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短編小説 ノスタルジア

作者: haiokunogaka

   序章


 かつてありもうどこにもない、誰かにとってたまらなく懐かしく切ない、夏と冬の話をしよう。

 どうして人は地球で生きているんだろう。



 かつてきっとありもうどこにもない、かもしれない、誰かが見た、美しい景色から始められるなら、美しく終われるだろうか。

 どうしてここで不安を感じながらも生命を続けてゆくんだろう。


   上/夏は来ぬ


 卯の花の 匂う垣根に

 時鳥 早も来鳴きて

 忍音もらす 夏は来ぬ


 五月雨の そそぐ山田に

 早乙女が 裳裾ぬらして

 玉苗植うる 夏は来ぬ


 橘の 薫るのきばの

 窓近く 蛍飛びかい

 おこたり諌むる 夏は来ぬ


 楝ちる 川べの宿の 

 門遠く 水鶏声して

 夕月すずしき 夏は来ぬ


 五月やみ 蛍飛びかい

 水鶏鳴き 卯の花咲きて

 早苗植えわたす 夏は来ぬ





 唱歌「夏は来ぬ」 佐佐木信綱作詞・小山作之助作曲

 



 どこかの大きな古い木の家の暑い縁側、寝転ぶ四歳の男の子。汗だくの体を木陰まで届く、目の前の海風で冷やす。母親は、後ろの畳の暗い所で、足の爪を真紅に染める。男の子が歌い出せば、母は、つんとした爪を潮風にさらしに明るみに出て来た。男の子は小さな手で、さっきわがまま言って着せてもらった浴衣の兵児帯の、背中に差してもらった団扇を気にする。

「お兄さん、団扇、いらないの? いや?」

「え?」

「うちわ」

「あっ、これ? なにかな、って、思って、ね、これ……」

「うん」

 じりじり灼熱の屋根瓦で、一匹ミンミンゼミが鳴く。男の子は裸足で庭に飛び下りて、蝉のいどこを探す。

「いた、いた」

「ね、ゆき。あとであれ、あれ行くよ」

「たも、持ってさ、あそこの、取ってこよう」

「かき氷、食べに行こう。顔理かおりが後で、百貨店、連れてってくれるって」

「あのさ、蝉が、さあ、蝉の、知ってる、抜け殻なんだ、ああ、ふふふ、クシャ。こう、なって、さ? 昨日……あっ? あのさ、あのさあ、ふふふ」

「ほらおいで。歌ってごらん?」

「歌わないよーだ……ふふふっ……」

「よっしゃ、乾いた。どこだって? 蝉。採ってやる……」

 急に立ち上がったから、くらくらと、意識が少し、白く飛んだ。


 ある女学園、外も中も真っ白な高等部校舎、最上階、廊下の一番突き当たり、第三合唱室。真っ白なセーラー服の四十人、複雑に声を重ねて歌う。夏は来ぬ。

 合唱室の引き戸の外の廊下には、扉の窓から合唱の様子を伺う、大人しそうな女子生徒ひとり。目を、大きく開け、小さい唇を引き込み、懸命に見ている。中の四十人、窓に見える女の子の目に気づき、嫌そうに見れば歌声も暗くなる。

 廊下の外の女の子、おずおず扉から離れ、小さい背を縦に揺らし、長い長い廊下を駆けて行った。その手には、二年半使い込みくたびれた、学校指定の焦げ茶色の革鞄。ここだけで小さく流行るブラックウォッチの手提げの底には、夏は来ぬのピアノ譜が、密かにしわくちゃになって入っている。大人の白鷺の群れの中に目立つ、小さな小さな青鷺。淡い灰色、中等部の夏ワンピース。


 転がるように学園前の坂を下りればあっという間に海に着く。地球の端まで、点、になるまで続くような、雑草に埋もれる灰色の歩道脇の、灰色の、熱い堤防の上。青鷺は、そこへ簡単に上ると、陽気な顔で、陰気な背中で、ぽつ、ぽつ、歩く。鷹が宇宙の辺りで、高らかに鳴く。音の鳴る方を青鷺は、確認したくて顔を上げた。反対を生きる夏休みの太陽は輝きすぎて、目蓋と目蓋を糊付ける。

「あんなに太陽の近くを飛んで火傷しないかな。そんなこと言いあえた昔に私は実は、今でも帰りたい」

 笑顔と哀しい顔を繰り返しながら、たまにため息もつき、立ち止まり、左手に見える広大な海を見る。この素晴らしい海は汚染されている。遊泳禁止。残念な砂浜は、貝毒のことから潮干狩禁止。

「ひどい。この潮風を吸い込んで体に悪くないかな」

 堤防の上に、ゆっくり、お淑やかにしゃがみこみ、あぐらをかいた。

「ああ、パン、食べそびれた。はあ」

 学校へ行く途中にコンビニで買った三食パンを鞄から取り出す。チョコレートクリームの部分は、もう食べたらしい。残るは、イチゴジャム・カスタード。

「腐ってる? 防腐剤って、だめって言う。でも、入れといて欲しい。だって腐ったもの食べてお腹壊す方が怖い。人間って、ほんと勝手な生き物」

 齧り付く。アルミを噛むように噛みながら呟く。

「お行儀悪い」

 晴夏は、むっとして、まだまだ口の中にパンがあるまま、誰に言うでもなくひとり怒って言う。

「なにあのさっきの言い方。お行儀よすぎますね。どうせそう。私はこう。もう、いやんなった。なに、なにが、ご機嫌よう……よくない。悪い! ああ悪かったね!」

 パンを噛みしめる力は、かえって弱くなる。歯が痺れたような顔は、しゅんとして、無理やり飲み込み、もっとしゅんとした。しばらくパンを見つめていたけれど、なんとなく、ぼんやり目の前の海を見た。

「海は広い。当たり前。でもそういう当たり前のものがどれだけ大事か誰もが忘れてる。新しい考えにばかり翻弄されて」

 パンを強めに握りしめた。そうすると残りのカスタードが、ぶよ、と溢れ出て、スカートに、ぼとり、と落ちたけれど、大して気にしない様子。立ち上がり、適当にクリームを摘み地面にぺい、と捨てた。右手に付いたのはスカートに雑になすり付けた。

「ああ私、海は、松原遠くの方が……」

 遠い、遠い……水平線を見る。その目は一番近い水際に戻ってくる。なんにも無い巨大な海に、鳥が一匹、秘かに寂しく浮いている。

「帰りそびれたんだ」

 晴夏は低い堤防から海側の地面に飛び下り、脚を痺れさせながら巨大コンクリートの段を、たくさん駆け下り、広大なコンクリートの平らなところをスキップし、その先の水際の、ぬめる平らな岩の所へ鈍臭い感じで辿り着いて、鳥の側に座った。

「おい鳥。ああ、鴨か。鴨。ねえ帰りそびれたんでしょう。置いてかれたんでしょう、仲間に。どんくさい子」

 かりんかりんに見窄らしく痩せ、何かで汚れ黒ずむ鴨は、ピイヨと元気に高く鳴いた。

「やろうかパン……だめか。油で海が、よごれるかな。でも知ってる? どうせ人間が食べて出したものは海に流れてる。下水処理がどんなもんかなんか知らないけれど、いろいろ流れてる。目に見えない何かが、多分」

 鴨は晴夏に近付き、くるりと前転、水中に潜ると……小さい魚を軽やかに採り晴夏に爽やかに投げつけた。生臭い水しぶきを浴びた晴夏。

「ああ? なに、この魚。ぼらかな?」

 膝に鰡を乗せたまま、晴夏は鴨に語りかける。

「私、ほんとは髪の毛、茶色いのね、でも黒く染めてんの。なぜだかわかる?」

 鴨は、暗い水に汚れた体を震わせながら、晴夏の目を見つめている。

「制服を着ていると言うことは、学校の看板を背負って歩いているのと同じことなんです」

 誰かの台詞を真似した晴夏は立ち上がった。膝から鰡が落ちた。

「知らない人が見たら、あの学校は、校則の緩い学校なんだって思ってしまうでしょ?」

 鴨は、また水に潜り、小鰡を採って飲んだ。

「こんなに気を遣っているのに……。誰も解ってくれない。でもいい。解って貰う為にこうしている訳ではない。私がこうしたいからこうしてる。強制ではないんだから。地毛が茶色い他の子は、自然のまま染めないでいたいと主張して、そうしてる。それだったらそれでいい。それがあの子の自由だから。でもあの子、黒髪持って生まれて来たらどうかな。黒髪のままでいるかな。高校出たら、すぐ染めたり抜いたりする可能性は? 誰にもわかんないよそんなこと。心の中と口先指先がどうリンクするかなんてね、自分でもね、なに、あれでしょ。しょっちゅうどうなってんだか、なにやってんだか、なに言ってんだかわかんない。つまりこの黒髪は、だから、私のこの嘘の黒髪、これも私の自由。だって黒髪大好き。誰が望んでその髪色に生まれて来る? 誰も望んで無い。そうでしょ? ああ。何が言いたいのかな、解らない。自分でも。ちょっと意地悪でしょ。でも先にあっちが……毎日もっと酷いこと言うから。なんでかっていうと、私が黒染めしたら、あっちの立場が悪いことになったから。いい子ちゃん、どうせそう。でも私はいつだって、その場で何も言い返せない。弱すぎる。こんなに寂しい場所で、こんな、はぐれ鴨に話してる。もうお終いだ。さよなら」 

 鴨は、はっ、とした。鰡は肉色の口の中を、はくはくさせて、自力で、ぴょんぴょん地べたを跳ねて海に帰り、遠く遠くまで泳いで行った。

「私は、一体、誰なんだろう……」

 太陽は更に捻じ曲がるように、ぎりぎり火照る。


「……暑い。ばかみたい。灼熱地獄……」

 灼熱の太陽は空間を、ぐにゃぐにゃに溶かす。

「ばかすぎる……。どうせね。ああ、どうせばかだな。ははは」

 背の高い痩せた美人、堤防脇を一歩一歩歩きながら、大きな黒い日傘を前に放り投げた。

「暑いな……」

 立ち止まり、灼熱地獄より冷たい、遠い遠い天国を仰ぐ。重たいスーパーのビニール袋には、食材がたくさん。せっかく美しく造られた魚の身は、すでに腐っているかもしれない。

「あつい!」

 重たそうな右手の握り込む中も、熱い汗で濡れている。その手をそっと開き、伏し目で見下ろす、どこにもない運命線。短すぎる生命線。

「どうしてこんな日に? はあ、もう……歩こうかって? はあ、思ったのかな。ははは。こんな、あっ、つ……もう、影、影ひとつもないところが地球に……あいた、汗、目に……」

 長い睫毛から落ちない汗を指で拭う。

「はあ……もう、お終いかな」


 卯、の花、の……


「卯の花……」


 晴夏の夏の小鳥のようなハイソプラノが、顔理のところまで幽かに、真っ直ぐの針金のようになって届く。顔理は体の右側、しばらく見なかった海の方を向いた。


「天使」


 顔理の手の小指ほどの天使は、ワンピースをふわふわなびかせて、海を見て、にこやかに遅く歌う。


 忍び、音も、ら、す、夏……夏……


「出ないんだ……。う、のところ。ふふふっ、可愛い……」

 

 夏……


「う……は、来、ぬ」


 はっとして晴夏は振り返る。晴夏は立ちすくむ。ゆっくりやって来た顔理は、ゆっくり、ふらふら晴夏に近付いて、小声で話せる距離に来た。顔理の詰まりそうな喉は、晴夏のような鳥に話しかけた。

「ねえ、だし」

「出汁」

「いや。出出でだし、出出しが……高すぎる……」

 そう言い、顔理は眩しそうに、優しく晴夏に笑いかけた。

「ほんと?」

「うん」

 とぼけた口と目、体中を、体の中から綺麗に輝かせる晴夏。

「お姉さん上手……美人……男役ね」

「うん」

「ほんと? やった、自慢しよう。誰に?」

「……ふふっ……可愛い……」

 顔理の目を不思議そうに、心配そうに覗き込む晴夏。顔理の微笑んだ目は、段々、苦しそうに閉じられる。

 とうとう夏負けした顔理は、見知らぬ青鷺に向かって倒れ込んだ。


 気付いて見れば、顔理が小さい頃からよく知る、いつもの木の格子天井。

「つめたっ」

「お姉さん……?」

「……あんた……なんだっけ」

「うなされてました。大丈夫? 病院行きますか? 私、付いてきます」

「……そう……そっか。大丈夫。ちょっと暑くて、貧血、だったかな」

「うなされていたけれど、私に、いろいろお話、してくれました」

「したこと思い出した。でも全部、作り話ね」

「嘘」

「ほんと」

「どこが?」

「ふふふ……」

 顔理は巨大なソファから、じっくり起き上がる。額から、晴夏が乗せた濡れタオルが顔にずり落ち、首を這い、お腹まで落ちた。顔理は拾い上げながら言う。

「お風呂入ろうか、一緒に。汗流そうよ」

「知らない人なのに」

「もう知ってる。違う?」

「嘘」

「嫌ならいいよ」

 晴夏は、きょろっ、と右上を向き、少し考え、また、正面をぼんやり見て言った。

「私、人生どうでもいい。だから、面白そうなことは、片っ端からやる。どうするかは、私が、本能で大丈夫、そうしたい、って思ったかどうか」

「いい子だと、思うよ」

「私もそう思う」

「ふふっ、何が……」

「全部」

「全部ね、わかった」

「ほんとに、わかってる?」

「わかってる」

 二人で立ち上がり、そこらの家より巨大な家の、長く広い廊下の向こうにある風呂場に向かう。暑苦しく隣に並んで歩き仲良くする二人は、四時間前に出会ったばかりの初対面同士。

「あれだけほんとかな」  

 そう言い足を止めた顔理が切なげに見た左の部屋を、晴夏も見る。広い畳の部屋、敷かれた布団、天井を仰ぎそこに眠る青年は、縁側から吹く潮風に、細い銀髪を、細かになびかせていた。


 風呂場に来た晴夏と顔理。綺麗な紺色のモザイクタイルの風呂床に、近くで沸き続ける温泉が、湯船に引き込まれた温泉が、溢れて濡れる。そのあと、流れたままの温い温泉に順番に浸かりながら、二人は一人で鏡に映る自分の喉を、それぞれ触りあった。

 晴夏は湯船から立ち、窓から潮騒を聴いた。顔理は、晴夏がきちんと畳んだ制服を、丁寧にハンガーに吊るして入り口にかけて、新しい着替えを置いた。


「食べられないものある?」

「え?」

 いくら湯が温くても、真夏の長風呂に、体は余計に火照り、皮膚は熱を放ち続ける。冷めないうちから台所に立った顔理は、広間のローテーブルに乗せた、かき氷をつつく晴夏に、また声をかける。

「ないのね」

「え?」

「おやつ。作ってあげる」

「これで十分なのに」

「まだある」

「そっか、ない」

「よかった」

 苺の赤い氷を、ほんの少しずつ食べながら、晴夏は、話したいことを頭の中に浮かべる。借りたばかりの新しい生成りのワンピースに氷を落とした。

「白いところでよかった」

 透明の氷は布にすっと消えた。一方、台所の顔理は真名板に乗せたパイナップルと対峙している。

「なによこれ……どっからさばけばいいのかな?」

「ねえ。これってね? 嘘味って……思いませんか?」

「……なにって?」

「私、大好き、嘘の味」

「苺シロップ?」

「氷でも飴でも、この嘘味の苺味が好き。本物みたいな苺味はだめ。酸味なんか、あるのなんかはね、違う。とにかく甘ったるくないと」

「だったらあれも好きでしょ」

「うん大好き」

「やっぱりね。何がよ」

「葉っぱ、ねじり取って、外の皮は削ぎ落とす」

「え?」

「やってあげます」

 ……二人で作ったフルーツポンチを、テーブルに置いた。二人は向かい合って座る。晴夏が右を見れば、顔理が左を見れば、目の前の大きく開けた縁側の先、庭の緑の額縁の向こうには、ただただ深い、青い海。塩を含んだ風は、嘘の香りの洋室にもよく似合い、そこら中の物を何十年も錆びさせた。

 

 さっきの部屋が暑くなり、青年は部屋を変えて眠る。広間に座る二人の目が届く隣部屋。体を抱かれて来た時に目を覚ました。硝子のように、よりも綺麗な、透明の目玉は美しく品よく笑い、閉じた口は頰に真横に強く引かれ、悲しそうにしていた。

 晴夏は青年が気になり、失礼を承知でちらちら隣の部屋を見てしまう。青年は青年で、知らない女の子を、ぱっちり開けた目で凝視している。それに気付いた顔理が立ち上がる。広間とその部屋との境の扉を、空気も閉じ込めるよう閉め切ろうとする。

「待って」

 晴夏の声に止められ、顔理は、そっと振り向く。

「ごめん……」

「こっちこそ、ごめんなさい」

「なにが」

「全部」

「ふふふ……嫌でしょう、あんなのがいて。あんなのがこっちを見ていて」

 それを聞いて晴夏は、そんな、と悲しむのに、目が微笑む。

「……そこ、閉めたら暑い……お兄さんが」

 やっと近くで目が合ったからか、嬉しそうに、お兄さんは目を細めた。

 

 さっきまで座っていたところに座ったのは晴夏。顔理は晴夏の左に、くっつくように座った。じっとり汗をかく、肌と肌が濡れている。こんなに暑くても、二人とも、そのままでいたくって離れなかった。離れられなくなった。顔理が言った。

「誰のせい?」

「え?」

「酷いと思う?」

「え?」

「私。でも……慣れてる。あの子も。なんだろう、だからさっきのは、謙遜。違うか……」

「そんな程度の仲だった? 私達」

「会ったばかりの仲」

「お風呂に入ろうとした仲」

「そっか」

「そうそう」

「ふうん……」

 大量に作られたフルーツポンチも残りわずか。晴夏は食べ始めに、お兄さんは食べないの、と聞いた。顔理は首を傾け微笑むだけ。

 顔理は、甘く動かす指先で摘まむ硝子の匙の、その先で、小さな、まあるい西瓜を、すくい、甘露だけを器に、ぽたぽた零す。

「ねえ、お姉さん」

「うん?」

 晴夏は甘露が跳ねて、テーブルに落ちたのを見詰めた。

「どうして夏は来ないのかな」

 その言葉が終わる時、雷の音がした。慣れている二人は音を気にしない。

「……ふふ……来る。その、ぬ、は、完了。そんなことも、未だ知らないで生きてきた?」

「そう。それって古語? 私、古語だけはできない。これからも知らないで生きたかった」

「……古語……」

 顔里は笑いながら、続けて話す。

「だったら何ができる?」

「全部」

「ほんとに? どんくさそうに見えるけれど」

「ま、一言で言えば、そう」

 あんなに晴れたのに、外は、とうとう暗くなる。灰色の雲が格好を分厚くして雨を連れてくる。

「ごめん、上手いよ。あんなに小鳥のような声で歌う子、はじめて。私は……音楽、教えてた……」

 晴夏は驚いたように、目をぱちぱちさせて、目を海に向け、しばらくしてから、幽かに聞こえる声で、ゆっくり話をした。湿り始めた熱い土から、太陽の香りが立つ。

「……先生? 私、大失敗した」

 晴夏は鞄に手を伸ばし、底の楽譜を出し、テーブルの上で、紙に刻みついた延びない皺を、丁寧に延ばす。たくさん書き込まれ、書き込んだ字のせいで、指先が少し、朱色に染まった。

「歌もピアノも。ううん。私は、全部、ぜーんぶ、はみ出る」

「はみ出るか……わかるよ」

「そう見えるようなダメな雰囲気ってことでしょ?」

「そうじゃない方だって、私が自分の雰囲気をシンクロさせて言ったことって、わかったでしょ?」

「実は」

 顔理が、匙に乗せたスイカを晴夏の唇に付ける。皮に近く、色も味も薄い、透明の薄緑をした赤いスイカに、晴夏が口付けて少し吸うと、染み込んだ甘露が、口の中に切なく広がった。

「……一緒だから惹きつけられた、のかもしれないな」

「そうかな。一緒ではないと思います。だって、私に無い、う、をくれた」

 強い風まで吹き始める。何か、宝物みたいな青い鳥が、青い鳥と一緒に、海の彼方へ飛んでゆく。

「……ほんと、来ないのかもしれない。夏は、あんな夏は、もう二度と」

「……どんな夏?」

 顔理は困ったように笑うだけ。晴夏も、同じように困りながら笑った。

「さっきのは、やっぱり、嘘ではないんですね」

「あながちね……」

 二人の目線は鳥達から離れて、同時に、お兄さんの方へ向いた。いつの間にか、ずっと、二人を横目で見ていたお兄さんは、二人が自分を見つめるのに気付き、黒目を天井に戻した。

「時の流れを止めたくても、昔に、元に、戻りたくても、誰にも無理みたい」

 三人は同じ作業を、それぞれの器でやる。甘露から匙を浮かせては、甘露に、匙を深く沈める。お兄さんだけ、ひとり、頭の中でそれをやる。

「過去って不思議。あの日は、あの人は、一体どこ? ほんとに、いつの日にかは、あった?」

 匙は、どれも透明で、甘露も透明で、すくい出した小さい寒天の欠片だけが少し曇り、どこも見通せない。晴夏が嘆いて言った。

「いろいろありますね、時の中にいると……」


「……どうして、夏は来ない?」

 四歳の男の子の、坂の下の夕焼けの海を見つめる目は金色に輝き、どんな宝石よりも美しいかもしれない。

「ぬ、って、ないって、ことだって」

「むつかしいこと知って……」

 母親は団扇で、男の子の背中の蚊を叩き落とした。

「あ、だいぶ血を、吸った蚊だったみたい」

 小さく血の染みた白い甚兵衛の背中を、男の子は、もう少し丸める。輪郭までもが黄金で神々しく見える。神童は聞く。

「どうして夏は来ない?」

 海神わだつみは言う。

「夏はもう、すでに来ている。夏がきて、ああ、嬉しい、ああ、楽しい……夏は、なんて、美しいんだろう。そういう歌」

「そっか。また、ひとつ賢くなった。傘の、さし方も、うぎちんときが、なにで、できてるかって、いうのと知れ……」

「うぎちんとき……」

 玄関の引き戸が、カラカラ開く音がした。水を撒いていた親子が振り向く。顔理が微笑んで玄関から見ている。

「姉さん、お祭り。何時から行く? そろそろ浴衣、着せあいっこしよう。あ、まず雪に着せようか、ねえ雪」

「お祭り、ね。ちょっと、寄ってこうか? ね、お母さん」

「ああ、嬉しい、ああ楽しい」

 未だ明るい夏の夕空に、蚊取り線香の煙が、いつまでも高くまで昇る。波の音に乗せて、まだ遠い、盆踊りの太鼓が聞こえる。いつも姿の見えない茅蜩ひぐらしが切な気に、悲しいと泣く。満面の目の笑みで三人が笑う、遠い遠い光景。

 水母が、きらきらと声を溢す。

「夏は、どうして、こんなにも美しいんだろう」


「……どうしたの」

 晴夏が、お兄さんを見る。

「暑いのかな、悲しいのかな」

「違う。懐かしい」

 顔理の声は、溜息のように聞こえにくい。

「懐かしい……」

 晴夏も、つい、つられて、そういう声になる。顔理は立ち上がり、お兄さんの元へ行くと、枕元のタオルで、お兄さんの目元を拭いた。

「まだ若いのに。どうして。どうして、こんなことに、なったんだろう……」

 晴夏は、涙目なのかもしれない顔理の、黒目がちの目が光っている気がした。気の中で、白目の血管までよく見えた。無性に慰めたい晴夏は、後ろから顔理に視線で抱きついた。

「……お姉さん。何が?」

 何が、何が、意味のない音に聞こえて、顔理の頭の中で、可愛い声が、こだまする。顔理は質問が、いまいちよく解らず、しばらく考えて同じように答えた。

「髪の毛」

 晴夏は、解ったように笑った。

「かっこいい。シベリアンハスキーみたい」

「シベリアンハスキー」 

 初めての、嬉しい雪国の犬の例えに、顔理も、お兄さんも驚いて、顔だけで笑った。しばらく黙っていた顔理は晴夏の方を向き、近い近い距離で、もうすぐぶつかるような、それくらいの距離で、睨むような目に変えて晴夏を見た。晴夏は静かに焦ってしまう。短い時間、その合間に、言葉に悩んで、呑み込みながらも謝ってみた。

「ごめんなさい」

「え?」

「だって」

「ああ、違う……そっくりで……」

「え?」

「全部」

「……うつってる……」

「目に?」

「え?」

 二人は出会ってから、ずっと短くて、解りにくい、すれ違う、偽物に見えて、本当の会話を楽しむ。そしてどちらも喉は、ここまできて、やっと、本当に緩み出す。

「……天使なのかな? って、ちょっと、思った。たまに頭の中が、こうやって小学生みたいになる。いや。いつもかな……」

 顔理は、まっすぐ晴夏の目を見て、そう言った。晴夏はその目線から少し目を、ずらした。そしてそのまま言う。

「ほんと? 高校生になれば、もっと天使になるよ」

「そのままでいて欲しい」

「いや」

「わかった……」

 まだ顔理が優しく、物悲しく見つめるのを感じて、晴夏も、やっぱり同じ目で見つめ返す。

「……ねえ、なぜか、そうして見つめられるのが、とても幸せ。いつもは、じっと見られるのが一番いやなのに」

「解らない?」

「ちょっと解る」

「……今日は、あなたに会えてよかった。完全に、この溝に、嵌められる言葉はどこにも見つからないけれど、きっと私は、きっと、あなたを、ずっと見つけたかった。今日と、今日までの不思議や苦しみは、全部、出会う為にあったんだって思う。全部……なんだろう、あの瞬間、声を聞いた瞬間に、何かが解って、目を合わせて、世界が止まったように懐かしくて驚いた。あの気持ちは……」

 驚いた目の晴夏の目は、少し笑った後、少しかげり、そして泣いた。肺肝をひらくと水平線の上は全て曇り、湛えた雨は零れ出し、潮は、高く満ち海は、空に上がりたがった。顔理が聞いた。

「同じ?」

「すみからすみまでね」

 なんでだろう、と、首を、傾けて笑う、晴夏の大粒の涙が零れた薄い痕を、顔理がぬぐう。それから、四歳の子を、あやすような甘い声で囁きはじめる。

「……皐月の夜の暗闇に、蛍の光が、点点と映えます」

 ゆっくりと二人で、隙間なく、目だけで抱きしめ合った。

「どこかで水鶏が戸を叩いています」

 少しも動かず目を閉じて、それでも少し動かし、離れると、頭の中で額をしっかり合わせて想像する。

「あれ? これは……卯の花の香りかな」

 知らない卯の花の香りが、頭の中に立ち込めて、二人から出ては消える。

「立夏の夜風に、早苗が、さらさらなびきます」

 この世界が例え無くても、二人が溶け合う想像の額の隙間に涼しい、夏の香りの、潤う森の、少し香ばしい夜風が海風に抗いながら吹いた。

「……ああ……夏が来ました……」

 隣で、幸せに目を閉じる、お兄さんは、それからもう、目を開くことは無かった。

 ひとつに戻った人間、一人だけ立つ縁側に、潮風のみが、ただただ吹いている。


 人が歌う夏の叙景歌。


   下/冬景色


 さ霧消ゆる 港江の

 舟に白し 朝の霜

 ただ水鳥の 声はして

 いまだ覚めず 岸の家


 烏啼きて 木に高く

 人は畑に 麦を踏む

 げに小春日の のどけしや

 かへり咲の 花も見ゆ


 嵐吹きて 雲は落ち

 時雨降りて 日は暮れぬ

 若し灯火の 漏れ来ずば

 それと分かじ 野辺の里





 文部省唱歌「冬景色」作詞・作曲、不詳




 どこかの小さな古い木造の家は、凍える冬野に建つ。きつく閉められた曇り窓の中の台所に見えるのは、摩り切れそうな青いセーターを着ている八歳の男の子。棚から危なげに、赤いお椀を二つ取り出し重ねると、火の前に立つ、男の子にとって神々しいおばあさんに渡す。おばあさんは鍋から煮えすぎた善哉餅を、まず、一つの椀に入れる。男の子はその一つの椀を両手で受け取ると、慎重に、隣の居間へ歩いてゆき、椀を電気こたつの天板に置いた。おばあさんは、もう一つの椀と、二膳の箸と、塩昆布の皿を持ってきて、男の子の正面に座った。おばあさんは、自分が座る前に置かれた椀を見て、男の子には、いま持ってきたところの椀を渡した。男の子は眉毛を下げる。

「おばあちゃん。こっちのがそっちより、少し冷めてるね」

「大差ないわよ。でもほら、少しでも温かい方を食べなさい。おばあちゃんは猫舌ですからね、こっちを貰います。ありがとう」

「先に椀に入れた方が、おばあちゃんのだけれど、そっちは冷めて、こっちの方が温かい。僕は、どっちを食べたら、おばあちゃんを大事にできるのか、わからない」

「あれだけ放って置かれて……どうしてあなたは大人を敬えるのかしら」

「おばあちゃんのこと、大好きだから、そうしたい」

「あら」

「尊敬してるから」

 おばあさんの尊い目は誰が見ても、いつも笑っているように見えた。

「……ラジオを点けてごらん」

 男の子は立ち上がり、すぐ後ろの黒いテレビ台の隣の赤い、おもちゃのようなカセットラジオの電源を入れた。ざあざあ潮騒のようにうるさい中、ひいらぎかざろうが流れる。今日はクリスマス。

「ふふふ、クリスマスに、このうちは、お善哉食べるんだ」

「そうよ? 神様のうちの誰かだけ、お誕生会するなんて不公平でしょう。おばあちゃんの家にだけで、もう数えきれないくらい神様がいるの。一人一人やろうとしたら、三百六十五日あっても全く足りない。でもね、おばあちゃんは毎秒毎秒、百人の誕生日をやっているのよ」

「どういうことかわからないけど、もうクリスマスのことは言いません」

 男の子は少しも不満な顔をせず、餡湯をかき混ぜ、とろけた餅の中心を箸先で掴む。

「熱いのよ、気をつけて。少しずつ、少しずつ、食べるのよ」

「うん」

 二人の沈黙を、他所の国の歌が埋めてくれる。

「……柊を飾ろうなんて……言ってみれば二月の歌ね」

「うん」

 男の子は瞬きせずに手も止めて、餅を見つめる。それを、おばあさんも見つめる。

「……ねえ欲しいものが……」

「お年玉くれるでしょう?」

「それはそれ、これはこれ。今年からはそうする。確か、昨日もオモチャのパンフレットが入ってたわね」

 立ち上がり、新聞広告の束の青い紐を解こうとするおばあさんの背中に、男の子は男の子の目の、その奥の奥から訴えた。口でも言った。

「物なんかどうでもいい。ただもう放って置かれたくない」

 男の子は目線を落として餅をまた椀に入れ、顔に当たる甘い熱い小豆の湯気を吹いた。

「そんな……当たり前よ」

「本当は、お年玉も要らない」

 おばあさんは上瞼を伸ばし、目を強く、下に向かって閉じた。

「おばあちゃん、ほら見ていて」

 男の子は、もう一度箸で餅を摘まむ。箸先の餅を唇に挟み、箸を腕いっぱいに遠ざけても、まだ伸びる餅に二人で笑った。

 窓の外は、ずっと雪の音。あの家の窓の中では、ラジオから、新しい歌が隠るように鳴っている。


 ある大学、音楽学舎、第五棟、最上階、十階一〇一号室。特別広い防音室の天井は、他の部屋より二倍高く、面積五倍広く、壁の二面は全て硝子窓。すぐ近くの海が見下ろせる。

 拳で窓を叩いた。そこから花火が開くようにバリバリとガラスにヒビが入り割れ落ちてしまえば、体をその空に、静かに倒れ込ませるつもりでいた男。

「オーシャンビューだって。見下ろせたところで、美しくも、なんともない海」

 そう言った男のそばの大きなグランドピアノは、屋根が閉じられたまま。屋根の上にはゴルフボールみたいに丸められた楽譜が、いくつも転がっている。古い、緑のソナタの数頁。外皮だけの楽譜を持って、ピアノの近くで窓を眺める……眺めていると何か気配を感じたらしい。振り返ってそれを睨む。

「学部長。こちらに、おられましたか? ずっと、おられましたか? 気付かなかったです。気付けなかったです。いつもより物静か、そんな感じ。こういうの、どう言うんでしょうか。口が滑った?」

 開いたままの扉から入ってきた男、派手なセーターを着た若い男。着こなせず不格好で、右握りこぶしで口を閉じた。学部長はその男と変わらないほど若く見える。なのに酷く疲れた様子で、目を細め、薄くて小さい唇を、僅かにだけ動かして話す。目だけはまた、ほろびた海を見ている。

「影が、薄いんだろ? いい悪口だな」

「そんな、自分で言って……」

「そうそう、自己嫌悪……生徒にまでそれだけ毎日なめられて、こうならない方が、おかしいもんな」

「誰が、誰のことを、ですか? 怖くて誰も近付けないのに」

「はははっ……」

「俺も怖くて……。こうして用事で来るにも、心臓ばくばくする。解りますか? 触りますか? そしたらまた……載りますかね? 学校名。あの女の時と同じように……」

 年下は嘲て笑う。年上は気力なく笑う。

「はあ。それで。調律は」

「他の練習室は全部終わりました」

 学部長はピアノの椅子を雑に引き、腰掛けた。

「あとはここの、それだけ……」

「ああ、そう?」

「この部屋と……あ、そうだ。前から思ってたんですが、四〇四の向かって右のアップライト、鍵盤を、交換……先生?」

 先生は立ち上がった。楽譜のボールを全て回収し、扉近くのゴミ箱に捨てた。ホールインワン。

 傷つき、黒が剥がれる古いピアノ椅子の背に、先生のコートは掛けたまま。生徒はコートを持って追い掛けては来なかった。先生も、そんなこと望んでなんかいなかった。でもピアノ越しの窓の外、灰色の空からは、雪が、ほろほろ零れ出したのに。

 先生の冷たい耳に重たい学校チャイムが聞こえた。神経を引かれるような耳鳴りも少しした。


 ある大学の付属高校、五階、音楽科、二年五組の教室。誰もが帰宅したのに未だいる男子生徒は、やっと緑一色に戻った黒板前で、満足そうにひとりため息をついた。色取り取り、粉塗まみれの黒板消しを、両手に一つずつ着けて、海に面したバルコニーに出る。窓際にはクリーナーがあるのに。

 腕を一番遠くまで伸ばし、息を止め、黒板消しを叩き合わせる。重たい白い空にピンクや黄色の粉が舞い上がった。

「これって……何で、できているんだったかな」

 叩くと無限に出てくるような粉煙こなけむり

「は……」

 近い海の遠くに見える、あっちの土地の工場が吐き出す透明の煙にかむる。

白堊はくあ?」

 男の子は錆きった手すりから身を乗り出して、切ない目で天国を見つめる。何かに気づき黒板消し叩きをやめた。黒板消しを黒板に返し、身支度し、教室からさっさと出た。

 低い場所でもたつく冬天とうてん。もやもや、半透明の灰色の雪が崩れるように降り出す。


 急坂を下りてゆき、他に何もない団栗どんぐりなんかの枯れ木の道を延々歩く。団栗が松に変われば海の匂いが鼻から脳につき刺さる。ただ夏のような、力が奪われそうな、異様な磯の香りはない。冬だけは歩いても苦にならない。なんにも生えない寂しい道の左隣の堤防に上り慎重に歩く。堤防沿いの道と堤防の高さはそんなに変わらず、簡単に上ることができる。けれど、

「こっちに落ちたら、死亡だな」

 海側のコンクリートの広い地面は、もっと下の深いところに在り、この谷底にうっかり落ちたら十中八九、二度と上がってなんか来られない。地面の次は正面、それから斜め上の、一番遠い空を見る。

「死んだ魂が天国へ行く時、浮いて、あの空の向こうの宇宙へ行く」

 男の子は不眠症。宇宙と死について、むねを自分にして考える作業に没頭しすぎて眠れない。一番遠い海の表面から、一番遠い底を探す。

「死んだ魂が地獄へ行く時は、沈んで、あの海の底に行くのかな」

 深夜、早朝、布団で小さく丸まりながら、目を閉じて見るあれが、夢か想像か、眠っているのか、いや、考えているのか、近頃段々判らない。

「だったら地獄は、地球、地球の中に在るのか。宇宙ではなくて。それとも地獄も宇宙に在って、とりあえず死んだ魂は、全て浮かんで宇宙に行って……いや、わかんないよな。全部、地球の上に留まって、見えない、この辺なんかに全部、いるのかもしれない。もしかしたらその魂で地球は全部、できているのかもしれない。どうとも言えない。見えないものを証明することは、人間にとって難しいことのひとつだ。違う。最も難しくて、生まれてから死ぬまで、誰もがやり続けないと生きられないことだ。そして、その深さは人それぞれ」

 宗は揺らぎため息をつく。小さな独り言は誰一人、ものにもひとつも聞くものはいない。だからきっと声に出して言う。そして男の子は、この声が好きな耳に聞かせる。

「地獄も地球も、宇宙も天国も、どこにあるんだろう。それらは全て、この生きている間に終わるものなのか、それとも終わった後のものなのか」

 指定の革鞄と、もう一つ持つ、ただ黒いだけのレッスンバッグの中には、三冊の楽譜。と、蕎麦ボーロ。帰る間際に廊下で偶然会った、同じクラスの女子達が、開けないまま袋ごとくれた。

「昨日は汁粉サンド。何考えて、こんなにお菓子をくれるんだろう。袋ごと……」

 立ったまま封を千切る。雪が降るくらいで青い手は震える。それでも今は、傘をさす程でもなければ手袋も要らなかった。学ランの上に羽織るコートに着いた結晶は、すぐ融けて、すぐ消える。ふと海の上の、曇天を見れば、

「なんだあれ……」

 群をなし大量に飛ぶ黒い点。点の塊を目で追えば、全部、体の横の海の上まで来た。

「鳥?」

 全部が次々、激しく海に飛び込む。着水があまりにも下手すぎて、そこかしこで海水の飛沫が派手に上がる。

「鴎……鴨?」

 やっと全員飛び込んで、やっと水面みなもの様子がよく解った。大海に、数え切れないほどいるのは

「鴨……」

 ピイピイあちこちで全員鳴くから、水の音も、風の音も、さっきまでの、他の音が何もない音すら聴こえなくなった。

「おかえり」

 唯一かもしれない地獄の海への長い、とても危険で小さな階段を慎重に下りる。下りると鴨達は慣れた様子で男の子に集まり、蕎麦ボーロをねだった。でも、男の子は蕎麦ボーロはやらず、隠すように、袋をゆっくり握りしめた。ビニールが鳴る。貰えるものがなく愛想を尽かした鴨達は、広すぎる海面に散らばり、それぞれ泳ぎだした。

 柔らかいはずの雪は剃刀かみそりのように鋭くて、傷つけながら多く降り出す。


「……寒いっ……ばかか俺は……今に遭難するぞ、これっ……吹雪ふぶいて……」

 夕日の熱は厚い雲に消え、雪混じりの強風は、髄腔ずいこうに刺さるように痛い。

「ああばかだった。ほんと……しっ、知ってるっ、はははっ」

 学部長は痩せた背を丸め、高い背を頭一つ分縮める。堤防脇を歩きながら、体中探して、使い捨てカイロを意外なところから一つ取り出した。

「寒い……」

 立ち止まり、熱を求め、カイロの砂をよく振る。

「マッチ売りは……ははは……はあ? 火も点かないのにな……。あーあ……最悪。さいあく。何もかもがもう……」

 どれだけ振ろうが、カイロは冷たいままだった。手が震え、どうしようもなく、震えて、小枝の欠片すら落ちない、白くなり始めたコンクリートの地面に、カイロは静かに落ちた。埃ひとつ無い、何もないカイロの周りを、ぼんやりと見る。口から吹かれる、熱くて白い息。

「……このじめ、地面の中には、マグマが……地獄みたいに……熱いん、だよな……うう、すごい鳥、鳥肌……腕が……はははっ……俺、俺は。はあっ、俺は、んなに、こんなに寒いのに……この下は、すごくっ……あつ……いて、あれ、なんか目に入った」

 大きな瞳に入った何かが痛くて、もう痛くて、枯れ尽きたと思っていたのに、涙がまだ溜まる。

「もうだめだ……」


 嵐、吹きて、雲は落ち……

 

「嵐……」


 男の子の、声変わりしても高い、幼い歌声が、学部長のところに幽かに届く。学部長は体の右側、少しも見向きしなかった海の方を向いた。


「死神」


 学部長の、小指の爪ほどの死神、はためき続けるコートを抑えながら、海を見ながら、秘かに歌う。


 若し……なんだっけ……


「灯火……」


 学部長は、うまく声の出ない喉を、さすり下ろし、喉につっかえる何かを無理やり飲み込む。


 若し…………


「灯火!」


 はっとして、男の子は振り返った。振り返り、灯火が、聞こえた気がする、さっき下りてきた堤防の、天国への階段を見る。誰もいない。

 じりじり、気をつけて歩いて、でも、よく判らない、複雑な胸騒ぎがして、転びそうになりながら、転ばず走って、走って、遠くの階段に、やっと着いて、息を切らして駆け上る。

 机で昼寝をするように、防波堤に伏せ、今にも消えそうに震える、全てに埋もれた男を見つけた。


 気付けば、一番好きな音がする。学部長は体を起こし、そっと目を開けて呟いた。

「……ショパン。幻想曲、49」

 上品な姿勢と手つきで、巨大なピアノを滑らかに、撫でるよう弾いていた男の子は手を止めた。学部長は、また言った。

「……雪の降る街を……さっきの、雪景色。冬景色。童謡が好き?」

 男の子は楽譜も何もない、完璧に拭かれたばかりの譜面台に映る自分の顔を、苦しい目で睨む。

「……先生、覚えていますか? 何があって、出会って、どうやってここまで帰って来て、そのセーターに着替えてそこで、そのソファで、毛布に包まって眠っていたのか……」

「……趣味が悪い。どこかで見たな」

 学部長は、赤いセーターの赤鼻トナカイを引っ張る。白く塗られた木の扉を叩く音がした。聞こえないフリをする先生を気にかけながら、男の子はピアノから離れ、扉の外の、二人の大人と話す。すぐ扉から顔だけ帰って来て言う。

「先生、会議ですって」

「会議。病人なのに」

 先生は扉の窓の外から睨む、自分に対して厳しい目を嫌そうに見ると、逸らしながら立ち上がり、同じだけ寒い廊下に出た。

「待ってろ。絶対いろ。試験してやる。練習、十分してろ」

 先生は男の子にそう言い、大人達は纏まり廊下の奥へ歩いてゆく。男の子は、大人達が遠いエレベーターに乗るまでを、一〇一号室の扉の前で見届けた。先生はエレベーターに乗る前に、なんとなく切な気そうに男の子を見ると、男の子を力強く、二度指差し、扉方向も同じように一度差した。

 ……何の会議かそれはすぐに終わり、先生は、あっという間に帰って来た。


 男の子は自分の楽譜を広げて、朝焼け、モルゲンローテ(Drunten Im Unterland)を、ゆっくり弾いている。学部長は聴きながら、斜め後ろから同じ楽譜を覗き込む。音と一致する場所にダ・カーポを見つけて、男の子よりも早くはじまりに目を戻すと、先生の声は音に連れられて小さく口遊む。 

「……曇天どんてんぬ、雲梯うんていらぬ、誰にさぶあい……」



 曇天どんてん 

 雲梯うんてい らぬ

 誰にさぶ あい


 朱色しゅいろる うばら

 暗いべにぬ うてな


 曇天 

 雲梯 要らぬ

 芽にていうらも辛い


 朱色しゅいろる うばら

 暗いべにぬ うてな


 曇天 寝ぬ

 雲梯 要らぬ

 芽にていうらも辛い

 


「……はあ」

「……おかえり、先生……。なんですか、その歌詞」

「寂しい伴奏。切ない、ピアノ。中等部の合唱コンクール、出張伴奏か。ご苦労さん。最下位おめでとう」

 弾く手を止めた。先生は、ピアノの近く、男の子の後ろの窓辺に右肩で靠れた。

「……せんせい」

「はい」

 男の子は頭の中の宇宙から、頭の中の埃を一つまみ、強く掴み出す。

「今、この世は、音が、御座なりに」

「おざ……御座。ござ。なんだっけ、あれ。そうだ、御座候」

「え?」

 男の子の内側は、結晶のような埃を握りしめたまま、立ち尽くした。

「いや。喋るの遅いから……人のことは言えないけれど。でもほら、俺も遅いから。話したい時、少し考える間に入って来られる。やってみたらいいよ、いつだって。お互い様」

 男の子の表面も、そのまま口を閉ざした。先生は首を傾けて、ぼんやり、また話す。

「なあ。喋りや動作が遅いと腰折られるだろ。だから黙るしかない。黙っている人間は、神秘的。ミステリアス。何を考えているのか、わからない。わからなくて勝手に想像される。そして余計な誤解を生む。結果、いつだって好い方に転がらなかった。俺は。日頃の行いも、少し呈する素材も悪いから」

 先生が力なく笑った声と、ぴったり同じドを、男の子は音を立てず、右中指で押し込んだ。右腕も、そっと力なく垂らした。

「黙るよ。聞きたい。何? 音が御座なり。それで?」

「僕は、大縄跳びに、いつまでも入れない。みんなで跳べば、僕だけ引っかかる……」

「……悪かった。言いたい話を、して欲しい」

 男の子は祈るように膝の間で組んでいた両手を、膝の上で仰向けにさせて見る。

「先生、今この世は、音が御座なりになっている。そう思いませんか」

「へえ。そう?」

「家内か妻か、とか。主人か夫か、とか」

「うん」

「僕が知らないだけ、かもしれません。世界が小さすぎるから。でもこういうことを思います。音は、どっちがいいかって、音楽をやる人間は話すんでしょうか」

「どうだろ。別に……国語や美術やる、お偉い方々が決めてくれる」

「ほらやっぱり」

「なに」

「言葉は……本来、口から生まれて、音を耳で聴くものなんです。漢字は書く時にしか、使わない。たぶん。かない、と、つま、しゅじん、と、おっと、音の響きの、どっちが可愛いか、美しいか、上品か……音だって、そういう話も……。やっぱり字から生まれたのかな。もちろん、わかっています。皆が言いたいことは。でもだったら、音は芸術の、なんなんですか?」

「しようか? どっちの音が、いいのかなって」

「はい。ぜひ」

「でも……してもいいけど、美術は美術、であって、音楽は音術、ではないだろ? だったら美楽で、いいだろ?」

「え?」

「世の中、見た目の方が大事らしい」

「先生がそんなで、音楽はお終いだ。だから、そういうことなんです。こういうことなんです。僕は美術が嫌い。字も嫌い。全部大嫌いだ。大好きなのは、耳で聴こえるものだけ。特に、これが、一番いい……」

 男の子は波型の指紋を黒鍵に押す。

「なあ、楽譜は?」

「楽譜?」

「ああ、腹減ったなあ」

「聞いてますか? 僕の話。聞かれて答えた言葉含め」

「うん?」

 二人で目を伏せて、しばらく黙っていた。

「……ねえ、先生? もう僕はもう、進学、できませんかね、こんなに生意気で……はははっ」

「カフェでも行こうか。洋梨タルト、美味しいよ。ご馳走する」

「よう、なし」

「お前。ごちゃごちゃごちゃごちゃ考えてばかりで。生き辛いだろ」

「……生き辛い……」

 先生は、胸から赤鉛筆を取り出して、モルゲンローテに、ぐちゃぐちゃ意味のない絡まった線を描き殴った。男の子は腕組みして頷いた。楽譜に指を伸ばす。

「そういうこと、芸術とは、どうせただの、物ですね……そうかな」

「……なんか……同じだな。一緒。だから惹きつけられる」

 男の子は線を辿る左手中指を止めた。

「……同じ……? はい。うん? ピアノ?」

 突然、何かが窓をつような強烈な音がして、二人で窓に目をやった。でもなんだったのか解らない。ただ鴨の大群が海から飛び立ったのが見えた。先生は、音の鳴った方向を睨みつけて、誰にも聞こえないくらいの小声で言った。

「不透明な海。空も雪も、全て」

 無理やり聞いたその小声と、その後の溜息を聞いてから、男の子はピアノ椅子に、もっと浅く腰掛け直した。

「そうだ試験は? タルトの前に……」

「枇杷のタルトも捨て難い」

「先生」

「わかった。さっきのショパンは?」

「まだ途中までしか暗譜できてない……それでもいいですか?」

「途中……途、中……」

 先生の中に何かの灯火が浮かんだ。

「冬景色……」

「……冬景色」

 言って、男の子は鍵盤を、しばらく見つめる。右を向く。窓の外、空も海も、煙も、本当に不透明で白い。静かに、たくさん降る雪も白い。そして真っ白な鍵盤に、純粋な指を全て置いた。

 苦しく小さく、消えそうに現れる冬景色。


「……冬は寂しい歌と、寂しい音楽が多いわね」

「……雪やこんこんは?」

 八歳の男の子は、自分の手を見つめる。見つめるのは霜焼け。その瞳は暖かくて、やっと肥った頬は、ほんのり赤くて、どこの子よりも柔らかくて、とても優しい。おばあさんは男の子のセーターを編む為の毛糸玉の籠を、肘でうっかり引っ繰り返した。

「……おばあちゃんはね、雪やこんこ、を聴いても、なぜだか胸が、切なくなるのよ。なぜだか。理由は、わかってはいるけれど……」

 男の子は、いつかある赤い毛糸玉の一つが、遠くて寒い、あっちまで転がったのを見て、ゆっくり追いかける。糸がたくさん解けたので、玉に巻き戻す。戻して籠に、そっと入れた。

「おばあちゃん? それはきっと、冬が寒くて、冷たくて、暗いから」

「ほんとね」

「でも僕、そんな冬が、だーい好き。おばあちゃんは?」

「おばあちゃんも、だいだい、だーい好きよ……」


「……先生。……先生?」

「え?」

「どこかへ行ってた」

 弾き終えた男の子は小さく背伸びする。

「……ああ行ってた。なんだろ。めちゃくちゃ遠い場所まで。もう十五分も経った?……」

「それは……ショパン。今のは雪景色」

「そっか。通りで吹雪だった訳だ」

「大丈夫ですか?」

「どうだろ。たまにこうなるな。頭の中で何か追ってしまう。だから黙って、ミステリアスに、余計な拍車を加える」

「遠い場所、それはどこですか? 宇宙?」

「宇宙? ああどうだろ。どっちかと言うと、上ではないな、下……中心……」

「……凄い汗……」

「え?」

「……目も……」

「おかしいな、俺、やっぱり」

「僕もです」

「風邪?」 

「……ねえ先生聞いて。僕はどうせおかしいんです。色々。全部」

「全部」

「だって今時……いや、この歳で。童謡。古い……なにもかも……いや幼稚なのかな……」

 先生はピアノの近く、窓に向かって立つ。男の子は座ったまま、ペダルに右足を乗せたまま、両手は膝の上で遊ぶ。

「叙景より叙情。自然より肉体……美しさより気持ちよさが先行されて、強いられている気すらする。だったら僕の求める美しさは、美術の中にもちゃんとある。一番美しい芸術は、なんなんだろう」

「一緒には、いられないって思うってこと?」

「そうです。でもきっと、それらは耳より目でされる。だったら、やっぱり美術は好きになれない。美術が歪んで見える。そんな今の世界に、僕だけ合ってない」

「字もだろ?」

「もう解ってもらえたと思います。だからうまく話せません」

「話を変えた方が生きやすいのかもしれないな。音楽も美術で美術も音楽だ。ところで、植物と動物は、どっちが外で、どっちが中だと思う? まあ、どっちにしろ自由はないけどな」

「だからこそ童謡に惹かれる。そうだ、僕の基準が古いらしい。僕が好きなこれだけには、まだ僕が求める音楽の美しさが詰まってる……この心は、生まれる前の時のもの。この心は……ずっと、子ども……子供のまま。音しか知らない昔の海の中」

「……懐かしい……」

「え?」

 学部長は遠い目線で、やっと、肩越しに振り向いた男の子の、人より幼い目を眺めた。

「……俺……今日は、君に出会えて、よかったな」

「なにを、突然……」

「どうしてかな」

「……どうして? せん、学部長」

 答えながら笑った男の子に、学部長は、うんと近付いて遠くにいた。白目の血管を、一本一本、見せ合った。

「よく、見えるだろ?」

「うん」

「同じだろ? そっくり。未だ……何も成長しないな」

「何が」

「全部」

「うつってる」

「目に?」

「え?」

「死神だって思ったけれど、どうも違うな」

「なりましょうか、死神に、いま」

「そのままでいろよ。それとも、気付かずに過ごせたかな」

「いいえ。嫌でも育つらしい。見えたから、違った。聴こえたから」

「わかった……」

「……なぜかこうして、見つめ合うと懐かしい。その目の奥の頭の中で、何か思い出せそう。なぜだろう。いつもは誰の視線も怖いのに」

「解るだろ?」

「うん」

 二人は昔と今に、元に戻るのが怖くて、見ているのに見えなくて、どちらも視線を、ぼんやり、遠くに置いた。

「……ひとり、心に充ちてくる、この哀しみを、哀しみを、誰も、わからぬ、わが心、このむなしさを、このむなしさを」

 二人の額のあたりに、同時に同じ歌が流れた。二人は同時に、瞬きの終わりに力無く、目を閉じた。

「好きです。本当に、一番大好き。僕は……」

「自分のことが?」

「……ううん。大好きは歌だけ。その雪のふるまち……歌詞。……そうだ。先生は、故郷の空を、知っていますか?」

「夕空晴れて、秋風吹き。月影落ちて、鈴虫なく。澄みゆく水に、秋萩垂れ、玉なす露は、芒に満す」

「原曲は、卑猥な歌だそうです」

「そうなんだ……」

「どうして僕がいま話す、この言葉を使った過去の人たちは、美しい自然を曲にあてたのでしょうか。月が綺麗と言ったのでしょうか。なぜ今は、人間ばかりが登場して、人間の体や心に好きと言うのでしょうか、それを歌うのでしょうか」

「景色が変わったから。心が変わったから。でも本当は一緒」

「僕も、そう思います。人間は、とても難しい生き物です」

「本当は、新しいと古いの価値は、比べものにならない。昔も今も、たとえ景色が変わっても変わらないものは、その心ごと思い出すべき美術は、音楽は、本当は、ある気がする、だったら……」

「植物は変わらないのに」

「そして動物は動くのか」

「ねえ、聞いてください。ずっと、耳で聴く前に、学部長の頭の中でまとめた言葉が、先に頭に浮かびます」

「それは、どんな言葉で聴こえた?」

「秘密。でも、そっちも聴こえるでしょう?」 

 二人は目を開けて、名残惜しそうに目の存在も見えない距離まで離した。学部長は壊れた強い指で、譜面台の望郷の楽譜を手に取り、あまりにも広い教室の端へ歩いて行った。窓を開けた。強い雪風が、吹き込んだ。男の子は椅子に座ったまま体を捻り、もう会えない、遠くへ離れた人を、じっと見る。そしてこの後の、最後の、空しい仕草に涙を零した。

「嵐の夜の空は暗く沈み、頭に近い」

 楽譜は二つに千切られた。

「立冬の雨が冷たく降り出し」

 楽譜は、また、半分に千切られた。

「辺りは暗闇に包まれた」

 それを、もっと、もっと、もっと細かく、細かく千切る。

「人家の灯火が漏れ出していなければ」

 手の中に溢れる、ちらちら朱い紙。

「在ることにも気づけない」

 それを空へと撒きながら

「静かな静かな場所……」

 十字の姿で、どこかに消えた。


   終章


 人が歌う夏と冬の、季節の叙景歌。


 本当に、もうどこにもありはしないのか。

 誰が誰? 

 思い出して。

 どこがどこ? 

 天地とは。

 無駄なのか、嘘なのか。


 また悩ましくも、切ない地球に生まれた、懐かしく美しい細胞に、きっと染み込む光景。


 季節の本当の、誰もいない海は、逆さになり空に溢れて、海底が空の果てになった。 

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