第十七話 堕ちた天子
ゴールデンウィークの連日投稿8/8日目。
三日後の朝、広輝は天宿で目を覚ます。
衣服は着替えさせられ、身体に血も付いていなかった。
広輝の頭はまだぼうっとしている。物事が判然としない。
美幸や幸穂が心配そうに広輝の様子を窺うが、その意味も広輝にはよくわからなかった。
しかし、脳内に酸素が行き渡り、段々と記憶が蘇ってくる。
悪夢のような光景……いや、悪夢ならまだよかった。現実にあった、血濡れた雪夜の光景。
心臓が強く脈打ち、瞳孔が開く。脂汗が止まらず、息苦しくなった。
『すまん』『千花をよろしくね』
「あ、ああ、ああああああああ!! ああああああああああああああああああああああああ!!!!」
現状を理解し始めると罪悪感に飲まれ、側に居た両親や仲間の声も聞こえなくなる。
異変を察知した円が姿を現すと、広輝はさらに取り乱し、過剰な心理的負荷と過呼吸で一度意識を失った。
その日の昼下がり、広輝は再び目を覚ます。
この時、傍で広輝を看ていたのは勇人と天守だった。
朝の様子から慎重に言葉を重ねるも広輝から応答が無い。
差し出された食べ物にも飲み物にも手を付けず、お手上げである。
故に、当時の状況を聞き出すことはせず、遺族と関係者の立ち入りも制限され、広輝のアクションを待つことになった。
この時の広輝は、壊れるか壊れないかの瀬戸際にいた。
あれを悪夢として処理することで現実から目を離し、見える世界を書き換え、錯覚の世界で生きていくのか。
記憶の忘却によって、自分が関わった実感無く生きていくのか、失った人たちをも忘れて生きていくのか。
または罪悪感に圧し潰されることで心を壊し、人形や狂人となり、罪悪感から逃避するのか。
どれもこれも有り得る話だった。
仮に今、心を壊さずにいたとしても、罪悪感に苛まれる日々が続く。何かの拍子に壊れないとも限らない。
だが、家族に、遺族に、仲間に対して誠実に向き合うのなら正気のままでいることが正しいと思える。
斬殺した場面を思い出せば「死ね」と自分に言って、美宙の遺言に引き戻される。その繰り返し。
広輝の心は、表情とは裏腹に、その天秤がぐらぐらと壊れそうなほど激しく揺れていた。
鬼が起こした事象であり事件だから広輝には関係ない?
そんな風に割り切れる少年ではなかった。割り切るにはあまりにも実感が有り過ぎた。
その心の葛藤は日が暮れるまで続いた。
……
…………
……………………
ーーーー
ーー
広輝は一つ確認することを決めた。
そのタイミングがちょうど、美幸が夕食を持ってきた時だった。
「千花はどこにいる?」
美幸はもちろん、広輝の隣に控えていた勇人も目を丸くして驚いた。
「広輝、良かった。」
「コウちゃん! 本当、よかった。あ、ご飯食べる?」
心配し、気遣ってくれる二人を押し退け、広輝は再度訊く。
「千花はどこ?」
二人は顔を見合わせ、困ったように悲しそうに眉をひそめた。
いずれは知ってしまうことだと、勇人が言い難そうに、重い口を開く。
「千花ちゃんはーー」
千花の容体を聞くと、広輝は飛び起き、部屋を出る。
「待て、広輝!」
勇人の制止も聞かず、一目散に千花の下へ。
廊下を走るなという言い付けを守りつつ、鬼気迫る表情で。
広輝は気づかなかったが、広輝が部屋を出たことで天宿が騒然とし始めた。
慧輔を始めとした実力者五名の死亡。依然として何が起こったのか全く不明な事件。
感情的に無理にでも広輝に状況を説明させようとする者がいる中、勇人や天守が防波堤になっていた。
そんな所に広輝が飛び出して行ったら、どうなるかは自明の理。
彼らにとって、求めに求めた情報源、話もできなかった唯一の生き残りが廊下を闊歩している。
聞き出そうと広輝に近づいていく。
勇人が制止した理由はこれだった。
「コウ! 待て、説明しろ!」「待てよ!」
肩を掴んで無理矢理振り向かせようとするも、広輝はそれを撥ね退ける。全く聞く耳持たず、千花のところへ向かう。
「は?」「おいこら、コウ!」
「ま、待ってくれ。もう少し」
「勇人さん、起き上がれるなら別でしょ?」「もう十分待ちました」
「もう少し、もう少しだけ、頼む」
勇人が必死に説得してくれている間もお構いなしに広輝は進む。
実際、後の広輝は彼らに話しかけられたことを覚えていない。
広輝の頭の中は勇人の言ったことが本当かどうか確かめる為、千花のことでいっぱいだった。
天宿から清天寮に移り、真白たちを無視し、階段を上がる。
開けた扉の向こうが、嘘であってほしいと儚い願いを抱きつつ。
「コウ……?」
「お兄ちゃん」
中には円と幸穂が居た。
二段ベッドの下にいる子を見守るように。
二人が驚いて固まっていると、広輝はベッドへと近づきーー
息を呑んだ。愕然とした。
かつて見た自分。
その状態がいかに困難であるか、身に沁みている。
勇人の言葉が真実だと知る。
『千花ちゃんは、事故の後のお前のようになっている』
千花は虚ろな目で、宙を見る。いや、何も見てはいない。映していても見てはいない。
外界の何にも反応しない。感情全てを殻に閉ざした虚ろの人形。現実逃避の成れの果て。
心を守る自己防衛の一つの形。
それを治す手段は、有るけど無い。
広輝に千花を取り戻す手段はなかった。
「コウ、一旦外で……別の場所で話そう」
円としても真実を知りたい。
何故、慧輔が死ななければならなかったのか、慧輔が何をしたのか、あの場所で何が起こったのか。
広輝から聞き出したい。
けれど、千花を前にした広輝は絶望に染まったように見えた。
廊下から真白や紅実たちが心配そうに覗き込んでいる。感情的な者たちを抑えてくれている声も微かに聞こえる。
話をするにしても落ち着ける場所が必要だった。
広輝の肩に手を置くも広輝はピクリとも動かない。
円はぐっと自分を抑え、広輝の再起動を待った。
虚ろな千花を前に広輝ができる事は無い。
広輝自身もそう思う。
ただ一つを除いて。
広輝に、碧い瞳の女の子と同じことは出来ない。彼女が広輝に灯した希望は無い。千花の希望は広輝が奪い去ってしまったのだから。
代わりに、広輝は心を燃やし尽くさんとする激情を知っている。
何もかもがどうでも良くなった後でも、点火したその火種。それを投げ込むことはできる。
『千花を、よろしくね』
その投下は、美宙の意思とは異なる。彼女がそういう意味で言ったのではないと理解している。
しかし、この千花に一体何が出来る。何をしてあげられる?
広輝は千花に虚ろな顔をして欲しくないと思う。
そのままでいたら、衰弱していってしまう。空白の時間を何年も過ごしてしまう。
だから決断する。
(ごめんなさい。みい姉)
瞼を閉じ、現実を現実として受け入れる。
全ては千花の為に。
たとえ千花から、円から、みんなから恨まれ、憎まれることになったとしても、どうしても千花をこのままにして置くことが出来なかった。
(みい姉が喜ぶ方法じゃないって分かってる)
広輝は感情を押し込み、心を鎖す。二度と出てこないように。
他人の感情に引き摺られないように、意志が揺るがないように。
全てを内なる方へ。
(だから、オレは今までと訣別します。美宙さん)
悲しみを閉じ込め、憎しみを含めた全ての感情を凍らせる。
罪を受け止めて自分の物にし、罪悪感を弾き飛ばす。
どこまでも冷徹になれ。
(お前は憎しみを受け止めるだけの、人形だ)
そうして広輝は一切を自身に封じた。
瞼を開け、光のない暗き眼で千花を見る。
「千花、よく聞け」
ゾクリ、と、円と幸穂の背中を冷たいものが駆け上がった。
広輝の声なのに、別人かと思うほどに冷たい声。
千花に反応はない。
「お前の姉、藤森美宙はーー」
「オレが殺した」
沈黙の波が部屋の外にも広がった。
広輝が放った言葉を円すら受け止めきれない。飲み込めない。意味を理解できない。
ただ、広輝の目論見は成功した。
千花が広輝を見た。
「………………え?」
「コウ、それはどういうことだ?」
広輝は円を無視し、千花へ話を続ける。
「もう一度言う。美宙さんは、オレが、この手で、心臓を突き刺して、殺した」
嘘では無い。間違いなく広輝は美宙を貫いた。
その場面を思い出し、閉ざした感情が出てきそうになった。そのせいで言葉が跡切れ跡切れになった。
もう一度固く封ずる。
「嘘、だよね」
「本当だ」
「なんで……どうして!?」
「……」
到底答えることができない問いだった。
広輝は踵を返し、部屋を出ようとする。
目的は達した。
「待て、コウ!」
円の制止は聞かない。いや誰の制止も、もう効かない。
「……ゆるさない」
そして投げ込まれた火種が黒い火を灯す。
広輝の背中に初撃が浴びせられる。
「赦さない、絶対に赦さないんだから!!」
広輝は足を止め、一度だけ千花を見た。
「元より、赦されるつもりはない」
「ーー!!」
千花の目に憎悪が宿ったのを見た。
「コウ、お前何でそんなーー」
「ああ、それと」
悪魔の決断をやりきるには徹底的にやらなければならない。
だから、円にも、廊下の仲間たちにも言葉の斧を振り下ろす。
誰もそんなこと望んでいないと知りながら。
虚実入り混じった、哀しい嘘を。
「他の人も同じですから」
***
堕天子のほとんどを話し終えると、時刻は零時を回っていた。
窓の外の星明りが降る雪夜の岳隠は変わらず美しく、冷たい静寂が夜空から落ちているようだ。
今、二人を邪魔するものは何も無い。
「その後、天守や円さん、一部の大人に真実を話して、オレが暴走で自分を見失って美宙さんや先生たちを殺したことにした」
それが広輝への復讐を誰も止めない理由。真実を知り、絶望と空しみを抱えて無反応の人形になるくらいなら、憎しみを宿してでも生きていてほしい。それが広輝の決断であり、天守や円が断腸の思いで飲み込んだ約束。
千花を取り戻す方法として悪手であることは理解していた。残酷と言われようと、真実を知った後に罵られようとも、あの場ですぐに出来る手段を広輝は取ったのだ。
長い話を優里菜は難しい表情で黙って聞いていた。口を挟むことも無く、喜怒哀楽で中断させることもなかった。
独白、もしくは懺悔のように話す広輝の方が感情がまだ声や表情に現れていた。
慧輔たちの話をする時は誇らしげに、家族や仲間の話は嬉しそうに、幸穂や千花の話は愛おしそうに、事件の話は胸を手で押さえながら辛苦と悲しみに耐えて。
「そこからは、ひたすら強くなることだけを考えて過ごした」
その理由を、広輝は話さない。
慧輔たちが守りたかったものを守ることが出来ない代わりに、滅する筈だった魔を討つと決めたからだと。
『もう二度と失わない』と心に決めたからだとも。
これは優里菜を遠ざける為だから。
「あの事件でオレは、師と仲間を殺し、ここに憎悪を蔓延させたんだ」
「…………」
「これが、オレが[堕天子]と呼ばれる理由だ」
広輝が話し終えると、静寂に包まれた。
優里菜は表情を変えずに口を開かない。質問も、意見も、確認もしない。罵倒も、同情も、憐憫も、悲怒もない。
俯くように机を見て動かない。
「…………話は終わりだ」
「ーーっ」
優里菜が勢いよく立ち上がった。
広輝はそれを当然だと思う。このまま外に出ていくか、そのまま布団に入るか。少なくとも距離を置かれるだろう。視線を窓の外へ移せば、話す前と変わらぬ美しさがそこにある。
しばらく眺めて眠ろう。そう思った時、柔らかい感触と石鹸の匂いに包まれた。
「ーーーー?」
何をされたのか分からなかった。
拒絶されると思っていた。いや、拒絶されることを心のどこかで望んでいて、そういう反応しか無いと決めつけていた。
だから、抱きしめられるなんて夢にも思っていなかったのだ。
「……なん、で……」
「わかんない、わかんないよ!」
優里菜の頬には、我慢に我慢を重ねた涙が伝っていた。
優里菜のリアクションは、未だ状況を飲み込めていない広輝の頭の上に?のマークを増やす。
「広輝くんに、何を言ったら良いのか分からない……」
話を聞き終えて、優里菜の心にあったのは悲哀だった。
一度の独断専行だが、それをしなかったところで結果は変わったのだろうか。意識があるままに自分の体で行われた、大切な人たちの殺戮が。
想像しただけで恐怖で震え、胸が痛い。とても耐えられる痛みではない。それを体験した広輝は想像を絶するほどの絶望を感じたに違いない。
千花への対応も広輝が彼女を大事に思っているからこそ。もしも自分が其処にいて同じような結論に至ったとして、嫌われ憎まれることを承知で、全員を敵に回せられただろうか。
『なんでそんなことしたの?』『なんで円さんたちと力を合わせなかったの?』
そういう詰問が浮かばなかった訳ではない。けれど、それを今更聞いたところで何も変わらない。広輝は淡々と理由を言うだろう。優里菜を遠ざけるような物言いで。
そして同情を示したところで、所詮は部外者。当事者ではない優里菜が何を言ったって広輝に届くことはない。
「だけどっ……軽蔑したわけじゃない。嫌いになったわけじゃない。ただ、敵じゃない。敵じゃないよって、それを伝えたくて……」
拒絶も忌避も嫌悪もしていない。
それを、理屈っぽくて、猜疑心に似た警戒心を持つ広輝にどうすれば伝えたらいいのか。
きっと、言葉では伝わらない。
「でも、伝え方がわからなくて……こうすれば伝わるかなって……」
その答えが行動、抱きしめるだった。
「だから、だから……っ」
優里菜は広輝を離さないよう、しっかりと、でも優しく腕に力を込める。
「…………」
その思いは、人肌の温かみと一緒に広輝へと伝わっていく。
優里菜の言っていることが嘘ではないとわかる。
心からそう思ってくれている。
広輝は観念して、優里菜に身体を預けた。
「ありがとう」




