第十三話 囚われの者
「……ん」
ぽおっと瞼の向こうが明るくなるのを感じて、優里菜は目を覚ました。
優里菜の目に映ったのは見慣れない石造りの天井。石造りには似合わない教室にあるような蛍光灯が二灯で一セットのものが吊られているが、点灯はしていない。カーテンが無い窓から雨空の明りが部屋を薄暗いながらも光を入れる。「今日は雨か」と覚醒しきらない頭は呑気だ。優里菜は視線と首を振って周りを見渡す。家具は優里菜が寝ているベッドに背の高い本棚が二つに木製の四角いテーブルと椅子が一セットだけ。本棚に本は少なく、端の本が倒れている段がある。それから雨音を鳴らす窓と重厚そうな金属の扉。優里菜はそこまで確認してようやく体を起こす。
体がいつもより重い。自分のベッドではなく、知らないベッドで寝ていたからだろうと、まだまだ呑気だ。
ベッドの上から窓の外を眺める。この建物の周りに木々が植えられているのか、木々の幹ばかりが並び、向こう側が見えない。この部屋よりも高く育った木々が、雨で薄暗い光を更に遮ってこの部屋は余計に暗かった。風はそんなに強くないのか、雨は窓を叩きつけるようなことをしない。窓をガタガタと揺らすこともない。優里菜は静かな雨音に耳を傾けながら、ゴールデンウィークの前半は雨が続くと天気予報が言っていたことを思い出す。
「そういえば何でここにいるんだっけ。そもそもここはどこだ」とようやく頭が回り始めた時、重厚な扉が不快な音を立てて開けられた。不快な音で優里菜の頭が急速に覚醒していく。そして、扉の向こうから現れた人物で優里菜は完全に覚醒した。薄暗い部屋の中、明確に視認できたわけではないが、それでもその存在感が優里菜を覚醒させた。
「起きていたか」
優里菜はベッドから飛び降り、窓の側へ。
見慣れない場所とオリバー・エクスフォード、意識を失う最後の記憶。攫われたのだと悟る。オリバーの目的を思い出し、胸元の感触を確かめたが、杯は既に奪われていた。
脱出の可否を確かめる為、窓の外を伺う。優里菜の目測でこの部屋は三階くらいの高。飛び降りれない高さではなく、幸い樹木も近い。窓から外に出れば逃げれないことはない。目の前のオリバーから逃げ切ることができればの話だが。
「そう殺気立つな。どうせ俺から逃げられまい。大人しく飯を食え」
そう言ってオリバーは、片手に乗せていたトレイをテーブルに置き、蛍光灯にぶら下がった紐を引いて明かりを点けた。
人工の光と温かくほのかに甘い匂いが部屋に満ちていく。
「人形が作った飯だが、思いの外うまいぞ。パンは市販品だがな」
言うとオリバーはテーブルから離れ、腕を組んで壁にもたれかかる。
オリバーが持ってきた食事はバターロール二個にコーンスープ。レタスのサラダとベーコンエッグに牛乳だった。
美味しそうな食事に優里菜のお腹が刺激される。あれから何日後の朝か分からないが、少なくとも一食は抜いていた。朝だとわかったのは、朝食の定番のようなメニューだったから。もしも違ったら毎食これなのだろう。
それに敵に食べろと言われて、出されたものをそのまま食べる優里菜でもない。毒や薬が入っているかもしれない。慎重にならざるを得なかった。
ただ、それよりも気になったのは、
「人形、が……?」
人形が料理をしたということ。料理が好きな優里菜は、どこまで人形ができてしまうのか気になってしまった。けれど、それもすぐに吹き飛ぶ。
「お前たちと戦ったのが戦闘用だとすれば、掃除や洗濯、料理用の人形がこの城にいる。中々面白いぞ」
戦闘用。優里菜の脳裏に炎の光景が再び蘇る。炎の熱射が肌を焼き、燃え盛る音が鼓膜を揺らし、焼け落ちる不快な音が鼻を焦がした、赤の光景。その赤色の中を奔ったオリバー・エクスフォード。残念ながら、無事なはずがない。
「みんなは、天宿はどうなったんですか!」
「知らん」
「そんなーー」
優里菜の叫びをオリバーは一蹴した。
「知らんものは知らん。お前を連れ去った後のことなど、どうやって知る」
早々に気絶した優里菜は、広輝の善戦も月永の相乗天術も知らない。事の顛末を全て話すと面倒そうだったので、オリバーは知らぬ存ぜぬを通した。オリバーが天宿に止めを刺したから、どうなったかも想像はつくが。
優里菜は何もできなかった無力感と心配するしかない悔しさに身を震わせる。こうして生き延びているとは言え、それはオリバーの目的が優里菜の拉致だったからに他ならない。全力だったのなら容赦なく、雷だけではなく大剣も合わせて優里菜を両断しただろう。
あの雷と火炎の映像が優里菜の頭の中を流れる最中、一緒にいたもう一人の天子を思い出す。
「………広輝くん、広輝くんはどうしたんですか」
兄の隆也は優里菜の隣りにいた。優里菜は恐らく自分と同じ結果になったと推測した。だが、広輝はまだ倒れていなかった。自分たちよりも高い位置にいる広輝ならば、と思ったが現実はそうあまくない。
「倒した。生きているとは思うがな」
一瞬、心臓を締め付けられたが、生存の言葉に少しホッとした。オリバーが五体満足でここにいることが、広輝は敗北した証左。願わくば大怪我をしていないことだった。オリバー一人と魔導人形たちによって、どれほどの被害を受けたのか。最悪は想像もしたくなかった。
「あいつについては俺も聞きたい。何者だ、あいつは」
オリバーが問う。広輝の素性を。
「俺と同じかそれ以上の剣術と体捌き。あの歳でどうやれば辿り着く?」
「どういう意味ですか?」
優里菜は「辿り着く」の意味を理解できなかった。歳が若くても子供でも、強い者は強い。その才能を発揮して、次代を期待される。才能は辿り着くものではなく、生まれ持ったものだ。だから優里菜は聞き返していた。
しかしオリバーはそうではないと言う。
「俺の剣に付いてこれる子供は、決まってその剣から才能を感じた」
オリバーは数多の戦場を経験し、オリバーよりも年若くとも剣や天術でオリバーに匹敵する者がいることを知っている。戦っている時はそれに気付くことはないが、戦い終わって、思い出せば感じるものがある。オリバーを倒そうとしているのか、抑えるのが目的なのか。憎しみで戦っているのか、使命で戦っているのか。その力が才能だけか、積み重ねたものか、その両方か。
「…………」
優里菜はオリバーの言いたいことが分かった気がした。広輝がそうではないから、オリバーに匹敵する子供に感じるはずのものを広輝には感じなかったから、「広輝は何者」だと聞いたのだ。
神童、天才、俊才、歳に見合わない力量を持った子供が呼ばれるであろう異名。オリバー自身も最初は神童と呼ばれた。それが鬼才に変わり、果てには化物に変わった。しかしオリバーが持つ情報では、広輝はどれとも呼ばれることなく、突如として[堕天子]と謳われる。それまで誰も彼に特別を覚えず、事件をきっかけに[堕天子]と呼ばれ続け、使われ続けている。事件だけが原因ならば、彼を嫌厭し、遠ざけ、関わらないようにするだろう。それをしないことが、天子協会が悪名を差し引いても十分なリターンがあるとしている証拠。オリバーは事件で広輝の才能が開花し、その才能が天子協会に買われているのだと思っていた。
「久下広輝の剣は、身体に叩き込んだ修錬の剣だった」
その才能を楽しみに対峙した広輝から伝わって来たのは才能などでなく、濃密に押し込んで積み重ねられた連綿の剣。子供には時が足りず、辿り着けるはずがない剣。
ただ、オリバーを傷つけた最後の剣だけはよく分からなかった。
オリバーは今それについて考えても仕方ないと、一旦話を切る。
「まあいい。とにかく飯を食え。ゲーベル、俺の雇い主にお前が目を覚ましたら連れてこいと言われている」
「…………」
しかし優里菜はテーブルの食事を凝視しながらも動かない。
オリバーには優里菜が何を考えているか分からないが、自分が捕まった時を思い出し、心配したことを思い返す。そしてオリバーも食事に毒が盛られてると考え、限界まで水にも手を出さなかったことを思い出す。
「お前に毒や薬を盛るつもりなら眠っている間にしている」
「…………はい」
オリバーの予想は当たったようだ。優里菜が小さく返事をした。捕まってしまった動揺と仲間の心配で高ぶった心はひとまず落ち着きを取り戻したようだ。
オリバーはもたれかかった壁から背中を離す。部屋を出ようとドアノブに手をのばすが、優里菜に釘を指しておくことにした。
「先に行っておくぞ。この城の外には外に出られない迷いの結界と外から入ってこないように人払いの結界が張られている」
オリバー自身、ゲーベルの道標がなければ、一人でこの城に辿り着けないだろう。
「逃げても無駄、だと」
「戦闘にしか能のない天子は特にな」
そう言い残してオリバーは、扉の不快な音とともに部屋を出る。人に見られての食事はしずらいだろうとの、オリバーにしては珍しい気遣いだった。
一人になった部屋で、脱走を考えるもすぐに止めた。魔導人形を使役する魔術師が相手だ。オリバーの言う結界が嘘だとしても、警備用の人形は居るだろうし、オリバーから逃げ切れる自信もない。優里菜はゲーベルに会うことに決めた。どんな思惑であんなことをしたのか問い質し、そして[杯]を取り返さなければならない。
優里菜は食事が置かれたテーブルに付く。並べられた料理は人が作ったかのように温かみを覚えた。目を瞑り、両手を合わせて「いただきます」。食前の挨拶を終えると、添えられたスプーンを手に取り、冷めてしまったコーンスープの薄膜を破っていった。
食事を終えると、オリバーが人型の人形を連れてきた。人形に「ごちそうさまでした」「おいしかった」と言っても残念ながら何も反応はなかった。オリバーによるとこの人形は配膳用の人形らしく、そもそも言う相手が違うらしい。料理用の人形に言ったとしてもリアクションは無いらしいが。掃除用の人形は事務的にトレイを持ち上げ、淡々と部屋から去っていった。
優里菜はオリバーの案内に従って、魔術師ゲーベルの元へ向かう。オリバーが城と言うだけあって廊下は広い。優里菜がいた部屋と違い、廊下はランプによって明かりが保たれてる。いかにも西洋の古城らしい。優里菜がいた部屋はこの城の中でも狭い部屋らしい。動かす人形の数を減らす為、極力部屋の数を絞っているようだ。オリバーの部屋も優里菜の部屋よりも少し広い程度だと言う。
道中に[杯]の場所を聞くと、思った通り既にゲーベルの手元らしい。[杯]を取り戻すにはゲーベルの元に行かなくてはならない。
いくつかの角を曲がり、階段を上ると広場らしき場所に出た。
優里菜の目に飛び込んできたのは視界いっぱいの高山の緑だった。優里菜の部屋からは幹しか見えなかった木々が眼下から眼前に広がっている。山間に建てられたこの城からは村も街も見えず、どこまでも深緑。雨空は見上げなければ目に映らないほどに。その空からの雨は城の広場に建つ神殿を彷彿させる建物へも降り注ぐ。その建物の入口から優里菜たちが広場に出た扉まで、屋根の付いた通路が伸びている。
オリバーはその道を通り、疑似神殿へ歩いていく。屋根のおかげで黒く濡れていない床が嫌に白く見えた。
五メートルほどの大きな扉。深い青色に鈍い金色の装飾がされた厳粛な印象を受ける扉だ。その扉をオリバーは両手で押し開ける。金属を引きずり、重そうな音が擬似神殿内に反響し、中の空間の広さを伝えてくる。
優里菜は立派な外観と扉からこの内部も荘厳な造りで、神々しい台座でもあるのだと思っていた。
けれどオリバーが開ききった扉の先にあったものは、ただただ広い空間と台座と思わしき、一メートルほどの石柱だけだった。いくつかの窓から雨空ながら光を採り入れ、その光は不思議なことに全てその石柱に集中していた。その石柱の傍らに誰か一人立っている。
「連れてきたぞ、ゲーベル」
「うむ、ご苦労じゃった」
オリバーに答えるのはローブに身を包んだ老人の男。フードは被っておらず、老化による白髪にギョロリとした薄緑の眼が特徴的だった。腰は曲がっていないが、優里菜よりも背が低い。
オリバーが押し開いた扉は勝手に閉じていった。ガコンと何か嵌る音を立てて扉が閉まりきる。
「ふむ、お主がウンディーネの末裔か。碧眼がよく出ておる」
ゲーベルがその零れ落ちそうな眼球で優里菜の碧眼を覗き込む。ゲーベルにその気は無いが、その研究対象への興味と関心の表情は相手に不気味さを与える。
優里菜の顔は引きつり、思わず半歩下がる。けれどゲーベルの眼から目をそらすことができなかった。ホラー映画を見た時、恐怖でゾッとするのに目を離せなくなるように。
ゲーベルは満足したのか、優里菜から目を離す。石柱に手を添え、背を向けて天を仰ぐ。
「これで[鍵]と[証]が揃った。後は陣を整えて時を待つだけじゃ」
ゲーベルが手を添えた石柱の上に[ウンディーネの杯]があった。首に下げるためのチェーンは外され、指輪だけになっていた。
今すぐにでも取り返したいが、ぐっと堪える。側にオリバーがいて、仮に[杯]を持って城からの脱走に成功しても、逃げ切れない。そうなれば今よりも自由がなくなって、逃げ出さないように拘束されるかもしれない。今は下手な行動を控え、情報収集に徹する。
「貴方は何をするつもりなんですか」
オリバーが[杯]を奪って何をするつもりなのか、天宿は全く見当がついていなかったように思う。少なくとも優里菜の耳には入っていなかった。[杯]は碧眼の月永でなければ活用の仕様がない。精々、精霊の持ち物だと嘯いて売り払うくらいだ。
優里菜の問いに、ゲーベルが仰いでいた首をぐるりと回し、目一杯見開いた眼で優里菜を凝視する。それは人間ができる動きではあったが、まるで映画に出てくるようなゾンビだ。短い悲鳴を上げたくなるような気持ち悪さだった。
ゲーベルは優里菜が本当に聞く気があるのか確かめていたのだろう。今度は人間らしい動きで首を元に戻し、のっそりと振り返る。
そして想像もし得ない話をし始める。
「精霊界への扉を開く」
「精霊界への、扉……?」
ゲーベルの話は優里菜の斜め上を行った。故に優里菜にとって突拍子もない話で、その話の枠を捉えるのも精一杯である。
「そうじゃ。そしてその扉を通って精霊界へ行く」
「精霊界があったとして、何をするつもりですか」
優里菜は[杯]の存在から、精霊の存在は否定しない。しかし、精霊が何処に存在するのかは優里菜も知らない。月永には伝わっているかも知れないが、少なくとも優里菜は知らなかった。
「何も」
「え?」
「今は精霊界で何かをするつもりはない。今必要なのは精霊界の実証じゃ」
優里菜にはゲーベルの意図が理解できなかった。精霊界で何かを為すために扉を開くのではなく、精霊界の存在を確かめることを重要視するゲーベルの意図が。
「その後を考える魔術師は他におる。精霊で何かしようとする者はソリアスにもおったからの。儂は其奴らに情報を開示する」
「売って、その後どうするんですか」
「新たな研究をする。お主の言うように行った後のことを考えても良いしの。その為の場は、儂の情報を受け取った奴に用意させる。其奴らは儂をぞんざいには扱うまい」
話がなんとなく見えてきたように思えたが、ゲーベルがわざわざ情報を売る理由がわからない。今だって、こうやって研究に没頭しているのではないか、と。ただの顕示欲だろうか。
「今の環境では不十分なのですか」
「……おお、そうか。自己紹介がまだだったの」
ゲーベルは優里菜の察しの悪さにイラッとするが、自身の素性を明かしていないことを思い出した。小さく咳払いを一つおき、胸を張って自らの名を優里菜に名乗る。
「儂はゲーベル。ゲーベル・ルシュルド。神秘の解明者たる[ソリアス]の、強硬派の魔術師じゃ」
「ソリアス……強行派!」
情勢に疎い優里菜でも、その悪名は知っていた。
研究機関ソリアスは、"神秘の解明"を理念に掲げ、各地の伝説、伝承、不可思議を調査し、世界のブラックボックスを次々と明るみしていった。ソリアスのメンバーは、ソリアス以外の人間から見ると正に知識欲の権化。その最たる者たちが強硬派だった。強硬派は、"解明"の過程において、現地の慣習も、不可侵の制約も、人間も含めたあらゆる命も顧みず、"解明"の名の下に数々の実験を繰り返した。やがて彼らは強行派と呼ばれ、ソリアスの中でも嫌厭され、ついにはその身を追われた。強硬派の大半は捕まり、処断され、相応の刑罰を受けた。しかし、その追っ手から逃げ切った者も少なくない。
このゲーベルのように。
「じゃから、未だに日陰者なのじゃよ。こんな極東の地にいるのもそのせいじゃ」
ソリアスの本部は南欧ギリシャ。欧州から見れば、日本は地の果てである。むしろ良くここまで逃げ切れたものだと感心する。
「それなりの人物に売ることができれば、今よりはましに研究できるじゃろうよ」
優里菜はゲーベルの目的を理解した。
ゲーベルの最終目的は、追っ手に怯えることなく、ゲーベルが今よりも存分に研究に没頭できる環境の構築にある。その為には、力ある者に匿ってもらうことが近道だとゲーベルは考えた。しかし、追われの身であるゲーベルを匿うことは、リスクになる。だからゲーベルは、そのリスクを負うだけの手土産を用意しようとしているのだ。
それが精霊界の実証というゲーベルの研究成果だった
「その為に私が必要だと?」
「そうじゃ。お主とこの鍵をもって、精霊界への扉、精霊門を開く」
『鍵』。ゲーベルが指し示しているのは、石柱の上にある[ウンディーネの杯]だった。
「自分たちが精霊の末裔だと謳う者は多くおったが、どいつもこいつも精霊を使役できるだけで子孫などではなかった」
[精霊魔術]と呼ばれる魔術がある。世界を構成する四元素、地水火風の中に存在すると言われている精霊を使役する魔術である。精霊魔術の術師には精霊の声が聞こえ、術師はその精霊たちに力を借りて魔術を行使しているという。しかし、精霊魔術師以外には精霊の声は聞こえないので、地水火風の四属性の魔術を行使しているようにしか見えない。なので、他の魔術師からは眉唾と言われることも少なくなかった。
ゲーベルはそんな精霊魔術師たちに接触を図り、調査・研究を行った。今、ゲーベルがぼやいたように、自分が精霊の末裔だと主張する者が精霊魔術師の中にいたが、事実は"精霊の声が聞こえる"という体質を持つだけだった。この調査を止めようとした時、強硬派がソリアスから追われる。半ば諦めで[精霊界]は眉唾だと、ゲーベルが結論づけようとした時、ゲーベルの耳に月永の噂が届いた。東の果ての国に、水精の末裔を謳う、天術士の一族が在ると。
それまでゲーベルが調べたのは魔術師のみ。今までの条件から外れたその情報にゲーベルは興味を抱き、研究を再開した。
月永を調べ、鳴上を調べ、陽本を調べ、伝承を遡った。
調査の中で、月永には碧眼の娘が産まれることを知る。碧眼の月永が特別視されていることも。ゲーベルは特別視される理由を調べた。月永内部の記録を見ることは難しく、代わりに目をつけたのは戦争の記録。天魔大戦と呼ばれる天子と魔術師による泥沼の戦争。そこに碧眼の月永が参戦していた。
そして、仮説を立てるまでに至った。
「じゃが、お主ら[月永]は違う。正当血統者として精霊の遺物を継承し、精霊の血を色濃く受け継いだ者は精霊との同調能力を持ち、その証が眼に現れる」
「同調、能力?」
「自覚は無いようじゃの」
優里菜は精霊の存在を感じたことがなかった。天術をただ天術として行使しているだけだと思っている。けれど、ゲーベルの言葉には確信があった。優里菜には否定する知識も、疑問を挟む知識もない。今のゲーベルは、月永よりも月永に詳しいかもしれない。
「お主が鈍感なのか、まだ知覚できないのか。しかしそれでいいのかも知れんの、戦いしか興味のない天術士には」
天術士。魔術師が天子を呼ぶ時に使う呼称だ。魔術師にとって、彼らが自らを天子と呼ぶことが気に食わなかった。
魔術師は、長年の学問の積み重ねと研鑽を経てようやく[魔術]という異能を得る。それを彼らは生まれ持った才能のみで[天術]という異能を扱う。発現までに魔術師たちのような積み重ねが無い。しかも彼らは、自然を操る力を天から与えられた才能とし、この才能を持つ者は皆一様に[天子]と称した。この選民思想も魔術師たちは気に入らない。何が才能だ、何が天の子供か、と。天術を扱う彼らは主に悪霊・妖魔の浄化を生業とした。魔術師から見ると彼らは、天術を深めることも教導するこのもない。戦うしか能のない、ただ天術を扱う者。故に[師]ではなく[士]を使い、侮蔑と皮肉を込めて[天術士]と呼ぶようになった。
ただ残念なのは、魔術師は皮肉を含んで[天術士]と呼ぶが、ほとんどの天子たちが魔術師と棲み分けができていいと全く気にしなかったこと。また、ただの別称と捉え、皮肉にすら気づかないということだった。
そして優里菜は、陽本と月永の内部抗争というややこしい事情を抱えた天宿に属してしまったことが遠因となり、魔術師の事情について詳しく教わっていないので知らない。つまり、皮肉が通じず、[天術士]は[天子]の別称としか思っていなかった。嫌味を言われたが、なぜ『戦いしか興味のない』と言われるのかが分からない。優里菜は少しムッとするも、よくわからないので、そのまま流した。
ゲーベルは優里菜に[天術士]の皮肉が通じていないとわかると、心の中で舌打ちする。優里菜は何も知らない馬鹿だと。
その様子を面白おかしく見ていたのがオリバーだ。オリバーはソリアス出身かつ傭兵として様々な人間を見てきた為、天子と魔術師の確執について心得ている。ソリアスの派閥内ですら、天子と魔術師の衝突はあった。その常識と思っていたことが、目の前の優里菜には伝わらない。この国では陰陽師なる東洋の魔術師よりも天子の方が幅を利かせてるから、無理もないかと一人納得する。雇い主であるゲーベルがいなかったら、声に出して笑っていたかもしれない。
ゲーベルは「まあよい」と、優里菜の無知を隅に置く。そんなことよりやってもらわなければならない事があった。
「明後日、新月の夜。精霊門を開けさえすれば、お主は元の場所に返す。それまでは力を貸してくれんかの」
なので、命令による強制ではなく、交渉による協力を持ちかける。今の優里菜はほぼ軟禁状態だが、まだ心が弱っていない。命令で渋々動くこともないとの判断だった。
「あんな事をしたあなた方に協力しろと」
ゲーベルの推測は正しく、優里菜は敵意に近い嫌悪感丸出し。交渉のテーブルに乗ろうともしない。
ゲーベルとしては、優里菜の心を折ってから強制的に従わせる事も視野に入れていたが、優里菜の拉致の時期を遅らせたことで今は時間がない。優里菜のような人物を追い詰めるには、ただでさえ骨が折れる。
「……そう言えば、詳しく聞いておらんかったの。何をしてきた、オリバー」
故に、交渉という名の脅迫に舵を切る。
「天宿の結界を破って、天宿を焼いて、預かった人形を全召喚。骨のあるやつは俺が相手をして、碧眼の娘を攫った」
オリバーはゲーベルの質問に端的に答える。詳しく語るならば、隆平や広輝、玲菜たちの話があるが、その報告はしない。優里菜を刺激しない為というような理由ではなく、藪蛇にならないようにと思ってのことだった。ゲーベルもオリバーがオーダー通りの仕事をしたので、この件について興味を持っていない。
「ほう。月永の天宿の結界を力ずくで破ったのか。して、天術士たちは? 殺したのか?」
「知らん。殺しが目的ではなかったから確かめていない。死んでるかもしれんし、生きているかもしれん」
オリバーの言っていることは事実で、オリバーは誰の生死も確認してきていない。
ゲーベルも「そうかそうか」と右手を顎に添えて、満足そうにうなずく。オリバーが鳴上支部の天子たちに対し、生死がわからない程の被害を与えてきたということだからだ。
「さて、月永優里菜よ」
この結果を踏まえて、ゲーベルは再び優里菜に問う。
「この剛剣が生き残りに再び降りかかるとしても、力を貸してくれんのかの?」
「あ、あなたは……」
優里菜は天宿の人的被害を知らない。けれど、赤炎の光景は脳裏に焼き付いている。あれを再び起こさせる訳にはいかない。協力すれば新たな被害を抑えられる。加えてゲーベルの言を信じるならば、四精霊のバランスが整い、世界に還元される。しかし、心は拒否していた。人道を顧みない外道の魔術師に協力することを。
沈黙する優里菜に対して、ゲーベルは最後の一押しをする。秩序を重んじ、清廉な姫が何を心配しているかは容易に想像がつく。それを取り除けば良いだけのこと。
「協力するなら、オリバーを出撃させないと約束しよう」
だからゲーベルは誰も傷つけないと約束する。ゲーベルは全ての材料を集め終えている為、この約束に何一つデメリットがなかった。もしも優里菜が協力を拒否するならば、目の前でオリバーに鳴上に向かうオーダーを出せば良い。生き残りがどこにいるかは知らないが、適当に暴れてもらえばそれで良かった。
この約束は口先だけのものかもしれない。都合が悪くなれば破るかもしれない。それでも優里菜はこの条件を飲まざるをえなかった。
「…………わかり、ました。」
優里菜は苦虫を噛み潰すようにゲーベルへの協力を了承する。頭では理解している。これがベターな選択だと。けれど、心は決して納得していなかった。
「よろしい」
ゲーベルは優里菜の協力を取り付けると、石柱に手をかざし、魔術を起動させる。
「まずはこの魔法陣をお主の水で満たしてもらうかの」
石柱から浅黄色に光る線が神殿の床を四方に走った。その電流のような線が消えると、浅黄色の光と共に魔法陣が浮かび上がる。神殿の床いっぱいに描かれた魔法陣は数秒の閃きの後、別の形で現れた。
神殿が、城が音を立てて地震に遭っているかのように揺れ動く。地響きに混じり、石床に凹む部分が現れる。その凹みは決して無秩序なものではなく、幾何学的。否、魔術的だった。
「これは…………」
地響きが止むと、浅葱色に輝いていた魔法陣が今度は石の路となって出現した。
雨空による暗さのせいか、それとも凹みの深さのせいか、魔法陣を描く石の路の底を見ることはできなかった。
「これが精霊門を顕現させる魔法陣じゃ」
この魔法陣こそゲーベルの研究の粋であり、成果の一端だ。魔術師の積み重ねと研鑽の到達点。
「この魔法陣をお主の水で描き直し、その水に混じる天力とは非なる力を以て、精霊界への扉を開く」
この研究成果は今後のことにも確かに必要。しかし、この研究を成就させることは、一人の魔術師として、研究者として、何にも代えがたい喜びとなる。
ゲーベルがゲーベル自身にゲーベル・ルシュルドの真価を問う瞬間が近づいていた。




