プロローグ 悪夢と決心
源子――宿した力は幸福か厄難か。それは本人にしか知り得ない事である。
***
逃げた。
逃げて逃げて逃げていた。
雪に覆われた暗い森を走り続けている。
あの生暖かい血の光景から。白を赤で染め上げる鮮血の地獄から。
血の雪の上に沈むいくつもの遺体。首を失くした体、上半身を斜めにぱっかり開いた体、胴から離れた半身、もぞり出る内蔵、転がる四肢にこちらをじっと見てくる生首。
それらから逃げる。
凍った表面を踏み抜き、赤い足跡を残しながら。雪に滑り、木の根に躓き、咄嗟に地面についた手の跡すらも真っ赤に残る。その赤に戸惑うことも躊躇することもなく、すぐに立ち上がって再び走り始める。
全力疾走だ。
気温は氷点下を切って久しい。露出する肌は冷気に凍え、肺に入ってくる空気が気管を刺すが、吐き出す息が喉を焼く。体内は熱く、服の下から汗が吹き出ていた。
全力で森を抜ける。どこに繋がっているかもわからない。どこまで逃げればいいのかもわからない。
それでも止まることはない。
止まったら、殺されるから。
振り返ることもしない。
そんな余裕はない。
大事な人たちだった。世話になった人たちだった。
死した彼らを前に、湧き上がったのは憤慨や悲痛ではなく恐怖。
怖かったのだ。
話さなくなり、虚ろな目を向けてくる彼らが。血塗られた自分が。
その事実を遠ざけるように走り続ける。
真夜中の森を。白夜の森を。
どこまでもどこまでも。
その先に見えた森の出口。車のライトにも似た人工的な光が見える。
そこに向かって力を絞り出す。浅くなった呼吸を繰り返し、腕を精一杯振って、霜柱のような雪を踏みしめて。
最後の力を振り絞った先に待っていたのは、あの地獄だった。
「ーーなん、で」
一直線に走ったはずだった。木を避けたり、躓いたりして角度が多少ずれたとしても、戻ってくる事はないはずだった。
意味不明の事態に足を止める。肩が上下し、血の味のする息が白く吐き出た。
「やっと追いついた」
「ひっ」
女の声に尻餅をついた、血の海に。
いつの間にか来た方を向いていた。刀を肩に担いだ女の方を。
「その罪悪感から解放してやるよ」
見知った女の顔が後ろに纏めた髪をゆらゆらと揺らしながら、にやりと嗤う。
女は刀を逆手に持ち変える。
「だから、死ね」
女は高く跳び上がった。その頂点で柄を両手で握る。そのまま串刺しにするつもりらしい。
殺される。心臓を掴まれた感覚だった。
コツンと右手に何かが当たる。とっさにそれを掴んだ。それが何かは身に染みていた。
だから突き出してしまった。殺される恐怖に勝てなかった。もう二度としたくないのに。
ーーなのに。
落下してくる女は微笑っていた。握りしめたはずの刀を捨てて、両腕を大きく広げて。
突き出した刀に女の胸が突き刺さった。
「っがは!?」
布団がひっくり返るほど勢いよく飛び起きた。
詰まっていた呼吸が再開し、吐き出すように二酸化炭素を放出していく。
「はあはあ、っはあ、はあ」
頭に酸素が行き渡り始め、現状を取り戻していく。
常備灯のおかげで橙色に薄暗い部屋。周りの様子はすぐに確認できた。
見慣れているはずの白い壁、紺色のカーテン。早朝食用のコンビニのオニギリ三つとペットボトルのお茶。空気循環用の羽なし扇風機と先々月購入した電気ストーブ。
予約設定したエアコンが部屋を暖めており、冬の朝でも寒くない。
紛うことなく自分の部屋だった。
すると枕元でスマートフォンが震えた。今頃になって目覚ましのアラームが鳴る。
完全に状況を把握し、気怠そうにアラームを止めた。
何度見たか分からない悪夢。潜在意識では罪から逃げたいと思っているからか、微妙に脚色された記憶
真冬だというのにシャツもシーツも汗びっしょりだった。
全く起きる気分にならなかったが、覚悟が体を動かしていく。
時刻は午前五時。
三が日を終えた一月の朝。
今日も広輝の一日が始まった。
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『ああ、憎いね。天術士は俺の家族を殺した! だから、死ね』
奪われたことを知り、対立を知り、怨嗟を悟り、憎しみに生きた青年。
彼を見て、憎しみで生きることが痛いことだと知った。
いずれ真実を教えるつもりでいた。
まだ、早いのかもしれない。
耐えられないかもしれない。
でも、手遅れになる前に。
たとえ、苦しみが待ち受けていようとも。
一つ、心に決めたんだ。
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