。お前の婚約者が決まったぞ」
お父様にそう言われ、ドレスを着ておめかしをされて向かった先で出会ったのは、金髪に青い瞳の綺麗な男の子でした。
その男の子はこの国の末の王子様です。
彼のあまりの格好良さに目を奪われながらも、ユリアはドレスの裾をつまんでお辞儀をします。
「初めまして、王子様。わたしはユリアと申します」
「こんにちは、可愛いお嬢さん。僕の名前はクリストファー。よろしくね」
ニコリ。
優しく微笑まれた瞬間、全身にびりびりっとまるで雷が落ちたかのような衝撃を感じました。
驚き過ぎて、声が出ません。
だって、こんな感覚、ユリアは初めてだったからです。
それ以上何か喋るのも忘れて、小さな王子様をまじまじと見つめてしまいました。
王子様は「どうしたんだい?」と言って、くすくす笑います。その笑顔を見て、ユリアはまた、胸のあたりがびりびりと痺れるのを感じました。
痛いような、嬉しいような、そんなびりびりでした。
王子様と出会ってからというもの、ユリアはあのびりびりが忘れられません。
時々ぼぅっとしては、その意味を考えていました。
「最近なんだか元気がないわね、ユリア?」
セシリアお姉様が揶揄うように言いながらやって来ます。
ユリアはセシリアお姉様を振り返り、言いました。
「なんだかとってもびりびりするの。でも、なんでかわからなくて」
「ふぅん。それはきっと、初恋ね」
「初恋?」
「そう、初恋」
セシリアお姉様はうっとりした目をしました。
「運命の人との出会いの時は、まるで雷が落ちたように思うものよ。もちろんそうじゃない時もあるけれど、大体はそう。ユリア、クリストファー様のことが、好きなのね」
「……わたし、王子様のこと、好きなの?」
「当たり前よ。ユリアだってすぐにわかるわ」
けれども、それからしばらく経っても、ユリアにはピンときませんでした。
ただ王子様のことを考えると胸が温かくなって、嬉しくなるのは確かでした。
***
王子様はユリアに優しく、会う度にプレゼントをくれました。
可愛らしいドレス、大好きな花、素敵な香りのする香水やキラキラ光るアクセサリーの数々。
それらは全部、ユリアの大事な大事な宝物になりました。
でも、一番の宝物は王子様が見せてくれる笑顔です。
王子様の笑顔はどんな宝石よりも輝いていて、素敵だったのです。
その笑顔を見られるだけで幸せでした。
王子様との出会いから三年ほどが経って、ユリアはずいぶん大きくなりました。
一方、セシリアお姉様はなんと大好きな騎士様と結婚することになって、近頃ウキウキしています。
絵本のような恋もあるのだなと、ユリアはそれはそれは驚いたものです。
「恋って素敵なものなのよ」とセシリアお姉様は言います。
「ユリアも本当に好きな人ができたら、全力で奪いに行きなさい。まあ、ユリアの場合は婚約者が好きだから問題ないかも知れないけれど、でも油断しちゃダメよ」
「どうして?」
ユリアが尋ねると、セシリアお姉様はにっこり笑って、こんなことを言いました。
「だって、あなたの王子様を奪おうとする泥棒猫がいるかも知れないでしょう?」
その時のユリアは首を傾げましたが、それからすぐに、セシリアお姉様の言っていたことがわかるようになるのでした。
それは、春風がそよぐ暖かいある日のこと。
いつものように王子様に会いにお城へ行ったユリアは、王子様の隣に誰かがいるのを見つけました。
「誰だろう……?」
呟いて、近くに行って、見てみました。
それは、ユリアの知らない女の子でした。
その女の子は薄い金の髪を風に靡かせ、大きな桜色の瞳で王子様を嬉しそうに見つめているのです。
この子は一体、誰なのでしょう。どうしてこんなに可愛い女の子が、王子様の隣でニコニコしているのでしょう?
ユリアの胸がびりびりし始めました。でもそのびりびりは、王子様と初めて出会った時のものと違って、悲しいような、切ないような、そんなびりびりでした。
「……王子様、その子、誰ですか」
ユリアの声にびっくりしたのか、振り返った王子様が目を見開きました。
そして王子様の隣の女の子は、ぎゅっと王子様に抱きつきます。
お嫁さんになるはずのユリアですら、まだ王子様と手を繋いだこともありません。
なのにその女の子は、王子様に抱きついているのです。つまりユリアよりも、王子様と仲がいいということなのでしょう。
「ユリア、この子は――」
王子様の言葉の途中で、ユリアは走って逃げ出してしまいました。
聞きたくなかったのです。王子様が、『ユリアより大切な人だよ』と言って彼女を紹介するところなんて。
走って走って、倒れそうになりながら走りながら、ユリアは思いました。
やっぱりわたしは、王子様のことが好きだったんだ、と。
でも王子様はきっと、ユリアよりあの女の子の方が大切で。
そう思うと胸がびりびりして辛くて、泣いてしまいました。
それからどうやってお屋敷に帰ったのか、ユリアは覚えていません。
***
絵本では、恋は幸せで、素敵なものだと書いてありました。
セシリアお姉様だって楽しそうで、いつも瞳をキラキラさせていたのに。
ユリアの初めての恋は、びりびりで、切ない味がしました。
何度か王子様からお誘いの手紙が来たけれど、ユリアは体調が悪いと言って全部断りました。
会ったらきっと泣いてしまうと思ったからです。
今頃、王子様はあの女の子と楽しく遊んでいるのかも知れません。
あの女の子はとても可愛くて綺麗でしたから、王子様は女の子といた方が楽しい気持ちになることでしょう。
そしてあの輝くような笑みを見せるのです。
ユリアだって、王子様の笑顔を近くで見たいのに。
でもこうして自分の部屋に閉じこもり、ベッドの上で寝転がっていたら、王子様の笑顔なんて見られるはずもありません。
王子様が来てくれたらいいのに、と思いましたが、きっとユリアのことなんて忘れているでしょう。
――ユリアも本当に好きな人ができたら、全力で奪いに行きなさい。
セシリアお姉様がそう言っていたのを、ユリアは思い出しました。
でもユリアは、セシリアお姉様のように奔放ではありませんから、奪うだなんて強引なことはできません。
それでも、
「王子様に、会いに行ってみようかな」
ユリアの気持ちを王子様に伝えるくらいはできるかなと、ユリアは思いました。
会ったら泣いてしまうかも知れません。泣いたら呆れられるか、もしかすると嫌われるかも知れません。
それでもユリアは勇気を出して、ベッドから立ち上がり、王子様にもらったお気に入りのドレスに着替えたのでした。
***
久々にお城へやって来たユリアは、綺麗な花々に目もくれず、王子様の姿を探しました。
そしてすぐに、見つけます。王子様はやはりあの時の女の子といて、しかし楽しげに笑ってはいませんでした。
「ユリア、大丈夫かな」
「悪いことしちゃったわね。謝りに行きたいけれど……」
二人が自分の話をしているらしいとわかり、ユリアは驚きます。
王子様はユリアのことを忘れていなかったのです。
でも、それならどうして、会いに来てくれなかったのでしょう。
わからないまま、ユリアは王子様たちの前に出て行きました。
「……王子様、お久しぶりです」
初めて出会った時のように、スカートの裾を持ち上げて、綺麗にお辞儀をしながら言うユリア。
王子様の顔をまっすぐ見つめましたが、不思議と涙は出ませんでした。その代わりに、心の奥から力が湧いてくる気がしました。
「ユリア、どうしてここに? 病気だったんじゃないのかい」
「ごめんなさい。実は、病気じゃなかったんです。王子様と会う勇気が、持てなくて」
ユリアは正直に全部話しました。
王子様が大好きなこと。このびりびりな気持ちが、恋だとわかったこと。
それを聞き終えた王子様は、「そうだったんだね」と優しく言いました。
「ユリア、実は彼女は、僕の友達でも、もちろん恋人でもないんだ」
「え……?」
「彼女は僕の妹だよ」
王子様に妹と呼ばれた女の子は大きく頷いて、「兄様の言う通りなの」とにこにこ笑います。
確かに、よくよく見てみれば、王子様と彼女の髪の色は同じ金色です。顔立ちもそれとなく似ている気がしてきました。
でも、もし本当に王子様たちが言うようにただの兄妹だとしたら、おかしいことがあります。
王子様の妹なんて、三年も一緒にいてあの時まで一度だって見たことがありませんでした。どうして急に彼女が王子様のそばにいるようになったのかを、ユリアは不思議に思ったのです。
その疑問に答えてくれたのは、女の子でした。
女の子の話によると、王女様は体が弱く、今まで外に出て来られなかったといいます。
しかし最近になって元気になり、外に出られるようになったようです。そしてユリアにも挨拶がしたいと思い、あの日、王子様の横でユリアを待っていたというわけでした。
なるほど、それなら王子様に抱きついたのも頷けます。
家族なら、抱き合ったりするのは普通に許されることだったからです。
王子様がユリアをお見舞いに来なかったのも、ユリアの病気が悪くなってはいけないと思ったからだというのです。
もちろん病気というのは嘘だったのですが。
「ユリアお義姉様、これからよろしくね」
女の子はにっこり笑って言いました。
***
彼女から全てを聞き終えると、ユリアの顔が、恥ずかしさで真っ赤になってしまいました。
嫉妬していた女の子は王女様で、セシリアお姉様の言っていた泥棒猫なんかではありませんでした。
勝手に勘違いをして、あんなに落ち込んで、泣いていたなんて。あの時、逃げ出さずに王子様の話をちゃんと聞いていれば良かったのです。後悔してもしきれない気持ちでした。
「ごめんなさい……わたし」
「いや、ユリアは悪くないよ。勘違いさせたのは僕だ。ごめんね」
王子様はユリアの手を握り、安心させるように微笑みます。
その笑顔に、ユリアの胸に、びりびりっと激しい電気のようなものが走りました。これが恋の稲妻なのだと、今のユリアにはわかります。
「心配しないで。僕もユリアのこと、大好きだから」
幸せなびりびりに包まれて、思わず王子様に抱きついたユリア。
王子様はそれを受け入れ、ユリアの髪を優しく優しく撫でながら言いました。
「勘違いさせないためにも、これからいっぱい言葉と行動で好きを伝えていくから、覚悟してね」
その瞬間、ちゅっと唇に柔らかい何かが触れました。
あまりに幸せだったので目を閉じていたユリアが、その柔らかいものの正体に気づいたのはしばらく経ってからのこと。
嬉し過ぎて頭が真っ白になって、王子様の胸の中に倒れ込んでしまったのでした。
――初めてのキスの味? それはもちろん、甘く痺れるようなびりびりの味でしたよ。
***
互いに惹かれ合っていたことを知って以来、ユリアと王子様は今までより親しくするようになりました。あの輝くような笑みを向けながら、ユリアを甘やかしてくれます。
そんな二人を見守るのは、可愛い王女様です。
ユリアと王子様はやがて結ばれ、幸せな結婚式を挙げることでしょう。
その時がユリアは、楽しみでなりません。
お読みいただきありがとうございました。