第1話 悪役令嬢と悪夢
いつになく酷い悪夢から、クリスタはようやく目覚めた。
侯爵家のクリスタに与えられた専用の、最上階の寮室で跳ね起きたクリスタは、荒く胸元を掴み取って、息を整えた。
「はっ、はーっ……う、くぁ、っ……」
息が乱れている、呼吸が苦しい。
全力で魔法を使った以上の、疲労感に襲われていた。暗い部屋の中で、感情が落ち着くのを待ったが、胸が焼けそうなほどに熱くなっている。
しだいに、夢と現実の境目が明確になっていく。
胸にあてがっていた手を外せるようになった頃に、廊下から誰かが扉をノックした。
「ニーベル様、どうかなさいましたか?」
「……何でもありませんわ。下がりなさい」
「はい。ご用命の際は、すぐにお申し付け下さい」
力なく命じるのが、精一杯だった。
失礼しますという言葉とともに、扉の前から気配がなくなり、息をついた。
学園に勤めるメイドが、異変を察知して、様子を見にきたのだろう。
明かりは、月光が窓の外から差し込むのみ。
枕元を見ると、氷柱のように透き通った水色の杖が、ぽつんと置かれている。
夢では奪われたはずの自分の杖が、ここにある。
クリスタはそれを手に取って、確かな感触を確かめた。
「なんて、酷い夢ですの……」
自分自身でも呆れるほどに、酷い夢だった。
最初は動揺していたクリスタだったが、しかし次第に、燃えるような怒りが湧き上がってくる。髪が乱れるのも気にせず、布団に拳をぶつけた。
「なんですの、あれは……あの、私はッ!」
貴族としての振る舞いとは真逆の、感情に任せた暴力的な行為だ。
しかし今見た夢は、クリスタにとって、それほどに耐え難いものであった。
夢では、貴族の爵位を失っていた。婚約者のポール王子から見捨てられ、親からも見捨てられた上に、排斥された。その全てが最悪の事態だった。
しかしクリスタにとっては、それ以上に耐えがたいことがあった。
「あれが私ですって……!? 愚かで惨めな、あの姿がッ……!」
クリスタは王国の三柱と呼ばれる、ニーベル侯爵家の令嬢だ。
自分自身の生まれを誇りに思っており、その名に見合うように、周囲に自分を認めさせるための努力を続けている。
学業優秀で、魔法の腕は学園随一だ。
その証拠に、主席として入学式の挨拶を任されたばかりでもある。
それが、夢の中の自分の姿は何だ。
周囲に呪いの言葉をばらまき、みっともなく爵位にすがりつく、愚か者だった。
例え夢であっても、そんな自分の姿が耐えがたかった。
しばらく荒々しい感情が彼女を支配していたが、次第にそれもおさまってくる。
「……あんなこと、起きるはずがありませんのに」
クリスタは、ベッドから体を下ろした。
髪留めをほどいて、背中まで伸びる長髪を散らばらせる。滑るような手触りが、細い指先を撫でた。
気分を変えるために、メイドに水でも貰おうかと考えた。
だが、この気分を抑えるには、それでは足りない。すぐに外に出ることに決めて、部屋の扉を開いた。
「い、いかがなさいましたでしょうか、ニーベル様」
待機していたメイドが目を丸くして、慌ててクリスタのほうに走り寄ってきた。
「少々、外の風に当たってきますわ」
「えっ、ですが今の時間は……!」
「分かっています。敷地から出るつもりはありません、庭に出るだけです」
クリスタはそう言って、メイドの言葉を無視して階段を降りていった。
一人で螺旋階段を下る間、思案にふけった。
夢の中の自分は「アリス」とやらを酷い目に合わせ、殺しかけたという。
(馬鹿馬鹿しい夢ね……)
この前入学してきた、たかが一介の『平民』が夢に出てくるなんて、どうかしている。
一階まで降りてきたクリスタは息を吐き、杖を軽く振った。
重厚な木造の扉が、魔法の力でゆっくりと開いた。
本来なら、このような時間に貴族の子女が出歩くことなど許されることではないが、学園の庭ならば大きな問題はない。とくにクリスタの住う女子寮は、鼠一匹通さないほど、堅牢に守られており、問題など起きるはずもなかった。
だが、扉が開き切ってすぐに、クリスタは訝しんだ。
「魔力? ……こんな時間に、誰かしら」
庭を漂う魔力の気配を探知して、懐から取り出した杖を握りしめる。
この時間に起きている者が、いるはずがない。
まさか賊とは思わないが、万一ということもありうる。
「ニーベル様っ……!?」
庭に出たクリスタを見て、ぎょっとした表情で迫ってきたのは、夜警の兵士だった。
頭部と胸部を鉄で守り、懐には剣を差している。クリスタよりも年上の若い女性であり、本来は出てくるはずのない侯爵令嬢の登場に、ひどく緊張した様子だ。
「いかがなさいましたかっ、何か不手際でもっ!?」
「ただ、夜風に当たりにきただけですわ」
「そうでしたか。ですが学園の中とはいえ、何かがあってはいけません! どうか、お戻りいただけないでしょうか……?」
弱ったような、相手の反応を探るような、ご機嫌伺いの視線を受けた。
しかしクリスタには、気になることがあった。
それゆえに部屋に戻ることなく、むしろ質問を返す。
「このような時間に、誰かが魔法を使っていますわ。あなた、何か知りませんか?」
すると兵士は困ったようにうつむいた。
妙な反応だ。クリスタが訝しんでいると、兵士は思いもよらない言葉を返してくる。
「あの、心当たりはあるのですが……その……」
「心当たりですって?」
「魔法の練習をしている方がいるんです。向こうの方の広場で、今もやっていると思います」
それを聞いたクリスタは、表情をしかめた。
こんな夜更けに魔法の練習をする貴族がいるなんて、おかしい。学園には魔法を極めるための、最高の環境が整えられているはずだ。
「学園の人間であれば、研鑽のための時間も、場所も与えられているはずですわ。なぜそんな場所で練習をする者がいるのですか?」
「え、そ、それは……私では、わかりかねます……」
何の指導もなく、夜中に一人で練習をするというのは、あまりに効率が悪い。
明らかに不自然だ。何かあると、クリスタの勘が告げていた。
「私を、その生徒の元に案内しなさい」
「えっ……それは、構いませんが……」
「何か言いたいことでもありますの?」
「い、いえっ! ご案内いたしますっ! どうぞ、こちらです!」
平民が侯爵令嬢に意見するなど、許されるはずもない。
兵士は顔を青ざめさせながら、クリスタを連れてその場所に向かった。
怯える兵士に連れられたクリスタは、建物の裏手に案内された。
雑草が生い茂っていて、手入れが行き届いていない。とても魔法の練習に向いている場所とは言えない。
だが今、そんな人気のない場所に立って、杖を掲げている少女がいた。
「あの子は……」
クリスタは目を見開き、ぽつりと声を溢した。
ふわりとした金髪の、女性から見ても可愛らしいと感じる少女だ。
彼女の名前は、アリス。
この学園に新入生として入学した、家名のない平民の少女だ。
彼女は二十センチ程度の杖を一生懸命に掲げていた。
何やら、必死に魔法を使おうとしているらしい。
クリスタにも、心当たりがあった。講義で習った、下級属性魔法の『ライト』のつもりなのだろう。
「はあ、っ、ううっ……うまく、できない。もう一回っ……」
杖には魔力が集まっている。
しかし、そうとは思えないほどの出来の悪さで、再び霧散して失敗した。魔力も枯渇寸前のようで、青ざめた表情から調子が悪いことが傍目にわかる。
だが必死に、努力する様子も伝わってきた。
その光景を見て、クリスタが思い出したのは、先ほどの夢だった。
――さようなら、クリスタ様。
学園から追放される姿を、この少女は憐むように見ていた。
クリスタは今まで、悪夢に対してモヤモヤとした、怒りのような感情を抱いていた。
しかし、影に隠れながら練習を眺めているうちに、少しづつ変わってくる。
「…………」
アリスは目の前で、ただひたむきに、練習を繰り返している。
そんな姿を見ているうちに、クリスタは夢の他に、ある記憶を思い出した。