第63話 侯爵令嬢と大地の悪魔 後編
クリスタは本来、悪魔に取り憑かれた苦痛など知り得るはずがなかった。
アンリは悪魔に取り憑かれている。辛く苦しい想いをしていることくらいは想像できる。だが、それが一体どれほどかを知る術はない。
あの悪夢を見なければ、アンリがどんな想いをしたのかを、知ることはなかっただろう。
――それどころか、今とは全く違う未来が続いたはずだ。
自分が全てを失って破滅し、没落するあの夢は、今思い出しても心臓が苦しくなる。
その運命を拒んだ結果、クリスタは、自らの限界と敗北を知った。
それは討伐演習の湖で現れた、異形の魔獣。
全ての魔力を使い果たし、明確な"死"を目の当たりにして、絶望に身を委ねた。
『嘘、よ……』
一切の魔法が通用せず、今自分が持てる最強の力でも、倒すには至らなかった。
命も配下も、全てを失う、恐怖を味わった。
だから、最も信頼できる配下にすがった。
泣き付き、不安に流されないようにすることが、その時は精一杯だったのだ。
『お願いだから……わたくしから、離れないで。レティシア』
生まれて初めて抱いた恐怖は、クリスタの中の何かを変えた。
何者にも劣らないと思っていた自分の力が、あまりに弱いことを知った。
今、クリスタがここに立っていられるのは、弱い自分を知ったから。
そして、三人の配下を、より深く受け入れたからだ。
唯一クリスタが恐れているのは、夢で見た恐ろしい未来が、現実になってしまうことだ。
だが、もはやそんな未来は訪れないだろう。
悪魔の甘言に耳を貸すことが、どれほど恐ろしいことかを理解したからだ。
(きっと……私が部屋を訪れた時から、あなたは、耐えていたのでしょう)
うつろなアンリを見て、悔しい想いで満たされる。
彼女が一体いつから取り憑かれていたのかは、分からない。だが、部屋を訪れたあの時のアンリは、明らかに悩み、苦しんでいた。
様子がおかしいことに気付けなかった自分が、情けない。
だが、まだ間に合う。
もしも、アンリが自分と同じように堕ちてしまったのなら、こんな風にはならない。周囲の全てを憎み、悪魔に身を委ねていただろう。
しかし、今のアンリは、そうはなっていない。
悪魔にその魂を、譲渡していないのだ。
ならば自分は、その誇り高い想いを、決して汚すわけにはいかない。
「あなたの申し出は――断りますわ」
そこには、何の迷いも、躊躇もなかった。
堂々と悪魔の目を見つめて、はっきりと、その申し出を拒否してみせた。
『……分かりませんな。理由を伺っても?』
「貴方のような存在を、野放しにしていい理由が、何一つありませんわ」
クリスタは、悪魔に取り憑かれる苦しみを知っている。
たとえアンリを救うためであっても、あんな想いを誰かに押し付けることだけは、絶対に許容できない。
取引をして救い出せば、それこそ、アンリの誇りを汚すことになる。
『あなたの大切な配下が、傷ついても構わないと?』
「取引などという選択肢は、最初から存在しません。あなたを滅ぼすまでですわ。そのために、私達が直々に来ましたのよ」
交渉の余地はない。完全なる拒絶は、悪魔にとっては計算外だったのだろう。軽い舌打ちが聞こえてくる。
逆に、レティシアとアリスは、ほっと息をついた。
『止むを得ませんな。ならばパトリック嬢。思いのままに、力を振るいなさい』
「畏まりました……」
ならばと、悪魔は腕を持ち上げる。
命じられたアンリは、感情も意思もなく、命令に従って魔法を唱えた。
「『マルム・グラレア』」
杖から放たれた黒い魔力は、いくつかの小さな砂の塊を形成する。
だが杖を向け続けたクリスタが、即座に対抗魔術を唱えた。
「水壁よ現れなさい、『アクア・パリエス』」
割れた石畳の隙間から迫り上がってきたのは、分厚い水の壁だ。
流星のように迫ってくる、黒色の土の粒。だが相性で勝るレティシアの風系統魔法を使うまでもなく、土は水の壁の中で勢いを失い、次々に落下していった。
魔法の制御がなくなると、水壁はただの水に戻り、地面を濡らした。
忌々しげに睨んでくる悪魔を、クリスタはさらに煽った。
「随分と、アンリの魔力を底上げしてくれたようね。ですが、その怪しげな魔法も、万能ではないようね」
『…………』
確かにクリスタの魔法は、相手の魔法防御を貫くことはできない。
だが魔法が通用しないからといって、一方的に攻撃を食らうわけではない。敵の魔法を分析し、対策を打つ事は不可能ではない。攻撃手段だってある。
魔法を防がれた悪魔は何も言わず、じっとクリスタを見つめていた。
クリスタは、毒々しい笑みを浮かべて、煽った。
「それに、今の魔法で確信しましたわ。やはりあなた、アンリを完全には支配できていないようね」
『……何を言っているのか、理解しかねます』
「その子を、マルセルのようには落とせなかったのでしょう。殺意もない、水増ししただけの魔法など、怖くありませんわ」
『…………』
アンリの魔法には、全く敵意を感じなかた。
まるで、子供が刃物を振り回しているのと同じだ。威力だけは高いが、対処方法を知っていれば何も怖くはない。
「支配が及ばないからこそ、あなたは、新たな依代を求めているのでしょう』
『ッ!』
「この組織を使って、魔法の才能あるものを集めていたのは、そのためね」
『貴様、どこでそれをッ……!』
悪どく笑むクリスタの指摘に、山羊顔の悪魔は、空洞の内側の紅色の光を、爛々と輝かせた。
悪魔は、この組織を使って魔法の才能を持つ者を集めていた。
しかしアンリを操っているところを見ると、それは失敗に終わったようだ。
「アンリは、素晴らしい才能の持ち主よ。あなたはそれを全く引き出せていない。それでよく、悪魔などと名乗れたものね」
『…………』
煽り倒された悪魔は、何も言わずに骨の手で、目元を隠した。
その態度で、クリスタは完全な確信を得る。
やはり、アンリは悪魔に心を譲り渡してなどいない。
『そういう、ことでしたか……魔術師を集めていることは、限られた人間しか知り得ないことだったはず。侯爵令嬢殿。あなたのことを、侮っていたようだ』
「ええ、そのようね」
悪魔は、目蓋の穴に置いていた手を鼻先まで落とす。
『……もしや貴方、シャーロットという名前にも、聞き覚えがあるのではありませんかな?』
「ええ。あなた方が狙っているところを、保護させて頂きましたわ」
『そうですか、道理で手に入らないはずだ……クククッ。この場所を突き止めたのも、あの魔術師の女を誑かしたわけですか』
計画が狂った原因を、悪魔もやっと理解した。
最適な依代が見つからず、やっと見つかった有望な候補を聞きつけて、拐うように命令を出したのに失敗――そのうえ身を隠されて、"裏"からはすっかり姿を消してしまったように思われた。
やっと見つけたと思った段階での、この襲撃。
ここまで運が悪いと、悪魔も嘆きたい気持ちで一杯であった。
「あなたは、あの子。シャーロットの才能に目を付けたのね」
『ええ。幼いほど無垢であり、どんな思想にも染まりやすいのです……そのうえ、特別な才能の持ち主でもあったと聞いています。私の依代に相応しかったのですよ』
「幼い子が、悪魔に取り憑かれるというのは、ぞっとしない話ね」
『フフ。あなたがここに訪れた以上、そちらは、もう手に入りそうにありませんね』
いつまでも、自分の意思で動かない人形を使い続けるわけにもいかない。
そう考えて身を潜めていたのに、ここまでうまくいかない事は予想外で、致命傷であった。うまくいかないことばかりで、苦い笑いさえ溢れてしまう。
リノヴァーと名付け、マルセルに作り上げさせていた組織も、終わりだろう。
だが、黙って敗北を喫すわけにもいかない。
『ならば止むを得ません。この体で、貴方と戦わなければならないようですな』
クリスタは、刃物のように鋭く、悪魔を威殺さんと睨み付けた。
すると悪魔は、自らの骨の体を、元の黒色の魔力に変質させていく。
やがて魔力の黒煙の中から現れたのは、純白の霊体だ。それが再び、アンリの肉体の中に吸い込まれるように戻っていく。
「アンリちゃん……!」
レティシアが叫んだ。
アンリは一瞬、白目を剥き、そして黒のオーラを、より一層強めた。
操られるがままに、ゆっくりと杖腕を持ち上げる。
「その子の体、今すぐに返していただきますわよ」
クリスタもまた、腕を持ち上げて、杖先をアンリに向けた。
そして、両者の魔法が、ほぼ同時に放たれる。
「『マルム・グラレア』……!」
「さあ、行きますわよ。『グラシェ・パリエス』」
邪悪なオーラを放つアンリを中心として、津波のような黒い砂の濁流が、襲いくる。
広場全体を覆う程の濁流。だが、波は途中で不自然に停止する。
地面から迫り上がってきた氷が攻撃を完全に阻んだ。
砂と氷の壁は、同時に粉々に砕け散った。
侯爵令嬢と悪魔の、譲れない戦いが、幕を開けた。




