第二話 温泉
天々館は温泉旅館である。
岳隠の峡谷に湧き出た温泉は、険しい山中を抜け、天々館へと辿り着く。
その泉質は、この国で最も多い透明無臭の単純温泉ではあるが、その肌触りは異様に柔らかい。その独特な感触を求めて全国各地の通がやってくる。特に夏と秋は一月以上前の予約が必須。冬は雪深い場所なこともあってか、夏秋ほどではないが、スキー客が多く、土日祝日はほぼ満室である。
この旅館の目玉は、その温泉をヒノキの浴槽で浸かりながら絶景を望む貸切露天風呂だ。限定五組しか味わえない贅沢である。解放感溢れる設計で麓の街を一望できる。夏の花火大会を見ることが出来、格別な思い出になるに違いない。そして、この旅館の温泉設備には特別な天術が施されており、完全な覗き防止が図られている。それを知らない者は、少しドキドキしながらその解放感を、知っている者は堂々とその温泉を満喫する。
もっとも、そんなレアな貸切露天風呂は三ヶ月以上前から予約でいっぱいであり、普通の利用客は大浴場へと足を運ぶ。
フロントを後にした二人が部屋に入ると、広い部屋の方に当たり前のように布団が並べて敷かれていた。すぐさま広輝はリュックを放り投げるように壁際に置くと、その布団の一組を一気に引き離す。襖を挟んだ部屋ではなく、窓際の広縁へ。それは敷かれていた布団から一番遠い場所だった。広輝はきっと広縁との間の障子も閉めるつもりだろう。暖房があると言っても、障子で遮ってしまったら極寒である。優里菜はなんとか広輝を宥め、布団を襖を跨いだ畳の部屋へ敷くことに成功した。
その後、大浴場には行かないという広輝にウンディーネの杯を預けて、優里菜は大浴場へと向かった。
紆余曲折を経て大浴場にたどり着き、"女"の暖簾を潜る。服を脱ぎながら自然に部屋での出来事を思い出す。せっかく畳の上に戻したが、帰れば広縁で蹲っているに違いない。呆れ通した溜め息をついて、優里菜は大浴場へと足を踏み入れた。
この時、二十三時を過ぎていたが、数人の先客がいた。屋内の浴槽に二人、外の露天風呂に二、三人の人影。
マナー通りに先に体を洗い終わると、タオルで長い髪を纏めて屋内の浴槽で少し温まる。温泉の柔らかさに感嘆してお湯を堪能した。その間に先客の内、二人が更衣室へと戻っていく。ほぼ貸し切り状態となると、楽しみにしていた露天風呂へ。
ガラガラと戸を開けると、冬の冷たい空気が優里菜に引き寄せられる。いつもなら肌を刺すような雪の味がする空気も今の優里菜には心地いい。満塁の期待を込めて、一歩二歩。露天風呂まで後三歩のところで、木製のベンチに腰掛ける短い茶髪の女性と目があった。何故かじーっと見つめられ、優里菜は少し冷静になる。凄くウキウキしていたのが子供っぽく思え、少し恥ずかしくなった。
「うん、やっぱりそうだ。月永優里菜さん?」
「え」
まさか岳隠まで来て自分を知る人と会うとは思ってもおらず、面食らう。そして内側から芯の強さが滲み出ているこの女性を思い出そうとするが、優里菜には心当たりがなかった。それどころか初めて会うタイプの人だった。
「えっと……」
「武蔵野麻美子と言えばわかるかしら」
「武蔵野……あ、[おかん]さん」
それは優里菜がオリバーに拉致された折、ゲーベルの居城を発見した女性の名前。優里菜を助け出すきっかけを生んだ人。天子協会の特殊任務執行部隊、通称[紅]の副長を務める女傑。紅の一人ひとりが一騎当千の強者ながら、性格に一癖二癖もある。その隊員を纏め上げるその器量は、彼女を[おかん]と呼ばしめた。
しかし独身である。彼女自身その二つ名には思うところがあるらしい。
「ーーふふ、やっぱりそっちの方が通りは良いわよね」
麻美子の表情に少し陰が落ちた。優里菜は彼女を[おかん]と呼ぶのは止めようと思った。
「その節は、本当にありがとうございました」
「私は水の巨龍を見つけただけよ」
優里菜がオリバーに向けて放った天術・水龍の牙。その術が巨大だったからこそ、遠くからも視認できた。麻美子たちはその城間近まで接近せず、ゲーベルに検知されずに済んだ。
見つけただけと謙遜する麻美子に優里菜は重ねてお礼を言おうとしたが「それより」と言葉を遮られる。
麻美子は温泉を指差す。
「温泉、入りに来たんでしょ?」
麻美子は風呂の中を横断し、入り口から一番遠い場所に移動する。縁にタオルを置き、温泉に体を沈めると空を仰いだ。
視界を空だけにするにはここがベストポジションである。
「今日はあいにくの天気だけど、晴れてると満天の星が見れるのよ」
「そうなんですね」
優里菜も麻美子に倣って空を見上げるも、暗い雲が星も月も隠していた。
雪が舞っていればもっと趣もあったが、今はもう止んでいる。それでも雪の中の温泉は、優里菜にとって十分に新鮮な光景だった。心も体も十分に休息できそうだった。
他愛のない会話を繰り返す。「いくつ?」「色は?」「趣味は?」等々。
やがて二人の共通の知人の話に移っていく。
「あの子が指導役なんだっけ。大変でしょ、色々と」
「ええと、まあ」
あの子が広輝の事を言っているのだとすぐに分かった。
冷静沈着で人を寄せ付けない気難しい性格。人によっては冷酷だと断じられるほど。同年代の友人のように冗談を言い合うことも笑い合うこともない。仲間というカテゴリーの中でも、厳しい先生・先輩に似たような人。更に基本的に最低限の義務を果たすが、面倒事を嫌い、回避しようとする。
しかし、一度決めたことは不本意でも最後までやり遂げる。自分なりの覚悟と信念を持った芯の通った人。それが優里菜の広輝に対する評価だった。
「でも、ちゃんと教えてもらっています。力の使い方も、戦い方も、天子の在り方も」
優里菜は広輝を自慢する訳ではなかったが、少なくとも誇らしくはあった。指導役と生徒という上下関係はあってもパートナーであることが。広輝の旧知に広輝がきちんとやっていることを話せることが。
それを麻美子は嘲笑した。
「ふーん……それは本当に正しいのかしら。[堕天子]の教えなんか」
「ーーどういう、意味ですか」
温泉で火照りそうだった思考が一気に冷めていく。思ってもみなかったのだ。広輝の依頼で協力を申し出た人が、彼を侮蔑するなんて。
「[仲間殺しの堕天子]。その教えも仲間殺し用なんじゃない?」
「そんなこと」
「だって[月永]に剣術なんて教える? 普通。私ならその天力の活かし方を教えるわよ」
「それはーー」
「将来、接近戦が苦手な身内をあなたに殺させるんじゃないの?」
「…………」
説明しようとする優里菜を畳み掛けるように麻美子は中傷を重ねる。
中途半端な弁護は麻美子に油を注ぐだけ。優里菜は一旦口を閉じた。
麻美子に水鮮花のことは言えない。彼女が言う通り、名家の天子へは武術より天術を教えるのがセオリー。その上で堕天子の汚名を少しでも返上し、広輝の名誉を守る為の言葉を。麻美子が納得するだけの弁明を。
否、麻美子が納得する必要はないのかもしれない。彼女の考えを改めるだけの論理を持ち得ない。どこまでも平行線を辿るだろう。その代わり、どんなに麻美子が広輝を蔑もうとしても優里菜自身が揺らぐことはないのだと断言はできる。
「私は、私は堕天子の真実を知りません」
「あら、そうだったの? あの子はねーー」
「ですが!」
麻美子を遮る。
胸に手を当て、教えられたことを思い出す。
それは天子としての誇りと矜持。力ある者としての戒め。
「彼は言います。大事なのは力の使い方であり、この力は守る為の力だと。決して傷つける為の力ではないのだと」
口だけではないことを広輝は証明する、その背中で。
「それを証明するように私を助けてくれました。愛紗ちゃんを救いました」
優里菜は知っている。
彼は、血に胡座をかく月永を敬遠し、偏見を疎み、人間性を見る事を。
彼は、一匹狼かと思えば、目的の為ならば嫌いを使うことも辞さない人だと。
彼は、他人との関わりが下手くそでも、弱きを助け強きを挫く行動ができる人だと言う事を。
だからたとえ広輝の旧知だろうと、そこまで言われる謂れは無かった。
「月永の教えと一致、それの体現。私には広輝くんを信用しない理由がありません!」
力強く断言する。
広輝に教えを請うている者として、二度助けられた者として、彼に対する最大限の責務であるかのように。
優里菜の迫力に麻美子は呆気に取られた。優里菜の真剣な表情が、純真な碧い瞳が、そのまま広輝を表しているようにも見えた。
それが何だかおかしくなって、口に手を当てて顔を背けた。
「――――ふふ、ふふふ」
「私、何かおかしいこと言いましたか」
「いいえ、全く。あの子が信頼を置く理由が解ったわ」
再び優里菜に目を合わせた麻美子は、今まで人を侮蔑してたとは思えないほど柔らかい笑みを浮かべていた。
「ごめんなさいね。少し試させてもらったわ」
眉を八の字にして優里菜に謝ると、浴槽の縁に置いてあったタオルを取って立ち上がる。
「お詫びに一つ忠告」
複雑な顔で見上げてくる優里菜に、紅の副長は土産を一つ置いていく。
「もしも、もしもその真実って言うものがあったとして、たとえそこに同情の余地があったとしても、あの子を許しては駄目よ」
「どうしてですか」
「どうしてでしょうね」
麻美子は答えない。知っていたら、自身の心を無視して広輝の為にそうしてしまいそうだから。
「お邪魔したわね。この温泉、本当にお肌に良いからゆっくりしていきなさい」
優里菜の視線を受けながら麻美子は露天風呂を後にする。温まった身体には冬夜の冷気が心地いい。いつもならさっきのようにベンチで一息つくが、今回はしなかった。
湯気で見えなくなった優里菜を一瞥し、ドアを開ける。ドアに付いた小さな車輪の転がる音が、誰もいない浴場に響いた。
「まあ、だからこそ突き放そうとしているのでしょうね」
***
何も考えずにゆったりと温泉に浸かる。事はできなかったが、柔らかな温泉で体の芯まで温まり、誰も居なくなった温泉を後にする。
浴衣と半纏に身を包み、大浴場の傍にあるマッサージチェアなどが並ぶ娯楽スペースに出てから数十分。
優里菜は迷子になっていた。
「どうしよう……」
日付が変わりそうになっても、未だに娯楽スペースをうろうろしていた。このままでは湯冷めしそうである。
携帯は部屋に置いてきており、広輝と連絡が取れない。
従業員の姿はなく、浴場を出た時に居た二、三人の宿泊客も自室へ帰っていた。
大浴場へは不思議と辿り着くことができた。けれど、帰りはまるで道がわからなかった。一度、それらしき廊下を歩いていったが、関係者以外立入禁止の扉に立ち塞がれた。娯楽スペースに戻る間にもいくつも広間が並ぶ場所に出てしまう。その後何とかここまで戻ってきたので、他の道にも二の足を踏んでいる。
深夜に右往左往する姿は不審者にも見える。
「どうしました?」
いつから居たのか、中学生くらいの女の子が優里菜に声をかけてきた。
長い髪を後ろで一房にまとめ、優里菜と同じ柄の浴衣と半纏、一見宿泊客に見えるのだが、その声がけは通りすがりの困った人に掛けるのではなく、店員の声掛けに近かった。だから店員に頼るように、困り事を吐露したのだが。
「えっと、帰り道が分からなくて……」
「何号室ですか?」
「205号室です」
少女は慣れた様子で、優里菜から部屋を聞き出す。仲居顔負けである。
早速案内を始めようと、部屋への順路に手を出そうとした。
「205ならこちら……205?」
部屋の番号を聞いた少女の雰囲気が一変。
怨敵を見つけたかのような、底冷えするドス黒い氷気が集まる。しかしそれは一瞬で終わった。
ほんの僅かな時間、値踏みするような冷めた目で優里菜を見る。
「……(そういうこと)」
「えっと」
「すみません、こちらです」
少女は戸惑う優里菜に構うことなく、何事もなかったように案内を始めた。少女から優しさの親切さは無くなり、事務的な対応に変わる。
浴場と反対側の廊下を行き、二つの角を曲がると客室が並ぶ廊下に出る。その左側に見覚えのある階段があった。
少女は振り返ると、右手を階段に差し出す。口調は丁寧だが、営業スマイルもない、無表情で。
「この階段を登って頂いて右手を行くと着きますよ」
「ありがとうございます。助かりました」
優里菜は深々と頭を下げた。
この少女の態度の変化が誰に起因しているのか、もう理解している。彼の失点を少しでも抑える為の最大限の礼節を心掛けた。
「いえ。ごゆっくりお過ごしください」
抑揚のないマニュアル通りの台詞を優里菜の背中へ向けて言うのだった。




