第0話 悪役令嬢クリスタは、破滅と没落の夢を見る
侯爵令嬢クリスタは、無数の冷ややかな視線を集めていた。
ここは本来、舞踏会などが執り行われる学園のホールだ。
だが、今は学生だけではなく、教師や、貴族の親などの大人の姿もある。
「離せッ! 離せ、この下民がっ……!!」
「暴れるんじゃない、余計に罪を重くしたいのか!」
百人を超える大勢の貴族たちの中で、無礼な、二人の兵士に両腕を掴まれて拘束されているのがクリスタだ。
侯爵家の人間に対して、ありえないほどぞんざいな扱いだ。
しかし正面に立ちはだかっている三人の存在が、その無礼を許容させる。
一人は、濃紅色の礼服をまとい、潤沢に茶髭を蓄えた壮年の男。
クリスタの実の父親である、モーリス・ドゥ・ニーベル侯爵だ。
「お父様、助けてくださ……」
「お前には失望したぞ、クリスタ」
ゾッとするような声色だった。
その暗い瞳は、もはや娘を見るような視線ではない。他人を見下すような、冷たい感情を向けられていた。
初めて、周囲を罵倒し続けていたクリスタは、青ざめた表情を見せる。
だから今度は、助けを求めるように、婚約者であった男に頼った。
「ポール様、あなたは、私を助けてくださいますよね……?」
媚びる相手は婚約者であり、王位第一継承者である、王子ジャン=ポール。
王族の礼服を纏った金髪の、絶世の美青年である。
だが婚約者を見る視線も、今やひどく冷たいものであった。
「残念だよ、美しかったあの君が、こんな風に堕ちてしまうなんて」
「えっ……ポール、様……?」
「その目。かつての君が宿していた輝きは、もはや失われてしまった」
二人は見つめ合う。
クリスタは怯えきった瞳で、ポール王子は悲しむような視線を向けていた。
だが、彼は力なく首を振った。
「……いや、やめておこう。今の君には、何を言っても届かない」
彼は、クリスタの全てを諦めたような態度だ。
なぜ自分に対してそんな目を向けるのか――クリスタは、恐怖した。
そしてポールは腹を決めた。
全ての貴族の集まる、この公の場で、はっきりと宣言する。
「君との婚約は、今この場で、破棄とさせてもらう」
それは婚約者との決別だった。
煌びやかな、白色の衣をまとった王子の言葉に、周囲がより一層ざわついた。
クリスタは、無限に落下していくような、絶望感を味わった。
「そ、んな……」
クリスタの破滅が決まった瞬間であった。
王子の言う通り、今のクリスタはボロボロだ。美しかった髪は乱れ、服は惨めに灰色に汚れている。抵抗して暴れたせいで袖も破れ、惨めなことこの上ない。
しかし、何よりも醜かったのは、その表情である。
かつては王国一とされていた美貌は、見る影もない。
王子の言う通り、恐ろしい悪魔が取り付いたかのように、歪んでいた。
王族が決定した以上、それは王国の意思であり、誰も異を唱えなかった。
婚約者からも親からも見放された彼女に、なす術はない。
貴族たちは、こうなって当然といわんばかりに、この場に集った誰もが、孤独に没落した令嬢クリスタを見下していた。
だが、そんな中でもう一人。
中央から、ゆっくりと歩みを進めて、正面に立った女性がいた。
「クリスタ様……」
この場の全員が、息を呑んだ音がした。
綺麗な金髪の少女の、透き通るような緋色の瞳が突き刺さる。
「アリス……ッ! お前がっ、お前が全部悪いんだ……!」
噛みつかんばかりに、目の前の怨敵を睨みつけた。
この女が元凶だ。
こいつさえいなければ、こんなことにはならなかった。
だがアリスは、恨み顔のクリスタを、悲しそうな顔で見下ろすばかりだった。
「ニーベル家、侯爵令嬢クリスタ。君の罪は重い」
かつての婚約者であり、王族であるジャン=ポールが間に入る。懐から取り出した羊皮紙を、淡々と読み上げた。
「アリス・エル・セラフィン殺害未遂の罪。これは極めて重いものであると、我々王家は考える。よって君を、ニーベル家当主モーリスの合意のもと、国外追放とする」
「なっ……!」
クリスタは、顔を上げて、そして立ち上がった。
だが、兵士に両腕を抑えられて、動くことは叶わない。自らの父親に、必死の形相で助けを求めた。
「そんなっ、お父様……!?」
「もはや、お前は私の娘ではない。大人しく罪を受け入れるがよかろう」
「ではっ、私はどうなるのですかッ!?」
「君は、一体アリスに何をしたのか、覚えていないようだね」
ジャン王子の、冷たい言葉が心臓を貫いた。
もはや婚約者であったことさえも忘れたような、道端の薄汚れたものを見るような目で、決別したクリスタを見ている。喉の奥から、悲鳴が溢れかけた。
「君が処刑にならないのは、アリスの温情だ。有り難く思うことだね」
「そんな……では、爵位は? 私の爵位は、どうなるのですか……!」
「そんなことも分からないのかい。君はね、廃籍されたんだよ。侯爵令嬢どころか、貴族ですらない。これからは平民のクリスタとして生きていくんだ」
くらりと、世界が歪んだ気がした。
兵士に腕を抱えられたまま、力なく座り込む。
そして、ブツブツと唱えた。
「そんな、そんなこと、ありえませんわ……あるはずが、ない……侯爵家の娘に、こんなこと、許されるはずがありませんわ……!」
「君がしたのは、それ程のことだ。ここに来ても理解できないとは、悲しいことだね」
世界の全てが耳に入らない。クリスタが考えることは、自分の世界の事柄のみ。
おかしい、こんなのは、決してありえてはいけないことだ。
自分は、選ばれた人間だ。
侯爵家に生まれて、最高の教育を受けてきた。魔法も最高の腕を持っている。
この国を背負って立つ人間のはずだ。
そのはず、なのに。
それが、このアリスという女のせいで罪を負い、婚約者と親に捨てられる……?
「ふざけないでッッ!」
クリスタは、かつての婚約者であるポールに掴みかかろうと、腕を伸ばした。
だが、横に控えていた兵士が、それより先に両腕を掴んで取り押さえる。
「離しなさいっ、離せッ……!」
「この後に及んで見苦しい。連れて行けっ!」
クリスタは腕を掴まれたまま、引き摺られていく。
地面に擦れた服が、ますます汚れた。足をばたつかせて抵抗しても、兵士は手を離す気配がない。貴族の女性の力で、男性二人に抵抗できるはずがなかった。
唯一の頼みの綱である魔法の杖は、既に手元にはない。
もはやクリスタは、貴族の特権である魔法を使うことさえも叶わない。
そうやって暴れている間も、周囲の人間が、揃ってクリスタを見下していた。
侮蔑、嘲笑、哀れみ。
今にも連れて行かれそうな彼女に向ける視線は、どれも悪意に満ちていた。
必死にもがく彼女を助けようとする人間は、誰一人としていない。
「私の杖をッ、返せ! 返せ、返せぇぇっ……!」
「大人しくしろ! もう、貴様は貴族ではないのだぞ。杖を持つ資格などない!」
父であるモーリスが、婚約者のポールが、他人のように背を向けて去っていく。
その中で唯一、アリスだけが、彼女を見続けていた。
広間を連れ出されるクリスタを、ひどく哀れむように見つめていた。
「さようなら、クリスタ様」
「くそっ、お前さえっ、お前さえいなければぁあああっ……!!」
学園の者だけが立ち入ることの許される、広間の扉が、徐々に閉じていく。
その最後の瞬間を、唯一哀れんだのは、敵であったアリスただ一人。
この扉が閉ざされれば、その瞬間に失う。
クリスタの爵位も、名誉も魔法も、輝かしい未来も。
全てが閉ざされてしまう。
「待って……!!」
そのことに、直前になって焦りが生まれた。兵士を振り解いて手を伸ばす。
指先の銀色の指輪が、きらりと輝いた。
だが。
学園への扉も、貴族としての人生さえも、閉ざされた。
侯爵令嬢クリスタ・ドゥ・ニーベルは、愚かな平民クリスタに堕ちたのだ。




