第零話 男の子と女の子
天力――天は世界に数多ある自然の力を人の子に授けた。
***
もうすぐ八月も終わる。そんなある日の夕方。
人里から少し離れたところに、一際目を引く白い建物があった。 この地域最大の病院[八坂病院]である。
その病院の一室に一人の少年がいた。その少年はベッドの上で体を起こし、電気もついていない薄暗い病室から 外を見ているだけ。その少年が見る外の世界は黒く厚い雲が空を覆い、豪雨を降らせている。今年は台風が多く、毎日のように激しい雨が大地に降り注いでいた。 そのせいかここ十年で一番の冷夏だそうだ。
少年は窓の外を、ただただぼんやりと力なく見ていた。「見る」という表現も語弊があるかもしれない。少年の目には外の世界すら、ただ視界に収まっているだけだった。
一向に止む気配のない雨は、空から地面へ音もなく、ただ落ちていく。
少年の、空っぽの病室にも、少年ものと思わしきものがあった。 一つはベッドの上の新聞。
認めたくない現実が現実だと、少年はその新聞で知ってしまった。 少年の知識ではその新聞のすべてはまだ読めない。けれど、そこに掲載された写真が その場所だったから。 大人たちが話していた場所と一緒だったから。少年は理解してしまった。
家族を亡くしたのだと。
『七月二十三日午後六時頃、新木市川谷にて約五十メートルに及ぶ大規模な土砂崩れが発生。大型トラック一台、乗用車一台が 巻き込まれた模様。土砂の中から男性二名と、女性一名の遺体と子供一名が発見された。子供が意識不明の重体。今も身元確認を急いで――』
その土砂災害の人的被害は死者三名、重体一名、行方不明一名となった。 トラックの運転手、少年の両親は死亡。重体の一人は自分。そして、少年の兄は行方不明となり、遺体は発見されなかった。
少年は家族を失った。 父も母も、そしてきっと 兄も。ただ少年だけは重傷を負いながらも命だけは助かっていた。
そして家族を失ったことを自覚すると同時に、少年の心は固い殻に覆われてしまった。 少年にとって両親の死はとても辛いものだ。けれど心を閉ざしてしまったのは、心が殻に覆われてしまったのは 、最愛の兄の死だった。 これが少年の心に大きな傷を負わせて、その傷口を守るかのようにそれが現れた。いつしかその殻は、 傷口だけではなく心の全てを覆い隠してしまった。
兄の背中をずっと追いかけていた少年の瞳に輝きはなく、言葉も失った。 大人が少年の心を 知ることも、思いを聞くことすらできなくなっていた。
そんな少年がひとつだけ手放そうとしないものがあった。 今はただ手に置かれているだけだけど、 取ろうとすると必ずぎゅっと握って離さない。
『お小遣いを貯めて買ったんだ! かっこいいだろう!』
そう言いながら満面の笑みで自慢していた兄。 露店で買ったと思われる銀の腕輪だった。
少年の瞼の裏にはすぐにでも浮かぶ兄の笑顔。だけどもういない、帰ってこない。 兄を想うと殻に守られているはずの心の傷が痛んだ。だけど涙が出ない。もう少年には涙は残っていないのだろうか。
「こんにちは」
扉が開き、いつものように少女は少年の病室に入ってきた。少年と同じぐらいの歳だろうか。碧い瞳が印象的だ。
少女もこの病院に入院していて、どうやら少女は少年と同じ学校、らしい。少年には見覚えがなかった。クラスメイトの顔は全員覚えているからクラスメイトではないのだろう。
この少女は少年が目を覚まして間もない頃に前触れもなくやってきた。 声をかけても何も反応しない少年を見て最初こそ戸惑っていたが、そのうち一方的に話をして帰って行った。 夕方頃に来ては、話をして帰っていく。それを繰り返して二週間になる。
今日もまた少女は少年にいつものように話しかける。
「昨日も話したと思うけどわたし、明日、退院するんだ」
明るい口調だが碧い瞳は寂しそうだった。
「…………」
少年は何も応えない。 聞こえてはいる、でも、心には届いていない。殻が邪魔をする。
少女は少年が反応しないことは分かっている。だけど続けた。
「だからね、聞いてほしいことがあるんだ」
決意を固めた少女の碧い 瞳には力があった。
「ねえ、わたしを……わたしの目を見て」
少年はその言葉に何かを感じたのか、外の世界から少女に、その目に写すものを変えた。これは少年が少女に初めて表した反応でもあった。
少女のその独特な碧い瞳には輝きがあった。いつかの少年が持っていた輝きのように。
少女は語りかける。
「前を見よう」
微笑みながら、優しく届くように言った。
「下ばかり見てないで前を見よう。お兄さんが帰ってきた時、そんな顔で会うの? 悲しむと思うよ、お兄さん」
少年は、はっとした。少女の言葉に初めて心が反応した。『帰ってきた時』。それが意味すること。
それは兄が生きているかもしれない、ということ。誰が死んだと決めつけた? 兄の遺体はまだ見つかっていない。兄がまだ帰ってきていない。どこにも死んだとは書かれていない。誰も死んだとは言っていない。 では誰が、兄のことを決めつけていた? 他ならぬ自分自身だった。兄も死んだと決めつけていた。
兄は生きている。
――心の硬い殻に亀裂が走る――
少女の言葉に呼応するように雨の音が遠のいていく。
少女は続ける。
「わたしは君のお兄さんじゃないから本当のことはわからない。でも、でもわたしがあなたのお兄さんだったら、やっぱり悲しいかな。だって、自分のせいであなたがこんな風になっちゃうんだもん。久しぶりに会った時、君がそんな顔しちゃだめだよ。笑顔で会わなきゃ」
少女の言葉が 少年の心に響く。
兄のことはわかっているつもりだった。誰よりも、誰よりも自分が近くにいたから。では、今の自分はどうだろうか。近くにいなきゃわからない。そんな 浅い絆ではないはずだ。あのわんぱく兄のことだ。 こんな顔をしててもきっと励ましてくれるけど、原因が自分だと知ったらきっと悲しむ。
それに、兄が帰ってきたらすぐに遊びたい。なんでもいい。なんでもいいから。
「だからね、明日をみよう?」
――一筋の光が暗闇を貫いて、少年を照らす――
少年の目に涙が浮かぶ。もう枯れてしまったと思われたその涙が。閉じ籠もった感情が再び現れた。
生きているかもしれない喜びと、会えない悲しみの相反する涙。その涙は少年の頬に一筋の線を描いて、しっかりと握られた腕輪に落ちる。
ポタリ、ポタリと涙が腕輪を濡らし、手を濡らす。 もう涙が溢れ出て、止まらなかった。まるでそれは、いつのまにか止んだ雨が少年の目に移ったかのように。窓からの一筋の黄昏色の光が腕輪を照らす。
少年の涙に少女は何も言わない。ただ優しく微笑んで見守った。その笑顔はまるで小さな妖精。
――殻全体に亀裂が走り、いくつもの光が暗闇を照らした――
やがて外の世界も黒い雲を消し去るようにいくつもの光が天上から差し込み、大地を照らす。
少女はまた優しく言った。
「たくさん泣いたその後に、もっとたくさん、一緒に笑おう?」
――心を覆っていた殻は闇とともに完全に砕け散った――
こくんと、手で涙を拭いながら少年は頷いた。それは自分の意思。少女に初めて示した意思だった。
少年は笑う。
今できる精一杯の笑顔を少女へ。 自分の心に再び光を届けてくれた少女への感謝、ありがとうを笑顔に変えて。
少女は満足したように微笑んだ。頬が少し赤く見えたのはきっと夕日のせい。
「またね」
そう言い残して少女は夕日と少年に背を向けて、静かに少年の病室を後にした。暖かくてやわらかい、やさしい風を感じて。
少年は少女の名を知らない。
けれど、少女は少年の名を知っている。
二人の運命が交わった。




