第十八話 風凰神社 奥宮
優里菜は気が付くと全く別の世界にいた。
碧色の光に囲まれたかと思ったら、次の瞬間には全く見覚えのない場所だった。
「なに、ここ……?」
床・地面はある。鈍い白色が大きな絨毯のように一直線に広がり、その先には床が一段だけ高くなっていた。何かがあったかのような円形の床には何もない。
この白い床以外は何もなかった。どこまでも黒が続く異空間。まるで星のない宇宙に放り出されたようだった。
息はできる。目も見える。声も通り、普通に立っていられた。白い床から踏み外したらどうなるかは不明だが。
今すぐにどうにかなる空間ではないと確認できた時、金属が床に落ちた音がした。反響音はなく、ここが限りなく広いことが分かる。
振り向くと広輝が太刀を手放して両膝を付いていた。右手も床に付き、背中を屈め、左手を握りしめるように胸を抑えている。
「広輝くん!」
弱みを見せることが少ない広輝が、敵の前で膝をつく。明らかに異常だった。
優里菜は広輝の近くにいるクルスを天術で牽制。クルスは舌打ちしながら躱し、ギレーヌへ合流した。
「大丈夫!?」
優里菜も膝を折って、広輝の顔を覗く。
広輝の呼吸は荒く、汗の量も尋常ではない。顔色は青を通り越して蒼白。唇は震え、時折息を呑む音が生々しく聞こえる。
優里菜は広輝の額に手を当てるも熱はなく、唇は赤いまま。発熱では無さそうだが、原因が分からなかった。
(なんだ、これは?)
原因が分からないのは、広輝自身も同じだった。
風凰神社に着いた時から始まった焦燥感。拝殿に近づくにつれて、不安が爆発しそうなくらいに広がり、拝殿を通り抜けると不安と同じくらいの恐怖心が内側から湧き上がってきた。
そして、この場所に転移すると、圧倒的トラウマに遭遇したかのような恐怖と戦慄。身体が震え上がり、必死で保ってきた身体の制御も効かなくなった。優里菜に応えることもできない。
訳が分からなかった。意味が分からなかった。
広輝はこの場所を知らない。風凰神社には来た覚えがない。秋宮にだって行った記憶はなかった。
それにも関わらず、恐怖が広輝を内側から呑み込んで来る。
理解が及ばなかった。
ギレーヌとクルスは広輝たちを一瞥すると、周りの様子を窺いながら円形の台座へ向かう。
「……見事に何も無いわね」
「ここに風神がいるんじゃないのか?」
「そのはずなのだけど」
ギレーヌは一段の台座に登ると、愛紗の手を引いて台座の中央へ。
どこまでも広がる黒の空間。それは見上げても同じだった。
ギレーヌは目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。元の世界とは違う雰囲気をもっと正確に感じ取る。
自分と同じような力の感じでもなければ、天力のような不快感もない。けれど、異質と言うには近しい感覚だった。
「ーー魔力でも天力でもないわね」
「天魔力か?」
「……愛紗、どう?」
ギレーヌは瞼を開けて愛紗に聞き、愛紗は頷いた。
天魔力を内包する愛紗が、この力を天魔力だというのなら間違いないだろう。
ギレーヌは自分の考察が当たっていたことを確信する。
「予想どおりね」
「なら風神は」
「ええ」
ギレーヌは何かをあざ笑うかのように、含みを持った笑みで考察を口にする。
「人によって作られた神。人工神と呼ぶべきかしら……人によって造られ、人によって封印された、哀れな神様」
魔力も天力も、世界の理から生まれくる力。しかし、天魔力は違う。互いを浄め、侵し合う力は自然に混ざり合うことなど無い。ギレーヌのように人の力を介在させない限り、生まれることの無い力。
その力が此処に在る。
「ふふ、いいえ。強大すぎて、人々に恐れられから、祀られた、究極の魔道人形かしら」
誰が造ったかは不明だが、制御が効かずに暴走し、破壊もできずに封印という方法を取った当時の人々。
人工神も哀れだが、人もまた愚か。
ギレーヌは人間の愚かさが、大昔から変わっていないことに冷笑した。
「それで、どうする? 風神はここにはないみたいだが」
「そうね」
ギレーヌは右手を顎に当てて、しばし思考する。
(長い年月が、人形を風化させてしまったのかしら。それなら鳴神神社も同じね)
人工神の降臨、あわよくば愛紗に宿らせて保有できればと思っていたが、出来ないものは仕方がない。
「ここの力を貰って帰りましょうか」
ギレーヌは懐から透明な宝石を取り出し、宝石を中心にして右手の上で手の平よりも少し大きな魔法陣を展開する。
その紋様は天宿の屋上でクルスが展開した魔法陣と同じ。陣内に書かれた文字が少し異なった。
その魔法陣に呼応するように、宙に光り輝くものが現れた。太陽の光のように輝く小粒のそれは、透明な宝石に吸収されていく。一度に現れる光の数は数個ほどで多くないが、宝石に吸収されると別の光の粒が現れた。
順調に天魔力を吸収していると、やかましい声がギレーヌたちの耳に届いた。
「ちょっと、広輝くん!?」
優里菜に動かれようと問題はなかったが、広輝なら話は別。彼はギレーヌの結界を斬ってみせた。
ギレーヌが振り返った時、防衛用に張っていた結界に広輝の太刀が衝突。
広輝の斬撃は結界を斬るに値しなかった。そればかりか、具合が悪そうなのが一目瞭然だった。
「まだ顔が白いわよ。大人しくしていたら?」
結界越しにも、広輝の顔に多量の汗を確認できる。纏う天力も全く洗練されていない。廃病院で見た広輝とはまるで別人だった。
それでも広輝は引かない。気迫だけは冷戦沈着な堕天子とは程遠く、鬼気迫るものがあった。
「愛紗を解放しろ。もうお前達の復讐に巻き込むな」
一度、結界を滑らせるように太刀を振り切り、もう一度斬りかかる。その太刀筋は結界を斬るよりも当たっただけに見えるほど、弱々しく感じられた。
「…………」
ギレーヌたちが罪人だからではなさそうだった。広輝が戦っているのは。
愛紗を救う為。広輝が巻き込まれていると思っている女の子を救う為。無関係な幼い命を救う為。
広輝には愛紗に入れ込むだけの何かがある。
ギレーヌは、押せば倒れそうな広輝のその根底を崩そうとした。
「この子はね、私の家族を、息子と夫を殺した天術士の娘」
愛紗は決して無関係ではないのだとギレーヌは言う。
それに広輝は動揺しなかった。否、動揺する余裕がない。代わりに後ろの優里菜が悲痛と驚きを浮かべた。クルスの語った愛紗の生い立ちが、真っ赤な嘘だと知る。
「ふふ。いい意趣返しだと思わない?」
夫を炎で焼き殺し、息子に凶刃を見舞わせた天子の子供。
ギレーヌが復讐を果たした時、家の奥で安らかに眠っていた子供。
自分の家族を、子供を奪っておいて、家庭を築き、子供を育んでいた事実。
ギレーヌは、赦すことなど到底できることではなかった。
『死しても尚、子供で贖え』。それが終わらない復讐の始まりだった。
「だからーー」
広輝の思いは、愛紗とギレーヌの関係性を知っても、変わりはしなかった。
さっきより遠くに退き、全てを練り直す。
構えを。天力を。体の隅々に神経を行き渡らせる。
「それに愛紗を巻き込むなと、言っている!」
上段から振り下ろす一刀。
先の一太刀よりも洗練されてはいたが、ギレーヌは結界を破るには値しないと判断し、天魔力の吸収を続けた。
代わりにクルスが、広輝の横をつくように距離を詰める。
「邪魔をするな!」
衝撃の魔術が広輝を吹き飛ばす。疾風の速さもなく、原因不明の不調の今は、クルスの魔術を広輝に避けられるものではなかった。
辛うじて受け身を取り、体勢を整える。広輝はクルスに臆することはない。
「そこをどけ」
「貴様には分かるまい。奪われた者の気持ちなど」
譲らないのはクルスも同じだった。
「奪った側の貴様に! 堕天子の貴様には!!」
クルスも復讐の炎を宿している。
なぜ奪われた側の自分たちが理不尽を強いられなければならないのかと。
なぜ奪った奴らがのうのうと生きているのかと。
なぜ奪った奴らに裁きが下されないのだと。
加速の魔術を行使し、広輝との距離を一気に詰める。まるで広輝の戦い方のように。
「俺が、俺たちが天術士に裁きを下す」
左手で減速を使い、広輝の動きを封じる。
「そして思い知れ! 己らの愚かさを!」
右手で衝撃の魔術を、もう一度広輝に叩き込んだ。
「ぐっ」
衝撃の魔術を食らった直後は、低速で足が地面から離れていったが、減速の魔術が切れると一気に白い床の端まで追いやられる。
此処に転移する前とは逆の戦いが繰り広げられた。
一方。
「水の衝撃!」
優里菜はギレーヌの結界の突破を試みていた。
広輝が何らかの不調で、万全の状態ではなくても、クルスとの戦いに入れるほど優里菜の白兵戦の技能は高くない。
それならばと、もう一度ギレーヌの結界破り、愛紗を助けようとしていたが、ギレーヌの結界が割れる気配はなかった。
「それでは壊せないわよ。さっきは石碑に触れてほしくて、貴女でも壊せる程度に強度を下げていただけだから」
ギレーヌの言葉に強がりは見えなかった。
今、優里菜が繰り出せる天術の中で、効きそうな天術は一つしか無い。
優里菜の天術が勝てば、愛紗を巻き込んでしまいそうなことが大きな懸念だったが、結界をどうにかしないことには始まらない。
優里菜は腹をくくる。結界が破れる瞬間を逃さないように注意深く、龍を解き放つ。
「……大いなる水流をここに」
始まりの詠唱は同じ。水龍は、この天術から派生したのだから。
優里菜はあの時、ギレーヌがそこから動きそうになかったから普通に最大威力の天術を撃とうとしていた。けれど、自分でも驚いたくらい天力の放出と収束が今までと段違いだったので、切り替えた。即興で天術を作り、ギレーヌへ撃っていた。
「懲りない子ね。だからーー」
ギレーヌは溜め息をつきそうだった。また同じ攻撃が来るのかと思ったから。けれど、天に昇る水柱を見て認識を変える。
水玉に集まる天力も水量も尋常ではなく、黒色の空に建つ水柱の頂上が見えない。
「汝、我が命に従いて、大いなる神獣へと昇華する。天を翔け、水を支配し、神々なる身体を与えられた神獣なり」
水柱が鱗を帯びていく。上空には胴を捻り、空を泳ぐ龍の姿。
「鋭く閃くその牙を持って、我を阻む障壁を打ち破れ」
ギレーヌは目が合った気がした。魂無き、その水龍と。
ギレーヌの背筋が凍る。直感が危険だと言っている。
「水龍の牙」
ギレーヌは愛紗の手を離し、水龍へ左手を掲げる。右手は天魔力を集めたまま。
「私は守る」
手を掲げた不可視の結界の先に、小さな花が咲く。紅梅色の花がギレーヌたちを守るように、次々と。
「守り抜く」
花群の後ろに大きな花が咲く。四つの花弁を大きく開いた純真の白き花。
降り来る龍を二種の花が迎え待つ。
圧倒的水量を持つ龍が紅梅色の花群に激突した。
薄紅色の花弁が、飛び散る水飛沫の中に舞う。
「っ!」
想像以上の衝撃にギレーヌは半歩下がった。
花の結界に余分の魔力も回す。
(堕ちても月永は月永ね)
小さな花群の結界は食い破られ、白い花の結界に届いた。
結界へ予定以上の魔力を回したことで、右手の魔術が魔力不足で切れる。ギレーヌは宝石を握りしめ、左手に集中した。
このままであれば耐えきれるとギレーヌは確信する。威力を増しても、まだ結界はもう一枚ある。
ギレーヌは次の思考に入る。即ち優里菜がどう動くか。
広輝に比べ、戦闘経験が少なさそうな優里菜が取る行動は。彼女には不完全な結界を破った記憶がある。
(でも、同じパターンはダメよ)
間違ってたとしても、ギレーヌは優里菜の一手先にいる。問題はないと判断。
ギレーヌは新たな魔術を行使する。
「反射」
白い花の後ろに六角形の結界を展開。角度を調整し、白い花の結界を切った。
水龍は六角の魔術にぶつかり、跳ね返る。優里菜がいた方向へ。
「!?」
ギレーヌの予想は的中。
花の結界ではなく、不可視の結界を破ろうと、右手に小さな水玉を装備した優里菜がギレーヌに接近していた。
優里菜は左へ跳び、躱そうとするが避けきれない。左手で天術を展開し、受け流した。
「水守!」
直撃を免れたものの、勢いを殺しきれない。水流に弾き飛ばされ、白い床の領空から出てしまった。
内臓が縮み込む。身体が固くなる。終わりの見えない黒の奈落が下に見える。必死に手を伸ばすが、僅かに足りない。脳が絶望を悟った。
が、それは優里菜の杞憂に終わった。
足の裏から床の感触が返ってくる。
伸ばした手を床に付け、転ばずに何とか持ちこたえた。
「良かったわね、床で。違ったら奈落の底だったのに」
その通りだと、優里菜は思った。ギレーヌに完全同意である。
全身から汗がドッと吹き出る。心臓もその輪郭が感じ取れるくらいに大きく早く脈動していた。遅れ来る落下の恐怖と足が付いた安堵感は、少しの間だけ今の状況を優里菜から忘れさせた。
跳ね返された水流を弾いてから床に足がつくまでの、一秒にも満たない時間がずっと長い時間に感じられた。
白い道を横目に見ると、優里菜の生み出した水が黒い領域まで一面に広がっていた。
優里菜は深呼吸を一つ置いて、崩れた姿勢を整える。そして再び、ギレーヌに対峙する。
ギレーヌは、まだ戦う気でいる優里菜に疑問を覚える。
奥の手らしき天術は防ぎ、跳ね返した。それでもまだ、ギレーヌに勝とうとしていることが分からない。広輝とクルスの決着を待つか、援護に移りそうなものだった。
「あなた今、何の為に戦っているの?」
些細な疑問だった。ギレーヌにとっては返答がなくても、今すぐに中断されても構わないくらいに。
「……え?」
「ここに風神はなかった。天魔力も回収できたからこの街を去るわ。もうこの街に、あなたに危害は加えない」
この言葉に嘘はなかった。
中断はしたが、天魔力も十分に回収できていた。この人間の体外にある天魔力を研究できれば、愛紗という媒体も不要になる。
だから、ここでの戦いに意味がないと優里菜へ告げる。
「それでもあなたは戦うの?」
答えに詰まった優里菜はクルスと戦っている広輝に一度目をやり、ギレーヌもそれに倣う。
「彼は愛紗に入れ込んでるみたいだからね。理由は知らないけれど。でも、あなたには無いでしょ?」
「……」
「私が奪った命の為? 天術士としての義務感? それとも他に戦う理由があるのかしら」
それはあの喫茶店でギレーヌが広輝と優里菜に投げかけた質問と酷似していた。
何の為に天力を使うのか。それ即ち、何の為に戦うのか。
優里菜は再び、力在る者としての信念を問われた。
「私は……私は、いつだって守る為に戦います」
優里菜の脳裏には、やはり両親の言葉が過ぎっていた。口酸っぱく、何度も何度も刷り込まれるように言い聞かせられた言葉が。
「家族、友達、仲間。貴女を止めることで誰かを守ることになるのなら」
この街には居ない誰かを。再び彼女に"実験"を行わせて、誰かの命が奪われることになるのなら。
「私は、全力で貴女を止めます」
心を定め、優里菜はギレーヌにきちんと向き合う。力ある碧眼に顔を歪めていくギレーヌが映った。
ギレーヌの美しい顔がみるみる変わっていく。
優里菜の言葉がギレーヌの傷に触れてしまった。
ギレーヌの記憶が蘇る。夫と子供を殺された時の天子の表情を。
ギレーヌは思い出す。夫と子供を殺した天子に復讐した時に言われた言葉を。
『ふざけるな。俺はいつだって、守る為にこの天力を使ってーー』
「傲慢ね。あなた、何も失ったことがないわね」
最期まで命乞いをせず、自分の潔白をギレーヌに訴え続けた殺人者。
優里菜はその男と全く同じ科白を言った。
ギレーヌの心は「ふざけるな」一色だった。「理解らせなければ判別できまい」と。
自らの正義の為なら、誰かを犯すことが許されるのか。
ギレーヌの中の炎が轟々と燃えてゆく。幸せだった思い出と絶望の記憶が交互にフラッシュバックし、理性を復讐の炎が燃やし尽くす。
「誰かのため? 皆を守る? 誰かって誰よ!?」
「?!」
「その誰かの為に、あなたたちは人を殺すの!? その力を使って! 人のものを奪うの!?」
完全に感情のコントロールを失い、ヒステリーを起こしていた。
その様子を愛紗が心配そうに見上げていた。
「(……)」
その愛紗にギレーヌは気づくことができない。
ギレーヌは右手の宝石を左手に移し、憤怒の感情のまま右手に"収集"の魔術を展開した。
「その傲慢が私を生み、自分たちに振り下ろされた刃と知ればいいわ!」
その魔術を愛紗の背中へ押し付けた。
「愛紗ちゃん!」
愛紗の周りに光の粒が出現し、愛紗へ急速に集まっていく。宝石に集めていた時とは数も速度も比較にならなかった。
声なき悲鳴が響き渡る。
優里菜は水の衝撃で結界を破ろうとするが、びくともしない。
「愛紗、纏いなさい!」
ギレーヌが命令すると愛紗が光りに包まれ、徐々に膨れ上がる。愛紗の影が見えなくなると一気に膨張。
異空間が白き闇に満たされた。




