第六幕 林間学校
日がどんどん長くなるに連れて、気温もぐんぐん延びて、夏と勘違いするほどになった五月の下旬。
春の球技大会を終えた一週間後、成上高校二年生は二泊三日の林間学校に来ていた。
二日目の今日のカリキュラムは、地図に示されたチェックポイントを歩いて回るフィールドワークである。
およそ半分のチェックポイントを経た広輝たちは、チェックポイントの一つである休憩所で仕出し弁当で昼食を囲っていた。
「まさか久下にあんな特技があるなんてな、昨日も今日も助かったぜ。なあ睦」
「本当にな。でも、飯盒炊爨でおこげ無しで炊き上げるなんて始めて見たけど」
中学生に見違えてしまうような小柄の男子は廣岩海で、その隣の長身がバスケ部新エースの諏訪睦。親友同士のこの凹凸コンビで有名である。
広輝は少し不服そうに箸を止めた。
「朝はちゃんとおこげ作っただろうが」
「うん、美味しかったよ」
「カレーにほしかったな、あのおこげ」
「さ、沙紀ちゃん……」
優里菜のフォローも沙紀に台無しにされ、広輝が目を細めたのに気づいた深音は少しアタフタと慌てるが、広輝の反応はそれだけであり、再び箸を口に運び始めた。
睦と優里菜と深音が安堵の息を漏らすのだった。
始業式の日に引いた席決めのくじ。それがそのままこの林間学校の班決めでもあったらしく、不満も出たが修学旅行は生徒の好きに決めさせるということで落着した。しかし、強制的な班決めによって、相性の悪い者同士が一緒になることもあり、この班では広輝と吉田沙紀の関係が正にそれだった。日頃から会話が皆無の二人だが、広輝が人と話した時の受け答えを横耳に聞いている沙紀は、その広輝の態度にイラッとしていることを周りは知っていた。また、その沙紀のイライラに対して広輝が全く意に介していないことが沙紀の広輝に対する態度を硬化させていた。
その事を知っていて昨日から気を揉んでいる三人とは反対に、海は至って平常運転で話を変え、それに阿吽の呼吸のように睦が拾う。
「で、あと何ヶ所残ってんだっけ?」
「四ヶ所だ」
「んじゃあ、午後はスピード上げてさっさと終わらせてバーベキューの準備に入ろうぜ。準備できたクラスから始めて良いってヨネさん言ってたしな」
二日目の夜は肉祭りのバーベキューで特に男子どもがこぞって楽しみにしているが、その男子の一人である睦が海に待ったをかける。
「いや、レポートに纏めないといけないんだから、そんな早く回れねえよ」
「えー、写真撮っとけばいいだろ」
「お前と頭の構造が違うんだ。頼むからお前基準で考えないでくれ」
「あたしは写真でいいけど」
「言い直す。お前たち基準で考えないでくれ」
こんなこと言っている睦も学年二十位の頭の良さなのだが、なにぶん相手が悪い。沙紀は不動の学年一位で、海は毎回ノー勉強で五位前後をうろうろしている強者なのだ。見聞きしたものをスポンジのように吸収する三人に、食らいつく睦はいつも必死だ。
「私はゆっくり見たいかな」
「……ゆっくりでお願いします」
ちなみに優里菜は一桁台後半を維持し、深音も五十位前後にいる努力家である。広輝は……。
そんなこんなで、みんなが昼食を食べ終えた時、優里菜が席を立った。
「ちょっと席外すね」
そう言って優里菜が沙紀と深音の後ろを通り過ぎようとした時、広輝が声をかける。
「ーー月永」
「え、なに?」
「あっちのが近い」
広輝は優里菜を見ずに、優里菜が向かおうとしていた逆の方向を指さした。
「え……あ、あはは。ありがと」
「吉田、頼んだ」
「そうね」
「わ、わたしも行く」
残されたテーブルには空の弁当箱が六つ。手持ち無沙汰の男三人はそれを片付け始め、広輝が海にポツリと尋ねた。
「なあ、廣岩」
「お、珍しい。なんだ?」
「吉田に嫌われてるのは別にいいんだが」
(いいのか)
(いいんだ)
「なんで敵視されてんのか、わかるか?」
事情を知る海と睦は「あー」と視線を逸らして手を動かす。弁当箱と紙コップが全部重なったところで、海がなるべく障りの無いように広輝に答えていった。
「簡単に言うとな、『なんで親友のあたしより先に気付けるのよ』だ」
「何に?」
「月永の機微に」
広輝は首を傾げる。別段、気にしているつもりはなかった。
海は女子三人が向かった方を気にしながら補足する。
「久下は月永と話したがらないのに、月永がどっか行こうとすると注意するじゃん?」
「だって、間違ってるし」
「放っておけばいいじゃん? 親しいの見られたくないんだろ?」
「迷子になられた方が面倒だ」
「『だからなんで、あたしより先に気付けるのよ』なんだよ」
「……気付いてくれれば、オレだって声かけないんだよ」
海が言いたいことがわかると、広輝はガックシと肩と首を落とし、溜め息まで落とす。その姿からは、普段見えにくい広輝の感情が見て取れる。
睦は、沙紀と同じく、優里菜のそれに気付けない理由を説明しにくそうに口にした。
「優里菜は、するりと行くんだよ。移動する前にちゃんと声を掛けられてるんだけど……なんだ、こう、そういう時に限って意識に引っかからない」
「マジそれな」
海はピンときたようで、睦を指さして反応した。そして思いつくもう一つの理由は胸の内に秘めたままにするのだった。
(言わないほうがいいよな。もう一つは)
**
日が傾き始め、空が橙色になりはじめようかという夕刻時。
煉瓦で作られたグリルに敷かれた焼き網の上で、肉という肉が炭火に炙られて美味しそうな音と匂いを上げている。
食べ盛りの飢えた高校生たちは、それに片っ端から食らいついていく。特に男子の勢いは凄まじく、半ナマだろうとお構いなしに口に入れていくこともしばしば。
沙紀の班員も例外ではなく、呆れ返っている。
「あきれた。食い意地はりすぎでしょ」
「|はひゃふふぁへあいとはへあえひまうあお《はやくたべないとたべられちまうだろ》」
「飲み込んでから喋りなさいよ。汚いな」
海はウーロン茶で口の中の肉を一息に飲み込み、手で口を拭う。
「あそこの肉のおかわり、早い者勝ちじゃんか。そうこうしてたら食べられ、あっ、原と剣持の奴! あそこの班、運動部ばっかりだからか」
また一つ肉の皿が運ばれると、海は負けじとタレに付けてあったハラミを口に放り込んだ。
「もっと行儀よく食べなさいよ、睦みたいに」
「あん?」
海が口に肉を含んだまま比較対象に出された右隣の睦を見上げると、背筋を伸ばしてきれいに肉を食べている睦が海を見下ろしていくる。
「……」
「……」
「もらい!」
「あ、おまえ、なら俺はこれだ」
「あっ、俺の育てた牛!」
焼き網の上で仁義なき肉の奪い合いが始まった。
いつものじゃれ合いに入った二人から沙紀は海の左隣に視線を移す。そこには黙々と左手に白米を持って、他の男子と同じくパクパクと肉を口に放り込む広輝がいた。
「というか、あたし的には久下くんもそっち側だったなんて驚きなんだけど」
その瞬間、班員に緊張が走る。ただでさえ沙紀と広輝の雰囲気が悪いのに、沙紀が自分から広輝に話しかけた。広輝の出方次第で楽しいはずのバーベキューが死んでしまう。その間に睦と海の肉の奪い合いの形勢が海に傾く。
広輝は箸を止め、頬が膨らむほど含んだ口の中の肉を飲み込み、そして口元にタレを付けたまま真面目な顔をして、沙紀と視線を合わせる。
「……吉田」
「なによ」
「BBQと書いてなんて読むか知ってるか」
「? バーベキューでしょ」
広輝は神妙な表情で首を振ると、各人、広輝の問いの答えを頭の中で浮かべていく。
(なんだろう?)
(焼き肉?)
(食べ放題?)
(ひっかけ? ビービーキュー)
(カーニバル?)
答えが出揃ったタイミングで、広輝は己の経験から、まるで事件の真犯人を告げるかのようにBBQの真実を告げた。
口元にタレを付けたまま、肉の乗った白米を突き出して。
「"戦争"だ」
「んぐっ!」
「ぶふぅっ!」
「きゃあ!」
「うわ、きたなっ!」
「大丈夫!?」
睦は箸を持った手で口元を押さえ、なんとか吹き出さずに済んだが、海は手が間に合わず、タレと細かな破片が口から吹き出てしまった。
二人は背中を丸めて必死に口の中の物を飲み込んだ。
「待て待て久下、それは卑怯だろ!」
「真面目な顔して、おまっ、ゴホッゴホッ」
涙目になりながら笑う海と、食べ物がつっかえて咳き込む睦。
至って真面目に答えたつもりの広輝は、海が吹き出した物からさっと避難させた白米を持ったままキョトンとしたまま固まっていた。
「あれ、違ったか? 肉の奪い合い……」
広輝は美味しそうな音を立ててどんどん肉が焼かれていく焼き網に視線を移し、岳隠でのバーベキューを思い出す。
食わなければ食われる、焼き育てた肉も守っていても奪われる仁義なき弱肉強食の世界。騒がしく楽しい時間でもあるが、やはりお腹いっぱいになるまでのバーベキューは戦場だった。
呼吸を整え終えた目尻に涙を浮かべる睦は、焼き網を見てまだ不思議そうにしている広輝を見て、顔をほころばせる。
「そうだけど、キリッて、カッコつけて言うことかよ」
「俺、久下のこと好きになりそうだぜ」
広輝は班員の顔をぐるりと一周見渡す。親しげな表情を向けてくる海と睦に、なぜ広輝がそんな考えになったのか考えつく優里菜は仕方がないという笑みで、沙紀は広輝への印象のギャップを受け止めきれずにいるような引きつった顔をしていて、深音は弟を見るような顔だった。
広輝は再び首を横に倒す。
「……違うのか?」
「天然かよ!」
海が広輝の背中をバンバンと叩いてまた笑うのだった。
・
肉の争奪戦が終わり、焼き網が鉄板に代わって焼きそばを焼いた跡でも売れ残った野菜がチビチビ焼かれている。
西の空も茜色に彩り始め、そろそろお開きの雰囲気が漂い始めていた。
「キャンプファイヤーのフォークダンスって誰と踊る?」
沙紀の思惑が孕んだ質問にピクリと反応を示す者が数人。それに一番早く反応したのは、沙紀が無言を決め込むと思っていた広輝だった。
「それって強制だったっけ?」
「一回は踊れって言ってたわね」
沙紀の事務的な回答を受けて、広輝はすぐ隣の海に交渉を持ちかける。
「廣岩」
「俺、男と踊る趣味はーー」
「昼飯三食、飲み物付き」
「一週間」
「OK」
「しょうがねえなあ、ダチだもんな」
「現金なトモダチね」
自分の思惑が崩れなくてほっとしつつ、広輝に対するイメージが段々と崩れていく沙紀だった。
「ちなみに、睦じゃなくて俺の理由は?」
「身長何センチ?」
「チビに聞くことか? 一五三センチ」
広輝は睦にも尋ねる。
「何センチ?」
「一八七センチ」
「オレが一六五だから身長差が小さいのが廣岩。証明終了、QED」
広輝は面倒ごとの段取りが終了したと思い、そろそろ焼き終えそうなトウモロコシに箸を伸ばす。
「あれ、でも、なるべく男女でって言ってたよう、な?」
深音が何気なく思い出した担任教師の言葉に、広輝は箸を止めた。
「廣岩、昼飯のやつ天川にするわ」
「俺たちの友情もここまでだ」
「安い友情だったわね」
再び鉄板越しに繰り広げられる寸劇に、沙紀はあきれ果てたように感情無くツッコミを入れたのだった。
「久下くん、優里菜ちゃんの方が身長近いような」
沙紀が思わぬ深音の敵対射撃に顔を少し引き攣らせ、援護射撃を受けた優里菜はピクリと肩を震わせ、視線が広輝のと交差する。
ほんの数瞬の間の後、広輝から出た答えは案の定だった。
「ぜったいやだ」
優里菜の表情が張り付く。
逆に自分の思惑通りに進みそうなのに、沙紀が広輝に食いついた。
「あんた、なんでそんなに優里菜を嫌がるのよ」
「嫌がってない、関わりたくないんだ」
「もっとひどいじゃないの!」
良くも悪くも沙紀の広輝に対する印象が変わりそうだったが、再び悪印象へと戻って行くのだった。
・
バーベキューの片付け中に、一人になった優里菜の背中に声がかかる。
「優里菜ちゃん」
「深音ちゃん? どうしたの?」
優里菜が振り返ると、いつも以上に神妙な面持ちの深音の顔があった。
「あのね、一回目のダンスが終わる時、なるべく近くにいてほしいんだ」
「? なんで?」
「そうすれば久下くんとペアになりやすいでしょ? 廣岩くんにもそれとなく言っておいたから」
話し合いの末、一回目は優里菜は睦と、深音は広輝と、沙紀は海とペアを組むようになっていた。深音の策は、海が優里菜の傍にいたら次は学校での仲の良さ的に海が次のペアになりそうだったので、海のペアを離し、一回目が終わったタイミングで広輝をなし崩し的に優里菜に渡すものだった。
しかし、当の優里菜が顎に手を当てて渋る。
「え、うーん、でも……」
「優里菜ちゃんと久下くんの関係知ってるの、わたしだけみたいだから。その、少しでも協力できたらって」
深音は二人の事情を知っているからこそ、学校での評価が皆無である広輝への優里菜の思いにもなんとなく気付いていた。また、広輝の「関わりたくない理由」にも見当がついていて、もどかしさ・歯がゆさがいっぱいだった。
「本当は言えたらいいんだけど」
「ダメだよ。それはダメ」
「わかってるけど……」
「ありがとね。私もがんばってみる」
優里菜は深音が色々なことを察して行動してくれていることがわかり、少し勇気を出してみることにした。
その後、深音に案内されるように集合場所へと戻っていった。
***
朝日が山の向こうから顔を出す頃、宿泊棟の玄関が開いて閉まる音がして目が覚めた。
枕元のスマートフォンを手にとって時刻を確認すると、4:56。彼は就寝時間後も、生徒が部屋から出ないように監視していた為、三時間も眠れていない。眠たい目をこすって体を起こすと、隣には別クラスの副担任が豪快に布団からはみ出して寝ていた。自分のクラスの副担任がいないのは、教員の方も部屋が同性同士になるように配慮したからである。
彼は重い体に鞭を打って自室の窓からカーテンを潜って外を眺めてみても、生徒の姿はない。散歩をしたら気持ちよさそうな爽やかな緑が彩る景色が広がってるだけだった。
彼のまだ完全に起ききっていない頭が、さっきの音を気の所為で済まそうとしている。
そこに宿泊棟の内側から襖が開いて閉まる音がした。トイレかも、と耳で様子を窺っていると玄関から音が。溜め息を付いてそのまま外の様子を見ていると一人の髪の長い女子生徒が周りをキョロキョロしながら林の方へ向かっていく姿が見えた。
彼は、彼女が真面目な優等生だと思っていただけに、少し残念に思いながら脳を覚醒させていく。豪快に眠る同僚宛に書き置きを残し、彼ーー屋代健太は指導員室を後にした。
まず指導員室から広間に出ても、宿泊棟はしんと静まり返っている。広間の両側に四部屋あるどの部屋からも生徒たちが起きている気配を感じない。零時過ぎまで続いていた枕を介した青春を思えば無理もなかった。
健太が夜に広間で生徒たちを監視していたと言っても、彼もかつては高校生。度が過ぎれば注意するが、ひそひそ話を邪魔するほど狭量ではない。
玄関に向かうと、当然だが扉の鍵が開いている。仕事を増やしてくれやがってと心の中で悪態をつくと、靴箱からスニーカーを取り出して、スリッパからさっと履き直す。
外に出ると、眩しさで思わず目を覆った。窓越しでは分からなかった、清澄な光。木の葉や葉草に乗る細かな露が朝日を反射し、辺りを多様な緑で彩っていた。空気を吸い込めば清涼な空気が体をめぐり、彼の身体を完全に覚ましていく。朝露を羽織った土と植物の匂いが彼の青春を思い起こす。少し肌寒くもすっきりとした空気で、サッカーの試合の日の朝を思い出した。
健太は鳥のさえずりと葉の羽音を耳にしながら、女子生徒が去っていった方に足を向ける。少し湿った地面と水分を含んだ小枝を踏むと、今日も、朝の火起こしが大変になりそうだと予測し、その対策を頭の隅で考えながら彼女を捜す。
傾斜のついた脇道の向こうにある小川の音が健太の耳に届く。方向以外に捜す宛があるわけではないのでその脇道に入ると、すぐに川原の手前の木の下に佇む彼女を見つけた。
声をかけようとしたが、思わず木の陰に隠れてしまう。
(そういう関係だったのか? いや、でも……)
普段の学校生活からは想像できない二人だった。特にあの男子生徒の方が女子生徒から距離を取ろうとしているらしく、健太の目からもそう見えていた。けれど、ちらっと見えた感じからすると、木の幹を背にしゃがみこんでいるその男子は彼女が側にいることを許している。
(久下と月永か……何かあるのか)
連れ戻す職務よりも興味の方が勝ってしまい、特に意識すること無く木に背中をピタッと付けると聞き耳を立ててしまう。清涼な川のせせらぎがうるさく感じてしまうが、風下にいるのもあって川を見ている二人の会話が健太の耳に届く。
『昨日はありがとね。一緒に踊ってくれて』
『成り行きだ。あれで断る方が悪目立ちする』
『それでも、ありがと』
『……オレは………………』
『…………「オレは」なに?』
『……〜〜はあ。一月の時もそうだけど、なんで離れてかないんだよ』
『なんだ、そんなの簡単だよ』
『え』
『だって、広輝くんの根っこの部分知っちゃったもの。目立ちたくないことも、私といることが面倒になっちゃうのも本当なんだよね? でも、ユキちゃんやアイちゃんに見せる優しさは本物で、美幸さんたちを大事に思っているのも知ってる。それに、どれだけ面倒くさそうでもちゃんと周りに気を配ってるのにだって気付いてるんだからね』
『……買いかぶりすぎだ』
『あ、照れた? めずらしい』
『照れてない』
『ほんとう?』
『…………』
『ふふ』
二人の会話が聞こえなくなったのか、途切れたのか分からず、健太はそうっと顔を出すと、優里菜が広輝の隣にしゃがみこみ、川の流れを見ている。どうやら、会話がなくなっただけようだ。
川のせせらぐ音と鳥のさえずりが心地よく、無音ではないのに静寂という言葉がぴったりと当てはまる空間になった。
この時が完成されすぎていて、健太が一片の音を出すことすら躊躇するほど。
この空間と職務との間で葛藤していると、再び二人の会話が始まった。
『そういえば、アイちゃんがプール行きたいって』
『プールか……今言うってことは湖西園のレジャープールだよな?』
『うん、そう』
『…………』
『なにかまずい……もしかして、泳げなかったり?』
『いや、得意じゃないけど泳げはする。ただーー』
『ただ?』
『背中に傷跡があって、自分で言うのもあれだが、中々えぐい』
『え!?』
『治癒……応急手当を半端にしてしまったせいで治療してもらっても跡は消えなかったんだ。小さくはなってきてるけど、まだ、な』
『そう、なんだ』
『だから、なんか手を考えないとなあ』
『……昨日のシャワーとかどうしたの? 着替えは? 水泳の授業は?』
『水泳は器械体操と選択だから授業自体回避してる。風呂は人が少なめの時に烏の行水して、更衣室の隅で早着替え。オレを気にする奴なんていないからな。ああ、これこそ普段の行いのたわものだ』
『……なんて言っていいか、コメントに困るよ』
『別に要らない。わかってくれれば、それで』
『……ズルいね、そういうところ』
『優里菜が真っ直ぐでいてくれるからな』
『ーー本当、ずるいなあ』
それ以降は二人に一切の会話が生まれることはなかった。
辺りが先程と同じ静寂に包まれ、時間が経つにつれて日が高くなり、少しずつ暖かくなっていく。
二十分、三十分と何も起こること無く時が過ぎていった。その澄み切った静寂のおかげか、健太もただその時を待つのも苦にはならなずにいられたようだ。
それでも終わりは訪れた。
広輝か優里菜、どちらかのアラームが鳴ったのだ。
『ん、んーー。さて、戻るか』
『そうだね。んんっ!』
『で、帰り方わかる……よな?』
『…………たぶん?』
『この近距離で? 一緒に帰るとあれだから、屋代先生に連れてってもらえ』
(!)
「すみません、よろしくお願いします!」
(!?)
二人とも間違いなく、健太が隠れている木に向かって言っている。
健太はいつから気づかれていたのか考え始めるが、あの口ぶりから随分前なのだろうと諦め、観念して二人の前に姿を現した。
「「おはようございます」」
「お、おう。おはよう」
二人には教師に見つかって焦る様子も、抜け出して悪びれる様子もなく健太に近づいてくる。
肝が座っているのか、開き直っているのか、そもそも悪いことをしている意識がないのか。せめて前者二つなことを祈った。
「お前たち、ペナルティとか考えないのか?」
「就寝後については言われましたけど、寝て起きた後の起床前については言われてませんから」
「……呆れた屁理屈だ」
「ですよね」
広輝の言い訳に優里菜が困ったような苦笑いを浮かべる。広輝と違って優里菜は多少の後ろめたさはあるようだった。
本来ならば連帯責任として班員にペナルティを課すところを、健太は自分にも後ろめたさがある為、お咎めを無しにしようとした。
「まあいい。朝の散歩ってことにしておいてやる」
「『しておいてやる?』それじゃあ僕も屋代先生のこと、盗み聞きも職務だと思っている……いえ、盗聴が趣味の教員だと認識しておきますね」
「ぐ」
「ちょっと、広輝くん」
「冗談です。優里菜と一緒にされると面倒なので、やるならまとめて僕にお願いします」
「え、待って。それは」
「ああ。それなら割と簡単だ」
「屋代先生!?」
健太は足元の湿った小枝を拾い、両端を持ってしならせる。
「今日も火起こししにくそうだから、手間取っている班を助けてやってくれ」
昨日の朝も朝露がひどく、どの班も火起こしに四苦八苦している中で、この班だけが順調に朝食の準備を進めていた。それを健太はきちんと把握し、生徒たちの話からその理由も把握。そしてその話の通り、バーベキューの準備で広輝が手際よく火の段取りをしていたのを見ていた。
他人と関わりたがらない広輝には、ペナルティに見えるくらいの健太のおせっかいだった。
「ーーわかりました」
そのペナルティには、慌てていた優里菜もほっとした様子だ。
その優里菜を健太が連れて宿泊棟へ戻っていく。
時刻は午前5:55。朝に強い生徒たちが起き出す頃合いになっていた。




