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女郎花(おみなえし)

作者: どくだみ
掲載日:2009/11/23

 宵闇が迫ると、江戸随一の遊郭、吉原に明かりが灯る。女郎屋の店先からは男を誘う、明るい声が響き渡る。

「お兄さん、遊んでおいきよ」

 そんな女郎屋のひとつ、鶴屋からも同じように男を誘う声が響いていた。

 だが、その座敷の奥で呼び声も掛けずに、俯いている少女がいた。年の頃は十七くらいか。男を誘うわけでもなく、ただ下唇を噛んで俯いている。

「ちょいと、お里! そんなシケた面なんかしてたら、お客なんか取れやしないよ。あんたも家のために、自分で納得して身売りされてきたんじゃないか。しっかり10両分は稼いでもらわなきゃ困るよ!」

 顔を覗かせた遣り手の婆が叱責する。この少女の名をお里といった。


 お里はもともと、さる地方の百姓の娘であったが、家の牛が死に、人買いに売られたのだった。それから女衒に引き渡されたお里は、「この娘は宿場の飯盛女にゃもったいねぇ」という女衒の見立てで、こうして吉原の鶴屋に売られたのだ。

 お里には百姓の与作という将来を誓った男もいた。しかし、それの夢も泡のごとく消えてしまったのである。10両という大金を百姓が手にすることは、まず不可能なことであった。


 お里は遣り手の婆に小突かれて店の前へ出た。そこでお里は信じられない人物を見たのである。

「・・・・・・!!」

 お里は目を丸くして口まで出かかった言葉を飲み込む。何と、そこには、あの与作の姿があったのである。

 与作は周囲をキョロキョロと見回していた。そしてついにお里と目が合う。

「お里・・・・・・!」

 お里は目を伏せた。与作がこんなところにいるのが信じられなかったこともある。しかしそれ以上に、こんな女郎にまでなった己の姿を与作に見られたことを恥じたのだ。

 しかし与作は店の中へと入ってきた。そしてお里を名指ししたのである。

 遣り手の婆は商売っ気たっぷりの愛想笑いをしながら、与作を床の間へ案内した。そしてお里には厳しい目を向ける。

「いいかい。しっかりおやりよ。客を怒らせたりしたら、お仕置きだからね」


 お里は俯いたまま、与作が待つ床の間へ入った。すると、すぐさま与作が駆け寄る。

「お里・・・・・・、どんなに会いたかったことか・・・・・・」

 しかしお里は目を逸らして呟いた。

「どうして与作さんがこんなところへ来たのですか? 

私はもう、与作さんの知っているお里じゃありません。あなたのために操を守ることもできませんでした・・・・・・」

 お里の目から一筋の涙がこぼれる。それは化粧と混ざり合いながら、赤い襦袢を濡らした。

「お里・・・・・・、いいから、こっちへ来い・・・・・・」

 与作に促され、お里は床の脇へ座った。与作はため息をつきながら、何かを言い出そうとしているようだが、なかなか言い出せない。重い空気と時間が流れた。


「俺はな、明日、ご老中の酒井様のお駕籠に直訴するために国を出て来たのだ・・・・・・」

 ようやく与作が重い口を開いた。その顔をハッとした表情でお里が見つめる。

 当時、老中に直訴した者は駕籠先を乱す者として斬殺、いわゆる斬り捨て御免で処罰されるのが通例であった。そればかりではない。与作は国から関所を通らず江戸までやって来ている。これも死罪に値する行為であった。

 そこまでして直訴しようとする農民が後を絶たなかったのは、当時の領主の圧政がいかに酷いものであったかを物語っている。

 ちなみに与作が直訴しようとしている相手とは、時の勢力を牛耳り、下馬将軍とまで謳われた酒井雅楽頭忠清のことである。

「な、何故・・・・・・?」

 お里が震える声で与作の袖を掴んだ。

「お年貢の取り立てが年々厳しくなってな。このままじゃ皆、ツブレ百姓よ。誰かがやらなきゃならねぇ・・・・・・」

「だからって何も与作さんが・・・・・・」

「年寄りの足じゃ、すぐ追っ手に追いつかれる。俺は村で一番の早駆けだったからな。村の衆は隠し米を金に変えて持たせてくれた。それにお前を失った俺は、これ以上生きていたって・・・・・・」

 お里と与作は見つめ合った。

 お里は「直訴などしないで!」と喉まで出かかっている。誰も好いた相手が死ぬとわかっていて、みすみす見過ごすことができようか。

 与作とて、できることならお里を引き取ってやりたいが、それだけの金もないし、果たさなければならない使命がある。

「ああっ・・・・・・」

 お里が泣き崩れた。その肩を与作がそっと抱いた。

「俺にとっても、お里にとっても、これが最初で最後だ・・・・・・。だから、今夜は・・・・・・」


 不夜城のごとく明かりが灯り、喧噪が絶えない吉原の女郎屋の一室で、真実の愛を求め合う男女が絡み合っていた。

 蜉蝣が儚い生命の時間を精一杯謳歌するが如く、行灯の明かりに淡い影が浮かぶ。

「ああっ、与作さん・・・・・・」

「お、お里・・・・・・」

 与作とお里の、絡め合う手足の力が次第に強くなる。お里は与作を強く求め、与作もまたお里を強く求めた。

 お互いに生まれたままの姿になった男女が愛し合う姿は、まるで何かに取り憑かれたようであった。

 生命を紡ぐこの行為も、今の与作とお里にはその本来の意味を為さない。今の二人を支配するもの。それはすべてを忘れさせる愛の強さと、快楽に他ならない。

 お里は女郎になって初めて快楽を知った。与作も初めて知った女体の心地良さに酔いしれている。

 こうして愛の行為は夜が白むまで続いた。


 店を出る前に与作が赤い糸をお里に渡す。与作も同じ糸を持っている。与作はそれを小指に巻くと、店を後にした。


 与作が帰った昼過ぎ。お里は台所にあった包丁で、己が胸を突いて自害した。その小指には与作から渡された、あの赤い糸が巻かれていた。

「まったく、ロクに客も取りゃしねぇ上に、畳まで汚しやがって・・・・・・」

 人相の悪い、鶴屋の主人が吐き捨てるように文句を言っている。

 お里の遺体はすぐ浅草界隈の非人に引き渡された。


 非人とは江戸幕府の身分制度の中で、士農工商より更に低い身分で、言われなき差別を受けていた者たちである。その仕事は処刑の執行や屍の処理などが主であった。幕府は人の忌み嫌う仕事を彼らに与え、更に身分を低くすることで農民を始めとする庶民の鬱憤を、差別という形で彼らに向けさせていたのである。


 非人が大八車にお里の遺体を乗せて歩く。すると浅草でもう一台の大八車と出会った。

「なんでぇ、そっちもオロクけぇ・・・・・・」

「ああ、下馬将軍様に直訴した百姓だ・・・・・・」

 大八車の筵を退ける合流した非人。するとそこには、直訴状を手にした与作の遺体があった。直訴状が酒井雅楽頭に取り上げられることはなかったのである。その小指にはしっかりと赤い糸が結ばれていた。

「ちなみに、こっちは自害した女郎だ・・・・・・」

 お里を運んできた非人も筵を退ける。

「二人とも若ぇのに、もってぇねぇよ・・・・・・」

「ちょうどいい。一緒に埋めるか・・・・・・」


 こうして、お里と与作の亡骸は一緒に大川(墨田川)のほとりに埋められたという。二人は死してようやく結ばれたのである。

 そしてそこには、秋になると女郎花が咲いたという。


(了)


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