梅の木の下で、あなたと花を愛(め)でたいのです
最寄り駅から電車を3回乗り換え、さらにバスに乗り、停留所から歩いて25分。ほぼ登山道に近い遊歩道を歩いてようやく分譲地にたどり着いた。
「ごらん、ここが僕らの新居だよ」
すっかり真っ白になってしまった頭を下に傾け、語り掛ける。胸に抱かれていたのは白い小さな箱。古く遠い記憶がよみがえる。
梗一郎が梅と出会ったのは戦中。日本軍の勝利を大多数の日本人が信じていた頃であった。ようやく軍から与えられた数日の休み。家の戸を開けると懐かしい香りがした。今夜のおかずは自分の好物のがんもどきの煮つけか。ただいまの声を発する前に弾丸のように妹の楓が飛び出してきた。見事命中。いけない。縁起でもない。梗一郎は頭を振った。母が前掛けで手を拭きながら「おかえり」の声をかけてくれた。その母の目に涙がにじんでいる。梗一郎はさも何でもないというように荷を下ろした。裏の井戸で水を被り、顔を擦り上げる。水滴を拭った手ぬぐい越しに日が落ちていく。つかの間、黄金色に輝く母の庭は花よりも野菜の方が多かった。茶の間にはすでに食卓が用意されていた。やはりがんもどきが添えられている。夕餉を取りながら互いの近況を一通り報告し合った。食後のお茶が自分専用の湯のみに注がれる。掌から伝わる馴染みの感触と温かさ。
「それでね。梗一郎。このお嬢さんなのだけれど」
母がちゃぶ台の上を滑らすように写真を差し出した。髪をまとめ、軽く微笑む妙齢の女性が写っている。
「いつ?」
「明日」
「急な見合いだね」
「そうじゃなくて、結婚式」
梗一郎の手から写真が滑り落ちた。
珍しくはない。いつ死ぬかもわからない身の上。梗一郎の友人の中には、本人不在のまま結婚させられてしまった者もいたくらいだ。翌朝には黒留袖の新婦が到着。梗一郎は母が急ぎ繕い、埃を払った軍服を纏った。互いの家族と友人数名だけのささやかな酒宴。文字通りのスピード婚である。だが、これでいいのかもしれない。これから激戦地に向かう自分が結婚していいのか?子をなすかもしれぬ行為をしていいのか?答えはどれほど考えても出はしない。人生は無駄に悩めるほど長くはないのだろう。ならば家族の望むままに。
その夜、新婚夫婦の寝室には真新しい布団が引かれていた。新婦家族が苦労して手に入れたのであろう。せめてもの嫁入り道具だ。三つ指ついて新婦が深々と頭を下げる。ここにきてようやく自分が結婚したのだと、現実味が湧き上がってきた。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
新婦の肩がわずかに震えている。それを優しく抱かなくてはと頭ではわかっている。けれど油が切れた機械みたいに体が強張ってしまう。ええい!動け。無理に右足を前に出そうとした。が、何故か足首が伸びきって、足の指がぐにゃりと曲がってしまった。後はスローモーションのように新婦の上に倒れ落ちた。恥ずかしさで顔が熱い。恐る恐る身を起こす。
「ケガはないか?すまない」
新婦はこちらを見ずにこくりとうなずいた。耳まで赤い。倒れた拍子にはだけたであろう胸元。ええい、ままよ。梗一郎は自然の摂理に身を任せた。
「私は梅の咲くころ生まれたので梅と名づけられました」
無事大事を成し遂げた安堵感の中に包まれていた。梅の声が心地良い。
「あなたに似合う可愛い名ですね」
「梗一郎様のお名前も、もしかしたら桔梗から?お庭に咲いておりました」
「ええ、母は花が好きで…」
薄暗がりの中で声を潜めてひそひそ話す。内緒話をしているかのよう。この世で一番近しい感じさえする。きょう会ったばかりだというのに。
「もし、今夜あなた様の子を授かりましたら、桜の咲く頃生まれてくるのでしょうか」
「そうですね。それなら名前は桜かな」
「男の子でしたら?」
「う~ん、男で桜は難しいですが…」
ここは夫として知恵のある所を見せなくては。目を閉じて集中する。知り合いの男たちの名前が頭の中をパレードする。
「そうだ、桜太、桜に太いで桜太」
「まあ、優しくたくましい感じのする良い名ですね」
暗闇で互いに顔が見えなくても、微笑み合っていることがわかる。
夜が柔らかい。闇が優しい。存在が愛しいと…
令和の今思い返しても自分の人生で一番幸せな夜であった。終戦後、帰宅した梗一郎を出迎えてくれる家は燃えてなかった。唯一残されていた家族は1歳と数か月の娘、桜であった。桜と二人懸命に生きてきた。その娘も嫁ぎ、二児の母になった。もうすぐ祖母になり、僕を曾祖父にしてくれるだろう。そこで今はやりの終活を始めた。桜が嫁ぎ自分の後、継ぐ者のいなくなる墓を墓終いし、梅の遺骨だけ持って帰ってきたところだ。
「やっと、あなたとの約束が果たせますね」
あまりに短い新婚生活を終え、戦地に帰る日。泣いてしまった梅と約束したのだ。戦争が終わったら、あなたの好きな梅の花を一緒に見に行きましょうと。樹木葬のことを知った時、すぐにその約束を思い出した。樹木葬なら墓石の代わりに好きな木の下で眠ることが出来るから。
梗一郎の足元の花壇に、桔梗の花が風に揺れて咲いている。今は広々としたこの土地も何年、何十年としたら素敵な公園墓地になるだろう。その一角で僕とあなたの梅の木は春を告げる先駆けとなるにちがいない。すっと息を吸い込むとまぼろしの梅の香りが鼻を通り抜けていく。そんな気がした。