第38話 侯爵令嬢と出発の夜
アンリ・パトリックは狭くて薄暗い部屋に、たった一人で蹲っていた。
窓がないこの部屋は、学園の寮よりもずっと暗い。唯一の明かりは蝋燭だ。僅かな紅色の光だけが、彼女を淡く照らし出している。
『なぜ、そんな所に隠れているのですか。早く堕ちてしまえばいいのに』
「……っ」
邪悪な声は、聴こえ続けている。
意味がないと分かっていながらも、耳を塞ぎ続けていた。
アンリは、罪悪感と焦燥感に心を焼かれ続けて、おかしくなりそうだった。
とんでもないことを、してしまった。
身の丈に合わない魔法を使って学園から逃げてしまった。恐怖と後悔の感情に苛まれ続けている。
今、この街で、自分のやってしまったことが騒ぎになっていることは知っていた。だから、誰の言葉も、今は聞きたくなかった。
そんなとき、ゆっくりと部屋の扉が開く。
部屋に入ってきたのは禿げた頭の男だった。
筋肉によって腕も体も太く、硬そうな肌には、はっきりと怪我の跡が残っている。アンリの父親よりも少し若い程度の、見知らぬ男であった。
すぐさま攻撃的な表情で杖を向ける。
しかし男は、微動だにしない。茫然としたような、正気のない表情で入り口に立ち尽くしていた。
「出て行って……!」
歯噛みしたアンリが命令すると、まるで操り人形のように振り返って、従順に出て行った。
部屋の扉が閉まったあと、一人で取り残される。
『それでいい。僕が彼を操ったように、同じ魔法を覚えることができる。この力を受け入れさえすれば……』
「……うるさいっ……やめて、もう……」
小さな声でかぶりを振って、抵抗するのが、精一杯だった。
一刻も早く、主に会わなければならない。
だが、この場所に引きこもって抑えていないと、破裂してしまいそうだった。
アンリがこの場所を見つけたのは、たまたまだった。
夜街を彷徨っていたところで、今の男と出会った。そして理由もわからないまま匿われて、この場所にとどまっていた。
あまりに都合が良すぎる展開だった。しかし、今は誰にも会わない場所があることが、何よりもありがたかった。
「こんな力……私は、望んでない……っ」
声の通りに黒い感情に身を任せれば、きっと楽になれる。
だが、それはできない。
あの日の出来事が、今もアンリを引き留めていた。
アンリには、魔法の才能がなかった。
入学してから、他の貴族に差をつけられ、苦しみ続けていた。
『どうして……わたしは、魔法が下手なのよ……っ!』
どんなに魔法の練習をしても追いつけない。誰かに教わるコネなど持っておらず、教師はほとんどの時間、上位貴族の教導に追われている。
魔法が使えない貴族など価値がない。
馬鹿にされ続けて、悔しい思いをしながら、好きだった座学さえ捨て置いて、練習場に通い詰めていた。
泣きながら、心が折れそうになった日々があった。
『私のもとに来なさい、アンリ・パトリック』
『え……?』
夜空の下で、地面に手をついたアンリが、顔を上げる。
そこに居たのは、遥か雲の上の身分。国の中枢である侯爵家の令嬢。周囲から恐怖されているクリスタ・ドゥ・ニーベルが、自分に手を差し伸べていた。
最初は、夢かと思うような出来事だった。
しかしクリスタは冗談でも、からかっているわけでもなかった。いつからか、アンリのことを見て、そして他の誰でもない自分が、欲されていた。
期待に応えるために、努力を続けてきた。
座学の才能を活かして、魔法も教えてもらった。
そのおかげで底辺から抜け出し、なんとか卒業要件を満たせる、ギリギリの線まで至ることができた。
「助けて、誰か……」
裏切れない。しかし、自分ではどうすることもできない。
思考がどんなに鈍っても、こんな訳のわからない魔力に、身を委ねることはできない。両手で体を抱きかかえる。
自分から逃げたのに、誰も助けに来てくれるはずがないのに。
それでも、この場所から抜け出せることを、どうしても願ってしまうのだった。
夜を迎えたばかりの学園は、三日月に照らされている。
自室で待っていたクリスタは、開いた窓から、空を見上げていた。雲がかかった夜空はどこまでも遠く、手を伸ばせば無数の星にも手が届きそうだ。
普段なら着替えて、一人の時を過ごす時間だ。
しかし今、手元には、執務のための資料も、学習用の教材もない。かわりに新品の、細長い木箱を握っていた――表面には『アンリ・パトリック』と名前が記されている。
時を待っていたクリスタは、ノックの音を聞いた。
箱は懐にしまって、入室を促した。
「……入りなさい」
「失礼いたします」
「失礼しますっ。クリスタさま、お待たせしました!」
部屋を空けたのは、ニーベル家に仕えるメイドで、続けて中に入ってきたのは、同じく、外出用の格好をしたレティシアである。
一応、ぺこりと頭を下げて、懐っこくクリスタの側に寄ってくる。それを受け止めて、頭を撫でた。
「では、私は行きますわ。後のことは任せましたわよ」
「私共に、全てお任せください」
メイドは恭しく頭を下げる。
これからクリスタ達は学園を抜け出す。その機が、ようやく熟したのだ。
ニーベル家の息のかかった近しい人間には、すでに事情は話してある。
身の回りの世話をしている彼女も、クリスタの身の回りの雑事の全てを任されている者だ。口も硬く、彼女達がいる限りは、不在の発覚を大きく遅らせることが可能だろう。
そして次に気にするべきはレティシアだ。
「準備は全て整っているの?」
「もちろんですっ! いつでも行けますよっ!」
何の迷いもない、素早い敬礼だった。
普段以上に意気込んでいるのか、ポニーテールを、ぶんぶんと振っている。
今回の一件は、王族と信頼のできる上位貴族を除いて、秘密裏に行われることになっている。
一刻も早くアンリを助けなければいけない。そしてマルセルに、学園を出たことを嗅ぎつけられてはいけない。
そのために今回は、彼女の魔法が欠かせないのだ。
悪魔という存在を知っている者は、現在がどれほど危険な状態かを、よく理解している。だからこそ、クリスタ達に隠密行動を言いつけていた。
現在、王都はどこも警戒状態にある。
報告が上がっていない以上、学園の壁を破壊したマルセルは王都のどこかにいるはずだ。何としても見つけ出そうと巡回が続いているが、しかし成果はあがっていない。
全く動きがない相手を発見するために選ばれたのが、クリスタだ。
系統魔法を通さない魔法に対して、クリスタと、配下のアリスは傷を与えている。さらに関わっていると思われるアンリ・パトリックの魔力を追うこともできる。
よって、腹心のレティシアを加えた三人に対して、密命が与えられた。
この警戒状態も長く続けることはできない。
解ければ、アンリを見つけることは難しくなる。何としてでも見つけ出さなければならないだろう。
巡回の者が来ないうちに、クリスタはレティシアに命令を下した。
「時間は有限ですわ。向こうの用意も済んでいるはず、こちらも行きますわよ」
「了解です! ではお手を失礼しますねっ」
レティシアは、立ち上がったクリスタの右手を、両手でしっかりと握り締めた。
それから、軽快に杖を振るう。
「いきますよっ! 空飛ぶ風『アウラ・ヌーブ』っ!」
足元に向けて、杖から放たれた緑色の魔力は、二人を浮かび上がらせる。
足元から腰にかけて、不思議な空気の圧力で覆われるような感覚だ。
「……おとととっ!?」
「っ……!」
しかし、最初の不安定さに、レティシアとクリスタ若干よろめいた。
立ち直ったクリスタが、じっと見つめて叱りつける。
「レティシア」
「ごごご、ごめんなさいっ……よし。もう大丈夫です!」
「…………」
……少し怪しんで様子を見ていたが、今度は、本当に大丈夫そうだ。二人で移動するコツを掴んだのか、風の足場はすぐに安定した。
風系統魔法の精密な制御を練習させたことが、今になって功を奏したようだ。
「ではメイドのおねーさん、行ってきます!」
「……どうか、お気をつけて」
「ええ、あとは任せたわよ」
部屋の大窓は二人が通るには十分な大きさだ。
月明かりの外に出て行った二人に、メイドは頭を下げ続けていた。
「ここからは、静かに行きますわよ」
「はいっ……!」
壁のすぐそばを伝って、ゆっくりと地面に降下していく。
こうして侯爵令嬢と辺境伯令嬢の二人は、学園からの脱出を敢行したのだ。




