第十話 紅
「やはり、こちらに来ていたか」
窪地の中から縁を見上げたフルフェイスに隠れた広輝の表情が固まる。
広輝が振り切ったと思った相手。
広輝や勝炎と同じ黒いボディスーツを着た高身長の男。
右目が隠れるくらいに細く尖った長い前髪。後ろ髪を首の付け根で一纏めにし、銀色のフレームで細いレンズのメガネが特徴的な、眉目秀麗の若い男性。
眼下に向けて左手を翳す。
特定の誰かに向けてではない。その一帯に向けて。
広輝が左腕で優里菜の腰を掴んで抱き寄せる。
「ふえ!?」
「全力回避!!」
後方に居る三人に指示を出し、そのまま全力で跳んだ。男性が翳す中心点から離れるように。
次の瞬間、氷が現れた。
巨大な氷だ。二階建ての一軒家を丸々閉じ込めてしまう大きさ。
大樹と勝炎によって炎熱籠ったこの窪地に、凍気を振り撒く氷塊が出現した。
一瞬にしてかまどの蒸し風呂から冷凍庫に様変わり。
広輝は氷からギリギリ免れ、着地すると優里菜から手を離し、すかさずメガネの男性に向かって烈風刃を放つ。
その烈風を引き連れた刃は、男性に辿り着く前に風の形に凍りついて地面に落下した。
「逃げるぞ」
広輝は優里菜を先に行かせ、もう二発同じ天術をメガネの男性に放つ。後ろで氷がぶつかり壊れ崩れる音が聞こえた。元より時間稼ぎのつもりだったが、数秒にでもなったかどうか。
広輝が優里菜に追いつこうとした矢先、先行させたはずの優里菜が十数メートルしか進んでいない場所で立ち止まっていた。
「何してる、すぐにーー」
広輝も優里菜が足を止めた理由を目にし、苦虫を噛む。
千花と光と大樹、三人が体を影に縛り上げられ、口を塞がれていた。どれだけもがいても破り抜け出せない強力な締め付けである。
「美怜さん……」
優里菜が知り合いなのかと目で聞いてくるが、答える余裕が無い。
妖艶を醸し出す彼女は、森には不釣り合いな黒いドレスを身に纏い、透き通るような白い肌がよく映える。胸元から腕全体に施されたレースが彼女の艶やかさを際立て、腰まで伸びる黒髪はどこまでも艷やかだ。目鼻立ちがきりっとした彼女を十人が十人とも美しいと称するだろう。
加えて、足元に漂う冷気が彼女の麗しさと美しさをより引き上げていた。
黒麗の美女ーー竜胆美怜。
五大支部の一角を担う竜胆家の長女にして、天子の能力の中でも稀有である[影]の力を宿す紅の一員。
「咄嗟の良い判断だったけれど、詰めが甘かったようね、[堕天子]」
「貴女も、そちら側なんですね」
「いいえ。私はいつだって白蓮様側よ」
「……」
優里菜を庇うように一歩前に出て、広輝の頭がフル回転。
今逃げれば自分と優里菜は助かる見込みがあるが、千花たちがどうなるか分からない。
千花たちを助けようとすれば、美怜の影が優里菜を捕え、勝炎と白蓮がやってくる。
(どうする、どう動くーーどうすればいい?)
絶望的な戦力差を前に、いつもの冷静さを欠いていた。
美玲は、広輝の焦燥を見抜いているかのような余裕の笑み。
男性を一瞬で魅了してしまいそうなその微笑は、広輝に時間を浪費させた。
「千花たちを、どうするつもりですか」
「聞いてないの? 人質よ」
「殺す、のではなく?」
美怜は首を左に右に振って周囲を見渡し、遠くに黒焦げの死体を見つけると、氷の方を小さく指さして広輝の質問に答えた。
「殺したのはそこの男の勝手よ」
「仕方ねえだろ。弱火で炙ったら死んだんだ」
広輝は美怜と勝炎が視界に納まるように体の向きを変え、優里菜を背にしたまま後退。その際に視界の端に氷の男性が映った。
タイムリミットを迎えてしまった。
勝炎のぼやきを耳にした男性が冷静に指摘する。
「お前の弱火を生き残れる凡人が、こんな所にいるはずないだろう」
「白蓮様!」
美怜が胸の前で両手を握り、生娘のように目を輝かせる。黒麗の美女の中から恋する乙女が現れた。もちろん、だからといって千花たちの拘束は緩んだりしない。
場の時間が一瞬止まるも、お構いなしに勝炎がツッコミし返す。
「あんたに言われたかねえよ[氷帝]」
氷帝と呼ばれたこの男性こそ、紅随一の天力量と出力を誇る天子、冬城白蓮。
広輝の師、星永慧輔の前の世代の頂点。
広輝の間合いのギリギリ外側で止まる。指で眼鏡のブリッジを押さえ、凍るような冷たい声で広輝に選択を迫った。
「選択肢をやろう[堕天子]。月永を差し出して一人助かるか、俺たちに挑み敗北し月永を奪われるか」
フルフェイスの下の広輝の表情が一層厳しくなる。
今の戦力差を誰もが理解していた。どう足掻こうが、広輝たちに勝ちなんてない。正確には、犠牲無しに広輝の勝利は有り得ない。
そして、白蓮たちの狙いは優里菜。彼女を後衛にして戦い・守りながら白蓮と勝炎を相手にできるのか。いや、できない。
敗北の中から何を拾うべきなのか、広輝には答えが出せなかった。
「んーー! んーーー!!!」
影で口を塞がれている千花が何かを叫ぶ。肺を破き、喉を潰しそうなほど必死に声を上げる。
その鬼気迫る叫びの理由。それを理解できる者は、唯一この場に一人だけだった。
「広輝くんは人質にしなくていいんですか?」
広輝の後方に待機している優里菜が白蓮に問いかける。その声色に、姿勢に逃走の意思は無い。
白蓮は答えようとせず、勝炎は広輝を値踏みし始め、二人が答えないから美怜が口を開いた。
「今回はその価値ないわね。陽本派の天子も星永に連なる天子も対象外よ」
「美怜」
「はい!」
「喋りすぎだ」
「っ! すみません!!」
白蓮に呼ばれて舞い上がった美怜だったが、すぐに畏まった。
白蓮が視線を美怜から広輝に戻す。
「どうする、[堕天子]」
あくまで白蓮は広輝に選択させるつもりらしい。
広輝は答えに窮する。ヒントは増えたが、状況に変わりは無い。そもそも広輝の頭に優里菜を差し出す選択肢は存在しない。考えているのは五人全員の脱出、もしくは形勢逆転の一手だ。しかし、どう手を進めても紅三人の前に広輝という駒は敗れ去る。
この状況がチェックメイトなのである。
先の見えている展開によって広輝が答えられないでいると、代わりに答える者が後ろにいた。
「決まってるじゃないですか」
「(優里菜?)」
優里菜の両手に水渦が生まれる。
「みんなで帰るんですよーー双水龍」
左手の龍を美怜へ、右手を龍を白蓮に射出した。
美怜は影から壁を作って防ぎ、白蓮はその全ての水を氷漬けにしていく。
「思い切りが良いじゃねえか! 病弱娘!」
正面から勝炎が迫り来て、広輝が前に出る。勝炎の炎の拳を広輝は剣身で受け止めた。
勝炎がにやりと笑みを浮かべ、そのまま広輝に周りを気にする余裕がなくなるほどの全力戦闘に入っていった。
優里菜の水流は両方とも全て受け止められ、とりわけ白蓮側には細かい氷の結晶が積み重なった大きな結晶群ができていて、氷の破片が辺りに飛び散っていた。
「甘いな、月永の娘」
結晶群の向こうからだった。
優里菜はすかさず背中側に回り込み、水の衝撃を叩き込む。
「これでも、ですか!」
「そういう意味じゃない」
それを白蓮は振り返りざまの片手で受け止めた。
膨大な天力から生み出される障壁は、衝撃すら通させない。一ミリたりとも白蓮の足跡はずれなかった。
「その優しさ、甘さは、いずれ利用されるぞ」
白蓮は優里菜の真っ直ぐな目に忠告し、優里菜の下半身を足元から凍らせて氷の塊に閉じ込めた。
「ッ! くっ」
氷の中に埋まったのは腰から下全部。びくともしなかった。
優里菜は白蓮の手中にあり、美怜に捕われた三人は、影から逃れるに至っていない。広輝は勝炎の相手で精一杯。
逆転の一手は広輝には存在しない。
白蓮は勝炎の破壊力に劣勢を強いられている広輝に決着を告げる。
「堕天子、止めろ」
広輝の意識が白蓮に向き、氷に埋まった優里菜を見て、体が一瞬止まった。
その一瞬が隙きとなり、勝炎の右拳が広輝の左腹に当たり、耐天力仕様のボディスーツを貫通して肌を焼き焦がす。
「ぐっ、ぃーーっ!」
広輝が左脇腹を抑え、片膝をつく。
「っと、当たっちまった。わりいな」
車は急には止まれない、とでも言いたげだ。口では悪いと言いつつも、勝炎は不可抗力だと悪びれもしない。
広輝の鋭い視線が、白蓮に向かう。
「お前も、現実が無情なのはよく知っているだろう」
白蓮は肩を竦めるように言った。そして、まだ思考を止めていなさそうな広輝に気休めを告げる。
「交渉がうまく行ったら返してやれる」
「……失敗、したら?」
「上を恨め」
広輝の手に剣を握る力が強くなり、痛みを押して戦いを再開しようとした。
「千花ちゃん! ごめんね!!」
「? ……っ! んんんんーー!!??」
優里菜が千花に向かって水龍の牙を撃った。
美怜の影に拘束されていた千花に為す術なく、直撃し、影を引き千切って森の中へ押し流した。
「ちょ、ちょっとお!?」
目を剥く美怜。月永とはいえ、まさか黄色風情に影を引きちぎられるとは思いもしていなかったから。
優里菜の肩に白蓮の手が置かれる。そこから伝わる氷を直接当てられているような刺すような冷たさ。今にも残りの上半身を凍らせられそうだった。優里菜は臆せず、氷帝を見上げて不敵に笑う。
「千花ちゃんは広輝くんと同じですよ。価値、ないんですよね?」
優里菜に価値があり、広輝には無い。光と大樹、千花を捕えて置きながら星永は対象外だという。戦闘能力は広輝が抜きん出ていて残りは団子だと、優里菜は思っている。そこから予想できる白蓮らが求める価値ある人質は、[血統]もしくは[家名]だった。
創まりの三家の月永と櫻守、四国の名家である瀬戸。そのブランドはこれ以上ない物だ。
その基準に照らし合わせれば二人は無価値に等しいと判断し、優里菜は千花だけを逃した。
白蓮は優里菜から手を離し、氷の拘束を解く。
「ふっ。美怜」
「はい。かしこまりました」
氷から解放された優里菜の体に影が這い上り、締めるように拘束した。ただ、光と大樹よりも弱く、口も塞ぐことはなかった。
「行くぞ」
白蓮と勝炎は広輝に背を向け、美怜は影ごと人質三人を連れて行く。断続的に美怜の影から逃れようとする大樹を完全に抑え込んで。光は優里菜の行動に何らかの意図があると察して既に大人しくなり、状況整理と紅三人の観察に移っていた。
「待て! くっ」
その背中に追い縋ろうとするも、焼けた脇腹に激痛が走り、立ち上がれない。
フルフェイスの内側からの視線だけが彼らの背中を射抜くが、誰も振り返らない。
一人を除いて。
優里菜が可能な限り首を回し、声を出さずに口の形だけを変えた。
「( た ん ま つ )」
「?」
優里菜はそれっきり再び振り返ることはなかった。
遠のいていく背中。
広輝は駆け上がってくる激痛を歯を食いしばって耐え、フルフェイスを勢いよく脱ぎとって、そのままぶん投げた。
紅三人の内、誰かに当たればと投げたそれは、見事に「ガン」と音を立て、勝炎の後頭部に激突する。
短気な彼である。リアクションは想像通りだった。
「痛ってえなあ!」
怒りとともに振り向き、炎を纏い、広輝に飛び掛かる。
広輝も全身に力と天力を入れ、地面を蹴り、剣を振り上げたーー直後、右肩から蹴り飛ばされた。
「バカかお前!」
罵声と同時に飛び蹴りで現れた彼女は、そのまま着地し、迫り来た獄炎の拳を、嵐纏う両腕で受け止めた。
「てめえは確か……嵐の」
勝炎の攻撃を真正面から防いでみせたのは、彼と同じく黒いボディースーツを着た特務隊の一人、秋山翠だった。
お互いに炎と嵐を解かないまま力の押し合いが続く。
「あんた、なんでそっち側なんだ? そんな疵持ってるように見え無えんだけど?」
「無えよ。ただ楽しませてくれた礼に付き合ってるだけだ」
「なら引けよ。どっちサイドについても邪魔にしかならない」
「それは断る」
「なんでだ」
「お前等と戦えるだろ?」
勝炎は無邪気な子供のような笑顔で言う。しかも紛れもなく本心だ。
「こっちにつけば[氷帝]と戦えるぞ」
「そうだな。それも面白そうだが、先約もあるからな、そっちを優先させてもらうぜ」
「ちっーー仕切り直しだ」
翠が退き、勝炎もそれを追撃しなかった。
万が一にでも敵戦力を削れたらと翠は思っていたが、無理だと判断。勝炎は己の欲求に従って動いている。それを満たせる手札を翠は持っていなかった。
「楽しみにしてるぜ、[嵐鎧]」
そうして既に影も見えなくなった白蓮たちの後を追い、窪地の高い壁を一気に飛び上がり、勝炎も去っていった。
翠は四肢の嵐を解くと、片膝を突いて右肩を押さえ、冷や汗を垂らしながら痛みに耐える広輝に声をかける。
「って訳だ。一旦退くぞ」
「勝手にしてください。オレは」
「頭を冷やせ、バカ。そこのびしょ濡れの女の子を放っていくつもりか」
翠が指差した方には、優里菜の双剣を抱えて心配そうに広輝を見つめる千花の姿があった。
「コウ兄……」
「〜〜っ」
広輝は、凍え冷え、焼け焦げた黒く硬い地面を叩きつけるのだった。




