第97話 侯爵令嬢クリスタは、没落令息マルセルと離別する
全身を支配する気怠さを感じて、クリスタは、自分が地面に倒れていることに気がついた。
いったい、どのくらいの時間、気絶していたのだろう。
目を開けると、自分と同じように横向きになった配下の姿が、そこにあった。
「レティ、シア……?」
薄暗い地下道には、水の流れる音だけが聞こえている。
耳鳴りが酷い。魔力を使い過ぎた影響が、体をひどく蝕んでいた。
それでも忠実な臣下は、主の声を聞き逃さない。
「クリスタ、さま」
半開きの瞳を確認して、体から力が抜けるのを感じた。
生きている。
自分たちは、まだ命を繋いだのだと、安心する気持ちに支配された。
クリスタは這いつくばったまま、今まで戦っていた敵を探した。
目の前にうつ伏せに倒れている、もう一人の男の姿を見つけて、息を呑んだ。
少し考えてから、ゆっくりと、体制を整えてゆく。
「クリスタさま……?」
うつ伏せから膝立ちになる。その瞬間、思わず口元を抑えた。
「っ……」
世界が回っているのではと思うほどの、酷い目眩と、吐き気。
これは魔力が枯渇した時の症状だ。
気絶している間に少しだけ回復したらしいが、立つこともおぼつかない。このまま倒れて助けを待つのが、最も賢明な選択肢だろう。
しかし、クリスタは歯を食いしばって、気力だけで立ち上がった。
今だけでいい。そう強く念じて、よろめきながらマルセルに近づいていった。
「だめ、です、あぶない、です」
レティシアが、薄れる意識を手繰り寄せながら、必死に主張した。
だがクリスタは止まらない。足をひきずり、マルセルの側までたどり着いた。
そして、その異常な姿を目にした。
彼の体が、少しづつ、魔力に変わり始めていた。
肉体が少しづつ消え失せて、黒く変色した部分が、剥がれて宙に消えていく。
これは、悪魔に魂を売ったものの末路。
マルセル・エル・カルマという存在が、この世から失われようとしているのだと、クリスタは悟った。
「マルセル……」
クリスタが、憐むように名前を呼んだ。
今にも消えそうなマルセルは、ゆっくりと顔をあげる。
すると消え行く彼は、やはり今までと変わらなかった。噛みつかんばかりに、目の前の怨敵を睨みつけ、無様に吠えた。
「クリスタ……ッ! お前さえっ、お前さえいなければぁあああっ……!!」
その怨嗟は、あまりにお門違い。全ては身勝手が引き起こした結果なのだ。
だが今にも意識を手放してしまいそうなクリスタは、たった一人で反逆を起こした男を、哀れんだ。
今のマルセルはボロボロだった。
髪は乱れ、服は惨めに灰色に汚れている。
さらに貴族の象徴――マルセルの杖は、魔法の負担が大きかったのだろう。原型をとどめないほど無残に、粉々に砕けて、地面に転がっていた。
自分をそんな状態に陥れた相手への憎しみは、きっと相当なものだろう。
だが、クリスタは見下すだけで、言い返そうとしなかった。
「クリスタ……ッ! お前がっ、僕の策略を潰したお前が、全部悪いんだ……!」
自らの罪のことを一切無視して、ただひたすらに他者を呪う。
その哀れな姿には、見覚えが有った。
誰よりも、その立場に陥った者の気持ちを知っていたのだ。
『離せッ! 離せ、この下民がっ……!!』
自身が悪魔に取り憑かれた未来を見せた、最初の悪夢だ。
夢の中の自分は酷いものだった。
二人の兵士に両腕を掴まれて拘束されているのに、無様に振り払おうと、必死にもがいた。誰に見捨てられても、失ったことを認めることができなかった。
今は、あの時になぜ無様な姿を晒したのかを、理解できた。
「こんな……こんなことは、ありえない。侯爵家の、僕が……こんなところで、消えるなんて」
倒れたマルセルは、いまだ現実を受け入れてはいないようであった。
自分が選ばれた人間であると、信じて疑っていない表情だ。
だが彼は失ったのだ。
杖を失い、爵位を受け継ぐ未来を失い、頼りであった最後の悪魔さえも失った。
生まれ持った肉体を、たった一つの命さえ失おうとしている。
マルセル・エル・カルマという人間には、もう――何も残っていなかった。
クリスタは、ゆっくりと屈んだ。
同じ身分を持って生まれた幼馴染に、心を痛めた。
全ては、悪魔という存在に、心を歪まされなければ、起こらなかったことだ。
「マルセル……」
言葉を出そうとして、しかし、何の慰めも出てこなかった。
一度は開いた口が閉じる。
彼が劣等感を抱いていることは、何となくは気付いていた。
だが彼はニーベル家と仲の悪い、カルマ家の令息だ。滅多なことがなければ声をかけることは許されないし、事実、何もしてこなかった。
確かにカルマの一族は性根が悪く、彼もまた親からその性質を引き継いでいた。
だが――きっと未来には、民を率いる立派な貴族になってくれると、信じていたのだ。
「クリスタァァッ! 貴様、貴様ぁぁ……っ!?」
クリスタは、消えていく彼を起こして、抱きしめた。
何が起こったのか理解できない。
そんな表情を浮かべたマルセルは、突然、言葉を失った。
彼の心中は今も、自分や、他者への憎悪で満たされているのだろう。
だが、クリスタは願わずにはいられない。
「あなたの犯した罪は、決して、許されるものではありません」
マルセルの罪は、あまりに重い。
兄弟を殺し、さらには侯爵を操ることで、裏から大勢の人を苦しめた。もしここで生き延びたとしても、死罪は免れないであろうほどの罪だ。
クリスタからも多くを奪おうとした。
自分と配下の命を奪い、信頼を引き裂こうとした。
もしも、何か一つでも間違えば、今ここには立っていなかったはずだ。
クリスタも、それを赦すことはできない。
「ですが――」
全てを失う結末も、彼自身が選び取った結果なのだから、受け入れるしかない。
だが、クリスタは知っている。
それらはきっと、悪魔の存在がなければ起こらなかったはずだ。
もしも、彼が悪魔などという存在に出会わなければ、きっと未来は違っていた。
もはや全てが手遅れであり、取り返しがつくはずもない。
だが、それでも。
「あなたの来世が、良いものになるように、願っています」
夢の中で、同じく身を邪悪に染めたものとして、願わずにはいられない。
クリスタは彼に、せめてもの祈りを捧げた。
「っ……ふざ、けるな。僕を、憐むなっ。やめろっ」
「あなたがどう言おうと、私の意思は、変わりません」
「くそっ……クリスタ、お前に。全部を持っていたお前に、僕の何が、わかるっていうんだ……!」
マルセルも、自分がもうすぐ消えることは、当然わかっているのだろう。
体は今も崩れており、すでに脚部のほうは跡形もなく消えている。噛みつかんばかりの鋭い睨みも弱まって、そこから涙が溢れていた。
「王族になる奴に、僕の、何が分かるっていうんだよ……!」
掠れ声で、呟いたそれが、マルセルの本心だ。
取り返しがつかない。消えゆく自分の運命からは、もはや逃れられない。
なすすべなく、消えていく。
体は跡形もない。首も、ほとんど残っていない。
そして残された頭部までもが、クリスタの腕の中で消えてゆく。少年の、行き場のない感情が、クリスタの中でぽろぽろと溢れる。
風の吹き抜ける音が鳴り響いた。
それに紛れたクリスタの囁きは、消えゆく彼以外の誰にも届かなかった。
「あなたは、何も、悪くありませんわ」
口元の消えたマルセルは、驚いたように涙を止めた。
決して、侯爵家に属する立場の人間が口にしてよい言葉ではない。
配下を傷つけられ、自らの命さえ脅かした相手にかける言葉ではない。
だが、クリスタは生まれて初めて、その立場を無視した。
『あ……』
片方しかなくなった瞳に、光が戻ってくる。
――狂気が去った。
幼い頃に、マルセルが求めていた言葉だった。
理不尽に虐げられ、誰からも蔑まれていた。
近づいてくる貴族も、誰も彼もが、マルセルの敵だった。
『あら。あなたは、どうして一人で、こんなところにいるのかしら』
例えば、まだずっと幼い頃。
悪魔に取り憑かれる前に、少しでもクリスタと話ができていたのなら。
『関係ありませんわ。あなたは、あなたなのですから……そうでしょうマルセル?』
もしあの頃に、たった一言、誰かが声をかけてくれたのなら。
ここに居てもいいのだと、認めてくれる人がいたのなら。
あんな、悪魔の囁きになんて、耳を貸さなかったかもしれない。
最後の瞬間に感じたのは。
生まれて初めて感じる、とても不思議な、熱い感情であった。
――マルセル・エル・カルマは、消滅した。
座り込んで佇む主のもとに、ふらふらと、レティシアが歩み寄ってくる。
クリスタは何かを抱き抱えるような体制のまま、動かなかった。
その腕の中には、もう、何も抱えていない。
あとに残されたのは、粉々に砕けた杖と、侯爵家の息子が纏っていた、貴族用の礼服のみだ。
作り出した氷壁もほとんど破壊され、地下道には元の静けさが戻っていた。
夜風が吹き込んでくる中、クリスタは美しい白水色の髪を揺らした。
彼女はまるで置物のように、背中を向けたまま動かない。
「クリスタ、さま……」
しばらくレティシアが、気遣わしげに主の様子を見つめていると、次第に、反対側の通路が騒がしくなってきたことに気がついた。
これだけ派手に魔法を使ったからか、それとも、アンリが助けを呼びに来てくれたのだろうか。いずれにしても、救助がきてくれたことは疑いようもない。
これで助かった。そう思って、視線を戻して――
「えっ、クリスタさまっ!? だ、大丈夫ですか、クリスタさま!?」
うつ伏せに倒れている主を見て、飛び上がった。
とうとう、全ての力を使い尽くしたのだろう。マルセルの倒れていた場所に倒れる彼女を見て、同じく疲労していたレティシアは、大慌てで抱き起こした。
だが、臣下が何度声を張り上げても、クリスタは目覚めなかった。
その後に主を見つけて、駆け寄った他の二人の配下が、必死に声をかけても。
自分を探していた婚約者の王子に抱き抱えられ、連れ出されても。
杖を手放したクリスタが、目覚めることはなかった。




