第四幕 初訪問
成上学園から東に二十分歩くと住宅街が広がり、そこに月永邸がある。
そこからさらに東に二十分歩くと、街外れののびやかな田舎の集落に入り、この集落を貫く大きな道路から一本外れ、百メートルほど歩くと二股道がある。その内、車一台が通れそうな上り坂を少し登ると四方を木々に囲まれた久下家に到着した。
左手に屋根の高い平屋。瓦屋根でダークブラウンの外壁。風通しを良くする為か、二重窓がずらりと並ぶ。どことなく岳隠支部の道場に似ていた。
そして右手に、二階建ての大きな民家がある。面積だけなら月永邸よりも広い。瓦屋根の古民家をリフォームしたような様相だが、間違いなく新築。
現在時刻、八時二十分。
玄関横にあるカメラ付きのインターホンを、優里菜は少し緊張しながら押した。
朗らかな音楽が優里菜たちにも聞こえ、中から「はーい」という女性の声が届いた。その女性はインターホンに出ることなく玄関に来て、スリッパから外用のサンダルに履き替え、引き戸の扉を開けた。
お互いに顔を確認すると優里菜たちが先に挨拶を始めた。
「お、おはようございます」
「おはようございます、美幸さん」
「(おはようございます)!」
緊張している優里菜、久しぶりの挨拶を交わす円、元気いっぱいにスケッチブックを掲げる愛紗。
四月中旬の土曜日、この三人が泊まる荷物を持って久下家を訪れた。
一月の岳隠の事件の後、円は天守らと共に前の久下家を訪ねた時に久しぶりの顔合わせを済ませ、一通りの儀礼を終えている。
美幸は快く三人を通した。
「いらっしゃい。ささ、上がって上がって」
三人は広い玄関を上がると、美幸から左手の客間に荷物を置くように言われ、その後右手にある一段高くなっている畳の居間に通された。
南側の障子窓から光が取り込まれ、その窓下に低い収納棚がある。十畳の和室の真ん中に大きな長方形の机があり、玄関側におしゃれな木製のテレビ台に六十インチ以上ある大型テレビが乗っていた。北側にはダイニングキッチンがあり、美幸が急須とポット、人数分の湯呑と茶菓子をお盆に乗せて持ってきて居間に持ってくると三人に振る舞った。
「熱いから気をつけてね」
美幸が特に愛紗には念を入れてそう言うと、愛紗は口を大きく開けて、「はい」と口の形で答えた。
「みんなが虜になる理由がわかったわ」
美幸がにっこりと微笑むと、二階から下りてきた幸穂が顔を出す。
「円さん、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
「優里菜さんもおはようございます!」
「う、うん。よろしくね」
太陽のように明るく、天真爛漫な幸穂に優里菜は圧倒された。同時に友人の沙紀と馬が合いそうに思えた。
「この一週間で優里菜さんの噂すごい聞きましたよ。すごい人気ですね!」
本当に気が合いそうだった。
優里菜としては触れてほしくない話題に円が関心を示してしまう。
「へえ。そうなのか」
「はい。そうれはもう色々とーー」
そこから出てくる優里菜を讃える言葉の数々。
愛紗がキラキラした目で優里菜を見つめる。
そして確証の無い噂を、その真偽を確かめるように噂のまま口にした。
「バスケ部のイケメンエースとのいい仲だとか」
「違うよ?!」
急な強い否定に場がしんとなる。
「えっと、睦くんとは中学生の時からの友達で、よく遊んだりもしてるけど……違うからね?」
「本当ですか?」
訝しんでいるようにも見えなくもない幸穂を、諸々察している円が窘める。
「ユキ、そのくらいに」
「はーい」
幸穂はあっさりと引き下がり、愛紗の隣に膝をついた。
「やっと会えたね。アイちゃん!」
幸穂のハイテンションに愛紗は少し身構え、円の裾を掴む。
幸穂も清天寮と関わり合い、いろんな友人、年下の子どもたちと接してきた。愛紗の不安も、接し方も円同様心得ている。
可能な限り目線の高さを合わせ、ゆっくり丁寧に、安心を届けられるように声をかけた。
「お兄ちゃんの妹の幸穂です。よろしくね」
愛紗の目が瞬きを一回、二回……小さな手が円の裾から離れ、スケッチブックのページをパラパラと捲り、言葉を探す。
胸がドキドキしている中、愛紗は上目遣いで口と鼻を隠すようにそのページで幸穂に言った。
「(よろしくおねがいします)」
「うん。いっぱい遊ぼうね」
幸穂は優しい笑みを浮かべ、柔らかい金色の髪を撫でた。
愛紗の心の扉が夜明けのようにパアっと開く。この幸穂は信じても大丈夫な人なんだと愛紗の心が認識した。その撫で方が、微笑んでくれた表情が広輝に似ていたから。
再びスケッチブックを捲り、居るはずの人の所在を確認する。
「(お兄ちゃん)(どこですか)」
「お兄ちゃんならお父さんと一緒に道場で準備してるよ。確か」
愛紗の質問に答え、もっと詳しい情報を知っている美幸に目を移した。
「バケツとかレジ袋とか持っていったけど何に使うのかしらねえ?」
美幸は頬に手を当てて首を傾げたが、その意味を幸穂は知っていた。幸穂自身は経験したことは無いが、話には聞いていた。
幸穂は両手を合わせると、優里菜に向かって南無南無した。
「…………え?」
*
優里菜と円は道着に着替え、隣の建物に向かう。[錬武館]と書かれた木製看板が掲げられた入り口を潜り、靴を脱いで下駄箱に収め、白い戸を開けた。
中は仕切り一枚も無く、天井の高い空間。やはり岳隠の道場に似ている。
その中央に道着の広輝とラフな格好の彼の父親・勇人が二人を待っていた。
「来たな」
円が一礼してから敷居を跨ぎ、優里菜もそれに倣うと、二人と入れ替わるように勇人が玄関に向かう。
すれ違った大きな背中に円が問いかける。円はてっきり付き合ってくれるものだと思っていた。
「勇人さんは参加されないので?」
「今日はパスさせてもらう。隆平がうるさそうだからな」
勇人と優里菜の父・隆平は旧知の仲であり、隆平は勇人の実力を認めてはいるものの毛嫌いしていた。
勇人もそれを承知しており、今日の鍛錬の趣旨を理解しているので、知られたらガミガミ言われると確信できていた。
「せいぜい二人のせいにさせてもらうさ」
勇人は背を向けたまま手を振り、本当に隣の家に戻って行ってしまった。
優里菜の耳に不穏な言葉ばかりが残り、戸の側に並べられたバケツやら掃除用具やらが不安を煽る。幸穂にも「ご愁傷様です」と言われたばかりだ。
嫌な汗が出そうだ。
円が居る時点でキツイ鍛錬になるだろうことは察していたが、それを超えそうな予感がする。
隣の円に恐る恐る訊いてみた。
「あの」
「うん?」
「今日の鍛錬は何を……?」
「そうだな、一言で言うならーー」
円に広輝、師弟揃って口を合わせて言った。
「「限界突破」」
後に引けない状況で優里菜に、終了の鐘が鳴るのだった。
ーー正午ーー
午前の鍛錬が終わる。
優里菜は倒れないようにしているのがやっとだった。両手で膝を押さえていないと足が震えだしてしまう。息は絶え絶えで、中々整わない。全身から汗が滝のように流れ落ち、床に水溜りをつくる。インナーだけでなく道着も絞れてしまうかもしれない。
今日の気温は肌寒さを感じるくらいなのに、体感は真夏のように暑い。無風なこともそれに拍車をかけた。
壁際に置いてあったスポーツドリンクを流し込むと、優里菜は壁に背中を預けて座り込み、天井を仰いで全身から力を抜いた。
広輝に師事するようになってから、体力の限界に迫るメニューを何回もこなした。岳隠で円のしごきにも耐えきった。それなりに自信を持てるようになり、今日もきっとどこかで"大丈夫"だと思っていた。
しかし今日は地獄だ。本当に地獄だ。
睦や海から、猛練習すると偶に疲労でぶっ倒れる奴がいる、と聞いたことがあった。優里菜はそれを疑うわけではないが、面白くする為に話を盛っているのだろうと思ってもいた。
それが事実なのだと身に沁みる。
「コウ、ユリの柔軟をよくやっておけ」
「はい」
指示された広輝もたくさんの汗を流し、肩で息をしている。
相当にきつかった証拠だ、と信じたい。
円は床の掃除用にモップを手に持ち、二人に(主に優里菜に)悪魔の一言を告げる。
「ウォーミングアップは終わりだ。午後は本格的にやるぞ」
ここは、本当に地獄だ。
*
午後三時から八時まで続いた鍛錬は苛烈を極めた。
インターバル以外で足を、手を、止めることを許されず、休憩中すら思考させられ、常に身体を酷使し続ける。
疲労から、胃の中のものが全て吐き出してしまった。内容物は、察知した円と広輝によって直接レジ袋の中へ。
それでも鍛錬は続行し、今度は意識が飛んでいく。そうすると、バケツの水を掛けられて、意識を何度も引き戻される。
心身ともに疲れ切り、筋繊維はボロボロに傷つき、物理的に立ち上がれなくなる。
いよいよ鍛錬が中断かと思いきや『天力で身体を動かせ』『早くしろ』という円の激が飛ぶ。
優里菜は最初、"不可能"を言われていると思った。動けるのに立ち上がらない者への叱咤だと。
しかし、床に伏せる優里菜の横に広輝が来ると、優里菜の背に手を当ててコツを話し出す。
「天術で水を操るように、天力で自分の体を操るイメージだ」
優里菜の感想は「嘘でしょ」だった。そんな事ができる事への驚嘆ではなく、まだこの鍛錬に居なければならないのか、という絶望である。
もしもそれができるようになってしまえば、豊富な天力を持つ優里菜にリタイアが存在しなくなる。
"諦める"という選択以外には。
一つ、以前から広輝に言われていたことがあった。
『できなくてもいい。間に合わないのも構わない。でも、やろうとしなかったり諦めたりするな』と。その理由は『守るべき時に守ることから逃げないように』。
強大な敵を前にして、困難な任務を前にして、身体が限界だったとしても、守りたいものが背中にあるならば、その時に全霊を尽くせるように。
だから、その選択肢を取る訳にはいかなかった。
優里菜は一時間以上掛けて、天力で身体を動かすコツを掴み始め、生まれたての子鹿のように体を起こそうと試み始めた。そこからさらに一時間近くかけて立ち上がってみせた。
すると、組手をしていた円(天力有)と広輝(天力無)が手を止めて目を見合わせる。広輝はこんなに早くできたことへの驚きで、円はニヤリと口角を上げた。
円は、不格好ながらも膨大な天力を纏って身体を動かす優里菜と、天力を纏わない広輝に組手を命じる。
新しく冷や汗をかいたのは優里菜だけではない。広輝も今の彼女を相手にしたくはなかった。垂れ流しの天力であってもそれを膨大に纏っているということは攻防力もそれなりである。纏うことを制限されている広輝がその一撃を受ければひとたまりもない。
そんな無茶な鍛錬が続き、優里菜は脳の方も限界を迎えて天力のコントロールを失い床に突っ伏した。
広輝に道場の隅に運ばれ、壁に体を預け、半ば朦朧とした意識の中、優里菜は広輝の鍛錬を見続けた。そこに二人の身のこなしを覚えようとか、そんな意識はなく、ただ終わるまで見続けた。優里菜の今日の最後の記憶は、広輝に抱え上げられて運ばれている所までだった。
***
優里菜が目を覚ますと見知らぬ天井。
意識もはっきりせず、ここがどこなのか、なんで自分のベッドではなく新しい畳の匂いがする部屋で寝ているのかも分からなかった。
包丁がリズムよくまな板を叩く音が聞こえる。
(朝ごはん作らなきゃ……っ!?)
いつものように身体を起こそうとして、急に動かした筋肉に痛みが走った。
びっくりした優里菜の身体は、布団に倒れ戻り、天井を仰ぐ。
映像が早戻りするように記憶が逆上り、意識がはっきりとしていく。
限界突破のコンセプト通りの地獄の鍛錬を思い出し、青ざめた。今日は超回復に当てられるらしく鍛錬はないが、今後も同じような鍛錬があるなら億劫でしかない。鬱になりそうだ。
そのまま布団の中に居ることも一つの選択肢だったが、起きることにした。早くシャワーを浴びたかった。
誰かが優里菜を道着から着替えさせ、温かいタオルで体も拭いてくれてもいるが、万全とは言い難く、全身に煩わしさが残っている。
全身をひしめく強烈な筋肉痛に短い呻き声を上げながら、ゆっくりと体を動かして、布団から抜け出し、襖を開けた。
新築の家の匂いに混じって朝ごはんの香りが鼻をくすぐる。味噌の匂いの中にほんわかと鰹の香りが残る。
ダイニングに顔を出すとカウンターキッチンの向こうの美幸と目が合った。
「あら、おはよう。もう起きれるのね」
「おはよう、ございます」
「あんまり無理しちゃだめよ。寝てていいからね」
美幸が心配そうに優里菜の様子を伺うが、あまり深刻そうではない。
きっと慣れているんだろうなと、優里菜は回らない頭で納得した。
「お風呂、お借りしてもいいですか」
美幸はすぐに返答せず、カウンターに置かれた電波時計を見る。
六時十分。
「どうぞ。場所わかる?」
「はい」
「七時前には出て来てね」
優里菜は時間付き許可をもらうと戸を締めて、奥にある浴室に向かう。
突き当りが洗面台になっており、左手がトイレで、右側が脱衣所・浴室と続く。
広い脱衣所で筋肉痛に耐えながら衣服を脱ぎ、バスタオルが掛けられたかごへと放る。人様の家なので、普段ならいつも以上に丁寧に畳むところだが、筋肉痛でそれどころではない。
浴室に足を踏み入れると、まず正面の大きな鏡に映った自分の体が目に入る。
昨日あんなに打撃を受け、投げ飛ばされたにも関わらず、打撲の跡や腫れているところはない。さすが天子の体と天術による治癒である。それが長所で利点なのだが、今はそれが恨めしく思う。これのせいで、きつい鍛錬を可能になっているから。
次に気になったのは浴室の暖かさ。朝の浴室にしては湿度も室温もある。足が伸ばせる広い浴槽の蓋がしてあったので、そっと開けるときれいなお湯が張ってあった。
優里菜は喜び、可能な限り早く体と髪を洗い、湯船に浸かった。
「はあ〜」
思わず声が漏れてしまうほど気持ちがいい。全身の疲れが取れていくのが分かる。
お湯もほんのり温かく、長くに入っていられる温度だ。設定器には四十度と表示されているが、もう少し低く感じられた。
お湯を肌で堪能しようと、瞼を閉じて開けると……体がいい具合に暖まっていた。
設定器に設定温度と併せて表示されている時刻は[6:55]。
目を疑うも数字は変わらない。
溜まった疲労で、一瞬にして眠ってしまったらしい。美幸に言われた時間まで残り少ない。
優里菜は上せる前に湯船から出て、身体を拭く。浴室に入った時と同じように蓋を浴槽に乗せる。お湯に浸かっても筋肉痛は顕在でその動きはぎこちない。
脱衣所でかごに掛かっていたバスタオルを頭に乗せた時、洗面所側の戸が開いた。
「え」
「ーーえ」
「コウちゃん! 待って!」
廊下の向こうから美幸の大きな声がしたが、時すでに遅し。
日課である朝のランニングから帰って来ていつものように浴室に直行した広輝の目には、バスタオルが頭に乗っただけの一糸纏わぬ優里菜の姿が映っていた。
次の瞬間、戸が壊れるくらい勢いよく閉じられ、その音はまだ寝ていた全員を叩き起こす。
優里菜の顔が、全身の血が集まったかのように火照っていた顔がさらに赤くなり、込み上がってきた悲鳴をそのまま吐き出した。
「ーーっ!? っっ!!!??」
ものの、全身の筋肉痛がそれを許さず、声なき悲鳴となった。
「ごめん」
戸の背にして座り込んだ広輝から申し訳無さそうな謝罪が届くのだった。
美幸から優里菜への謝罪もあり、一応、事故ということで広輝は優里菜の許しを一応はもらえたものの、円の指導が広輝史上最強に苛烈を極めた。




