第六話 三月十四日
本年度最後の終業式が終わってから任務へ直行した。
道中で着替えと昼食を済ませて、下り電車に乗っておよそ三十分、そこからタクシーで二十分。
午後二時過ぎに、廃寺に出現した討滅対象の妖魔の捜索を開始した。
ちなみに広輝は、この任務を優里菜に強制していない。むしろ他のメンバーと遂行しようとしていた。それをどこから聞きつけたのか、優里菜が黄色でも行けると知るや否や自己推薦してきたのだ。広輝が終業式の日だからと、わざわざ知らせなかったというのに、気遣いが台無しである。
今回の討滅対象は、幻術と変化の術を使う化け狸を三体。狸は日本の妖魔らしく、猪鹿蝶に化けるらしい。そして、幻術を使ってギャンブルの夢に引き込み、財布の中身を全て賽銭箱に投げ入れさせるという、なんとも人間味がある狸だ。
これになんと優里菜が、三体集まっているところに早速遭遇し、狸が化けたところを速攻で倒してしまった。
二人は依頼人へ報告し、午後四時前に帰路についたのだった。
広輝の想定では、調査書に擬態も上手いとあった為、日入り後に鳴上の駅で下車するはずだった。かなりの早巻きだ。
鳴上駅に到着すると、空が赤く染まり始め、空気が冷たくなっていた。
夕暮れ時に二人は、徒歩で天宿に向かう。通信技術が発達した今でも、天宿で任務完了を報告して終わるのが、未だ残る天子協会の習わしだった。ちなみにタクシーを使わないのは広輝の案である。
駅に向かう学生たちを横目にしながら、少ない会話を交わしつつ天宿を目指す。普段着ないようなジャンルの服に着替えているとは言え、ここは二人の地元。その声からもバレる可能性がある。帽子と伊達メガネ、優里菜は髪型も変えて、一般人が"裏側"に気づくきっかけを与えないように努めていた。
大通りから一本外れ、天宿に近づくにつれて、だんだんと車も人も少なくなってくる。車がすれ違うには、少し難しい道を歩く。
前を歩く広輝はタイミングを見計らい、周りに人がいないことを確認すると、おもむろにリュックサックを体の前に回し、左手でファスナーを少し開けた。そこに手を突っ込み、きれいな小袋を手に掴む。
そして、並んでいた最後の家を通り過ぎた時、端っこに雪が残る田んぼの向こうで茜色の空が広がった時、広輝は優里菜の横に並ぶ。
その小袋をリュックから取り出し、不思議そうに見てくる優里菜に差し出すのだった。
「ホワイトデー。バレンタインのお返し」
「! ありがとう!」
夕焼けを水面に映す双神湖を背景に、優里菜の顔に花が咲く。その瞬間を待っていた蕾が花開いたように。
優里菜は両手でその小袋を受け取り、すぐには小袋を開けずに胸の前で大事に包み込む。
瞼を閉じて、噛みしめるように喜びに浸っていた。
「中身は、ちょっと良いハンカチ」
「え」
「え?」
優里菜が目を開いて、固まった。
広輝は失敗を悟り、静かに尋ねた。
「……ダメだったか」
「え、えっと……」
優里菜は言おうか言わないか逡巡した後に、言いにくそうにその意味を広輝に教える。
「ハンカチって"手巾"って書くから縁を切るって意味があるらしくて」
「ーー本当に?」
「うん」
広輝の中で失敗が確信に変わる。
広輝の表情は、いつものようにそんなに変化はない。ただ、長耳の動物が耳を倒しているみたいにも見えた。広輝の右腕が僅かに動く。渡したばかりの、縁起の悪いハンカチを返してもらう為だ。
しかし、優里菜は半歩引いて、広輝の手を避ける。
「それは、わr」
「でも良かった」
優里菜は先程と変わらない笑みを浮かべる。
「なんで」
「広輝くん、意味知らなかったんでしょ? それなら純粋に選んでくれたってことだから」
良かったと思う反面、広輝の胸がチクリと痛む。
"知らなかったから"と言って、失礼に当たらない訳ではない。場面においては、むしろ知らないことの方が常識・調査不足を露呈させ、そちらの方が印象を悪くするケースもある。
それでも優里菜は、善意を信じて受け取ったのだ。
広輝の心が、ほんの僅かだけ軽くなる。とは言え、広輝の口から出てくるのは、申し訳なさそうなお礼だった。
「ありがとう」
これには優里菜は言葉では返さず、微笑みながら頷く。優里菜は「帰ってから開けるね」と言って、小袋をバッグに大事にしまう。ファスナーを閉め、再び天宿に向かって歩き出した。
双神湖が見える田んぼの区間が終わり、再び住宅が並び、二人は住宅の影に入る。ここまで来れば、天宿はすぐそこだ。もう一度曲がれば、屋敷の塀が見える。
広輝は、その角を曲がる前に一つ優里菜に尋ねた。
「ところで、今週の土曜日、空いてるか?」
「うん。何かあるの?」
「買い物に付き合ってほしい。円さんの誕生日プレゼント」
「いいよ」
何気ない誘いの会話。
何気ない休日の約束。
なんでもない日常のやりとり。
至って普通のこと。
そういう普通のことができるくらいには、二人の心は回復していた。
年末に愛紗という大切な存在を失い、悲しみの中にいた二人。特に広輝は、悲嘆を心に押し込めて、後悔の日々を過ごしていた。
そんな日々に並行して、この国の異能の世界では、強行派の影を恐れ、組織の垣根を超えての連携を見せている。
どんなに辛いことがあっても、どんなに大変なことが起こったとしても、日々は過ぎていく。
けれど、日常はここにある。
非日常の隣に、裏側に。
確かにここにあるのだ。
「……また連絡する」
「うん、わかった」
空を茜色に染めていた太陽は山々に隠れ始め、紺色の空がやってくる。
***
太陽がまだ空にあり、地上に残った雪を解かしていた頃。
とある館の一間。天井は高く、シャンデリアが吊るされ、大きなガラス張りの壁のむこうに青い空と街並みが一望できる。壁には大きな洋画が掛けられ、気品溢れる小物が並ぶ。床には臙脂色を基調とした文様が描かれた絨毯。濃い紫色の椅子が、テーブルを囲って四脚用意されていた。
その椅子に座るのは、対面に座る二名のみ。
下座には、黒灰色のスーツを着た大柄な初老に差し掛かりそうな男。鍛え上げられた筋肉がスーツを押し上げている。逆立った黒の短髪に堀の深い目元と年齢を重ねた目尻。その黒眼には往年培われた眼力が備わっていた。
その男が目を伏せて、頭を下げる。
「改めて、ここまで遥々、お越し頂いてありがとうございます」
彼は、天子協会において天位:黒を賜っている一人であり、特殊任務執行部隊の隊長を務める武永将弦である。
彼の斜め後ろには副長の武蔵野麻美子が控えており、彼女もまた将弦と同じように頭を下げた。
彼らが最大限の礼儀をもって応対する人物。正しくそれを必要とする貴賓。
「ソリアス穏健派、ティルミス・ハーチェン殿」
将弦の対面で微笑む、金色の長い髪を持つ美女。鼻立ち高く、シュッとした輪郭。きれいな顔立ちで、一際目を引く青い瞳。翠色のドレスが彼女の透き通るような白い肌とスラリと伸びる手足を魅力的に際立たせる。
ソリアスに残る三派の中の一つ、穏健派のトップに立った重鎮である。
「初めて来ましたガ、とてもヨイ国デスネ。人は親切で、皆さん整然としていて、街も自然も素晴らしいデス」
「恐縮です」
両手を広げ、初来日の感想を楽しそうに述べる彼女。そこには裏の意図など無く、少女のような無邪気さを覗わせる。
そんな彼女のメイクは完璧に施され、相手にその年齢を誤解させる。
[金糸]の異名が世界に広がったのは、三十年前の天魔大戦。天子協会と魔術協会が衝突していた一つの戦場を、その力で制圧してみせたのだ。まだ子供だった彼女が。
そして、天子も魔術師も所属するソリアスという組織において、派閥のトップは清純では務まらない。きちんと、清濁併せ呑んできている。
金糸の天使ーー改め、金糸の天女の銘こそ、ティルミス・ハーチェンに相応しい。
ティルミスからすっと笑みが消える。口角が下がり、下がっていた眉尻が水平になる。細い目から覗く青い瞳が将弦に向かう。
「デモ、いるんデスネ? 切り落とした癌の残党ガ」
「はい。今は、そのしっぽを監視しています」
「ワカリマシタ。私たちも協力させてほしいところデスガ、気づかれては台無しデス。一網打尽にするというその作戦、上手くいくことを祈ってイマス」
ティルミスは、テーブルの上にあるティーカップに手を伸ばす。金色の装飾がなされた白いソーサラーとカップを口元に持ってきて、その香りを楽しんでから口に含んだ。目を見開いて驚き、その味に満足の笑みを浮かべる。「おいしいデス。淹れた人、腕がいいデスネ」と言えば、麻美子が感謝を述べ、二人の間に会話の花が咲いた。
女性同士の会話に割り込むという無粋を将弦は犯さない。彼の体格と比較すると子供サイズに見えてしまうティーカップで、麻美子が準備した紅茶を黙って静かに飲むのだった。
黒子に徹したのは将弦だけではない。最初から一言も発さず、気配を抑えて、ずっとティルミスの側仕えをしていた褐色の肌の彼女もだ。
黒のレディスーツをビシッと着こなし、黒髪を後ろで結び、直立不動の彼女は、ティルミスの護衛である。もっとも、主な仕事は身体警備よりもスケジュール管理のようなマネージャー的な仕事が多いようだが。屋外で掛けていたサングラスは、今は外され、その紫色の瞳が顕になっていた。
その彼女が、ティルミスと麻美子の会話が一区切りついたところで、初めて口を開いた。
「一つ質問をよろしいでしょうか。ティルミス様」
「ドウゾ」
「ありがとうございます」
あらかじめ打ち合わせしていたようなやりとりの後、彼女はティルミスの隣に並ぶ。
「はじめまして。武永将弦殿、武蔵野麻美子殿。私の名前は、アネラス・エクスフォード。ご縁があり、今はティルミス様の護衛をさせてもらっています」
ソリアスの人間がその姓を名乗ると、誰もがその関係をどうしても邪推する。そして、丁寧に補足があれば、邪推でなかったことが確定する。
かつての強硬派のトップであり、ソリアスの盟主だったウィクリフ・エクスフォードとの関係が。
そして、一人の少年を知る将弦と麻美子の脳裏には、もう一人の名前が浮かんでいた。
「強硬派の残党とは、愚弟のことではありませんよね?」
おおよそ二年前。鳴上に猛威を振るったオリバー・エクスフォード。[雷鬼(オーガ)]と呼ばれ恐れられた、歴戦の傭兵。アネラスは彼の実姉である。
「そういう情報は入っていません。彼の消息は、二年前の鳴上支部の一件で途絶えています」
「わかりました。ありがとうございます」
堕天子との一戦の後、オリバーの姿を見たものはいない。崩壊した城に巻き込まれ、死亡したとの説もあるが、オリバーの遺体はついぞ発見に至らなかった。現場には肉体の一部すら無く、残っていたのは、瓦礫に染み付いた大量の血痕だけだった。
それ故に、どこかで生き延びているというのが、専らの噂である。
弟の手がかりを確認したアネラスを、ティルミスが冗談交じりにイジる。
「心配性なお姉さんデスネ」
「違います。はた迷惑なバカな弟を一発ぶん殴りたいだけです。ダグラス様からも、見つけたらぶん殴れと言われていますので。二発分」
「フフフ」
ティルミスはしたり気な笑みを浮かべて、新たに注がれた紅茶を飲み、満足そうに頷くいた
主と従者の関係ながら、二人の間にはそれ以上の関係が見える。
アネラスの父、ウィクリフ・エクスフォードは、その咎めにより極刑に処されている。事態の重さから強硬派幹部も親族も同様であり、娘のアネラスが生き残っているのは奇跡である。巡り合わせという他無いほどに。
「ところで、私の方で宿泊場所を手配させて頂いていますが、いかがなさいますか」
「どうしましょうカ、アネラス。少し時間もあるようですし、旅行でも行きます?」
「さすがに不謹慎かと。旅行なら終わってからできます」
「ソウデスネ。では、ありがたく使わせていただきマス」
「かしこまりました」
麻美子は華麗に一礼。その後、備え付けの電話から内線をかけるのだった。