コレット・アルノー男爵令嬢は侯爵子息を叱咤する
コレット・アルノー男爵令嬢は、極普通の少女だ。
貧乏ではないが贅沢をするほど裕福でもない、そんな男爵家に生まれた。両親は貴族には珍しい恋愛結婚であるらしく、今でも仲睦まじい。兄が一人いて、兄妹仲もそれなりに良く、家族仲は至って良好だ。
そんなコレットには、憧れている人がいる。
カロリーナ・ベランジェ公爵令嬢。
次期王太子妃と呼ばれて……いた、人である。
彼女を初めて見たのは、学園の入学式だった。生徒代表として舞台の上に立つ彼女を見た瞬間、どうしようもなく胸がときめいた。
恋とは少しだけ異なる高揚感。はっきりと浮かんだ感情は「憧れ」だった。
所作も表情も、声も、言葉も。何もかもが完璧な、公爵令嬢。
コレットは翌日から、毎朝カロリーナが登校するのを待った。そして彼女を見つけるとすぐに挨拶した。最初は他の生徒と同じように挨拶を返すだけだったが、しばらく経ったある日にカロリーナが言った。
「あなた、いつも同じ時間にいらっしゃるのね」
穏やかな笑顔でそう告げられたコレットは、その瞬間死んでしまいそうなほど驚いて焦った。まさか挨拶以外の言葉が返ってくるとは思ってもみなかったのだ。誰にでも等しく声をかけ、優しく笑いかけるカロリーナ。その笑顔を見ると、その日一日頑張れるのだと彼女に憧れるものたちは誰もが口を揃えて言った。
コレットは勢い良く頭を下げて謝った。
「もももも申し訳ございませんっ! ご、っ、ご不快な思いをさせていまいましたでしょうかっ!」
「ふふ。違うわ、そうではないの。今ではあなたのその元気な挨拶を楽しみにしているのよ」
「……えっ」
「アルノー男爵家の方よね。確か、お名前は」
「こ、コレットです! コレット・アルノーと申します!」
学園にいる生徒の一人、少しも珍しくない男爵家の娘。そんな自分が、カロリーナと言葉を交わすことが出来るなんて。
さらに翌日から、カロリーナは挨拶のあとにコレットの名を呼ぶようになった。最初は自身の耳を疑ったコレットであったが、間違いなく「ごきげんよう、コレットさん」と言ったのだ。
さん付けなんて恐れ多い、呼び捨ててください! と九十度よりもさらに深く腰を折れば、カロリーナはまた優しく笑って「わかったわ」と答えた。
アベル・カルリエ侯爵子息と出会ったのも、同じ時期だった。
アベルはカロリーナと幼馴染で、誰よりも親しげに言葉を交わしている。ゆえにカロリーナが声をかけるようになったコレットとアベルが出会うのも、必然のことだった。
正直なところコレットは、アベルが得意ではなかった。
その視線は鋭く、何かを探るように向けられている。口調も特別乱暴というわけではないが素っ気なく、話が弾むという空気ではなかったのだ。
けれど次第に、コレットはアベルのその視線の意図に気がついた。カロリーナは公爵令嬢であり、王子であるフェルディナン・バダンテールの婚約者だ。彼女に近づくものは決して、友好的な人ばかりではない。悪意を持ったもの、敵意を持ったもの。それを隠して近づくもの――それを、見極めていたのだ。
そんな中でコレットは、アベルの感情に気がついた。
ただの幼馴染ではない、友情にしてはあまりに切ない感情。彼女に触れようとした手がいつも、諦めたように下げられるのを見ていた。
アベルの、コレットに対する警戒心が少しだけ解けた頃。またコレットが彼への見方を少しだけ変えた頃。コレットはアベルに、想いを告げないのかと聞いたことがある。
フェルディナンの婚約者であるのは知っている。だけれどアベルのカロリーナを見る眼差しを見ていると、聞かずにはいられなかった。
「俺は彼女の……王妃の専属騎士になるのが夢なんだ。昔から、ずっと」
そう告げる彼の表情は、笑みこそ浮かべていたもののどこか諦めが滲んでいた。幼い頃から婚約者同士であった二人を一番近くで見ていたためだろうか。カロリーナがフェルディナンのことを語る様子を、ずっと見ていただからだろうか。
完璧な公爵令嬢。
そう呼ばれているカロリーナが、初心な少女のように頬を赤らめて婚約者のことを語る姿。しゃんと背筋を伸ばして優雅に振る舞う姿からは考えられないほど無邪気で、可愛らしかった。
「小さな頃、厳しい王妃教育に耐えられなくて泣いていたことがあったの。そんな私を見たフェル様が、すごく慌てた様子でどこかへ行ってしまったのだけど……息を切らせて戻ってきてね、ハンカチに包まれたクッキーを差し出してくれたの。甘いものを食べたら元気になるよ、って」
「私が自信をなくすと、きみはきみでいいんだよ、って、いつも隣にいてくれたの。私を、カロリーナを見てくれているんだって、とても嬉しかった」
「私ね、立派な王妃様になるのが夢なの。王妃教育を思うと、きっと大変なことばかりだけれど……フェル様と一緒なら大丈夫って、そう思えるの」
きらきらと瞳を輝かせて語る姿を、コレットは心底好ましく思っていた。「完璧」と言われる公爵令嬢は、それでもやはり自分たちと同じ人間なのだと感じる。親しみとともに、より一層カロリーナを慕うようになった。
そして同時に、アベルが想いを告げられない理由もはっきりと理解する。そしてそれは、自分が口を出していいことではないと。
彼はカロリーナの幸せを願ってる。彼の態度や眼差しは、それをはっきり表していた。だから自身の想いを口にすることで、カロリーナに余計な気遣いをさせたくないのだ。
ただ、フェルディナンについては良くない噂ばかりを聞く。授業を妨げたり、女生徒に見境なく声をかけたり。
だけれどカロリーナは気にしたような素振りを見せなかった。今思えばそれも、彼女が「完璧な公爵令嬢」であったからなのだろう。
あのときから彼女の心をもっと気にかけていたら。もっと彼女に、寄り添うことが出来ていたら。
――今そう考えても、どうにもならないというのに。
カロリーナが心の病を患ってから、コレットは毎日のように彼女のもとへと通っていた。そしてそこには必ずアベルがいて、カロリーナに語りかけている。
心の病が進行したカロリーナは、アベルの声に時々反応をするだけで、会話はほとんど成り立っていなかった。だけれどアベルは諦めることなく、話しかけ続けている。
「アベル様」
「……あぁ、コレット嬢。今日も来たな」
「もちろんです。カロリーナ様がどう思っているかわからないけど、私はカロリーナ様のことを大切なお友達だと思ってますので」
あの学園の中で、アベルの次に仲が良かったと自負している。だからこそ彼女の心の傷に気づけなかったことを嘆いた。
コレットは持っていたバスケットを、カロリーナに差し出して笑った。
「ごきげんよう、カロリーナ様! 今日は私、パウンドケーキを焼いてきたんですよ!」
カロリーナの瞳が動く。光を灯さない瞳は、それでも声の主を見ようと動いていた。
「ごきげんよう。……えっと……コレット、さん……?」
「もう、呼び捨てでいいですって! 私とカロリーナ様の仲なんですから、ね!」
笑顔を向けると、少しだけ間を置いてカロリーナも笑顔を浮かべてくれる。以前のような、鮮やかな微笑みではなかったけれど、それでも笑顔があることにコレットは安堵していた。
「お嬢様。カロリーナお嬢様。お医者様がお越しです」
執事長――カロリーナにとっての「じいや」が声をかける。
彼女の病は進行してしまったものの、少しだけ良い変化があった。以前まで「公爵令嬢」という言葉でしか自身を判断できなかったカロリーナが、名前に反応するようになったのだ。彼女の主治医も、それだけが唯一良い傾向であると言っていた。
「これは、コレット様。今日も良くお越しくださいました」
「いつもお邪魔してしまって申し訳ございません」
「邪魔だなんて、そんな。コレット様にアベル様、お二人がお嬢様のことを大切にしてくださっていること、私どもは良くわかっております。一時は絶望こそありましたが、今では希望も見出しているのです」
初老の執事長は穏やかに笑って、二人に礼をする。
診察の時間のため、執事長と共にカロリーナが席を外すと、コレットは短く息を吐いて持っていたバスケットをテーブルの上に置いた。
「アベル様。フェルディナン殿下は……」
「今日は来ていない」
「そうですか……」
カロリーナが心を病んでしまった一番の原因であるフェルディナンは、週に一度か二度、カロリーナの元を訪れている。コレットとしては毎日来ればいいのに、と言いたいところであるが、彼は王子である。それまでの行いのために遅れていた諸々を取り戻すために時間を割いているのだろう。そして何より、もうカロリーナの婚約者ではなくなった。
彼が望もうとも、周囲がカロリーナのもとへ通うことを許さない。新しい婚約者が決まるのも、時間の問題だろう。
コレットはずっと思っていたことを、アベルに尋ねた。
「アベル様は今も、カロリーナ様の心を取り戻せるのはフェルディナン殿下であると思っているのですか?」
アベルの眉が、ぴくりと動く。考え込むように口を閉ざし、そして答えた。
「あぁ」
コレットがぎゅっと、拳を握った。
「なぜですか? カロリーナ様があんなふうになってしまったのは、あのひとのせいなのに」
「不敬罪だぞ」
「構いません。今は私とアベル様しかいませんから。……私は今も、殿下のことを許すことが出来ないです。あの人がどれだけカロリーナ様に謝ったとしても、罪を償っても……だって、だってもうカロリーナ様は、王妃様にはなれないんだから!」
立派な王妃様になるのだと言っていた。その夢が叶うことはない。たった一度でも心の病になってしまったものを、王族は受け入れないだろう。たとえカロリーナがどれだけ優秀であっても、どれだけ努力を重ねていたとしても。
それが、現実だった。
「でもカロリーナは、今でもフェルを……」
「そうかもしれません。カロリーナ様の心にはまだ殿下がいるかもしれません。……でも、もう婚約者ではないんです。カロリーナ様が願った幸せは、一生手に入らないものとなってしまった」
ひゅっ、と、アベルが息を呑む。
「それでもアベル様は、殿下がカロリーナ様の心の病を治してくれると考えているのですか? それならアベル様が毎日カロリーナ様に語りかける理由は何なのですか」
彼の想いを知っている。
彼女へ向ける眼差しの意味を、知っている。
「……カロリーナの心に、俺はいない」
力のない声だった。彼こそ壊れてしまうのではないかと錯覚するほどに。
コレットはかっと目を見開いて、アベルとの距離を詰める。それから息を大きく吸って、「失礼します!」と断りを入れ――その頬を、平手で張った。
「何であなたが諦めているんですか! カロリーナ様の心にあなたがいない? そんなはずないでしょう! ずっとそばで見守ってくれていたあなたを、今も変わらず傍らに居てくれるあなたを、カロリーナ様が見ていないはずないじゃない!」
コレットの目に涙が滲む。こんなことで感情を荒げて泣いてしまうようでは、まだまだカロリーナには追いつけない。そんなふうに思いながら。
「私はっ! 私はカロリーナ様が幸せであればそれでいいのです! たとえ王妃でなくても! 彼女が幸せを感じているのなら、それでいいのです! あなたもそうではなかったのですか! カロリーナ様の幸せを思うからこそ、自分の想いに蓋をして、諦めていたんでしょう!」
「コレット嬢……」
「カロリーナ様の願う幸せは、もう二度と手に入らないもの……だったら、だったら他の幸せを見つけてもいいじゃないですか……新しい幸せを、……一緒に寄り添って、探したっていいじゃないですか……!」
アベルは呆然と、コレットを見つめていた。彼女が紡いだ言葉を、頭の中で繰り返す。
カロリーナの夢は、二度と叶うことはない。彼女が追い求めていた幸せは、手に入らない。
ならば、だとしたら。
彼女はこれから先、一生幸せになることはないのか? 一生叶わぬ夢を思って生きていくのか?
フェルディナンが彼女の心を取り戻すと思っていた。彼が「決心」したら、あるいは、と。
けれど、コレットの言う通り……新しい彼女の幸せを見つけることが出来るのなら。カロリーナの隣に寄り添うのは、フェルディナンでなければいけない、なんてことはないのだ。
ぱちりと、アベルは大きく瞬きをする。それからふっと笑って、叩かれた頬に手を添えた。
「強いな、コレット嬢は」
「強くなんかありませんっ。私はカロリーナ様が大好きなだけです!」
その言葉に、またはっとする。
諦めていた恋心は、今も消えずにある。彼女の元に通い続けていた理由は他でもない、その心のためだった。
「……結局俺も、拗ねてただけか。ダセェな……」
彼女の元に通いながら、彼女の心が自分には向かないと思い込んで。フェルディナンが彼女の心を取り戻すものだと考えて。
だけれど、自分だって。
自分だってずっと、カロリーナを想っていた。
「よりによってコレット嬢に喝を入れられるとは」
「私しかいないじゃないですか。好きの方向は違うけど、同じくらいカロリーナ様を好きなんですから」
アベルがコレットへの警戒を解いた理由。コレットがアベルへの苦手意識をなくした理由。
カロリーナへ向ける感情を、互いに理解したために。
彼女を愛している。
彼女を慕っている。
その後ベランジェ公爵家から、笑い声が良く聞こえてくるようになったと言う。
心の病を患った令嬢が、元気になってきたのだろうと誰もが喜んでいた。
ただ一人、過去彼女の婚約者であった男だけは、安心しているような、けれど寂しそうな、曖昧な表情を浮かべていた。
アベル視点のお話もいずれ。
フェルディナンとの決着も。