第94話 絶望の連鎖 志摩来栖
十数匹のレベル7の魔獣に囲まれるという即死コースの事態に、誰も悲鳴一つ上げず、ただガタガタと震えながらも、立ち尽くしていた。
動けないのはそれが合図となって、殺戮ショーが開始されるのを皆、本能で感じ取っていたから。
そんな凍結した時間を動かしたのはやはり、天津哉だった。
「クリスさん、僕の後ろに!」
天津哉がクリスを庇うように、百足女達との間に立ちはだかろうとする。
ビュッ!
瞬間、天津哉が黒い塊に横凪にされ、クリスの視界から消失する。一呼吸遅れて、クリスの右側の壁に何かが叩きつけられる音。
眼前には百足女。
「哉さん……?」
眼球だけ右側に動かすと、その壁付近には人形のように力なく伏す哉の姿を視認できた。
必死で脚を動かそうとするも、床に根を下ろしたかのようにピクリとも動かすことは叶わない。
「クリス!」
フィオーレがクリスの腰にタックルし、床へと転がる。直後、爆風が頭の一つ上を過ぎ去っていく。
ようやく、身体の自由が戻り、フィオーレと伴に全力で百足女共から距離を取り、哉の飛ばされた傍まで移動する。
「テメエ、哉を!」
怨嗟の声を上げる東条樹に、黒いドレスの女はニタァと醜悪な笑みを浮かべる。
「ちゃんと生きてるわよ。私があんたら五匹をただで殺すわけないでしょう? あんたらの最悪の想像の九割増しが理想よん」
「マジキチ女、舐め過ぎだ!」
いつの間にか、霧生先輩が黒色ドレスの女の後方から懐に入り、左手に持つ鞘から、日本刀を抜き去っていた。
日本刀の刃は黒色ドレスの女の右頸部目掛けて光の輝線を描く。
「お~馬鹿さ~ん」
刃は、黒色ドレスの右手の人差し指と親指で挟み取られていた。
「なっ!?」
絶句する霧生先輩の胸倉を左手で掴む軽々と持ち上げる黒色ドレスの女。
「ホント、下等生物って単純ねぇ~、私がこの子達より弱いわけないでしょう?」
「くそっ! 放せぇ!!」
必死で手足をバタバタと動かす霧生先輩を鬱陶しそうに眺め、日本刀を先輩から取り上げると、
「~っ!!」
先輩の左肩に日本刀を深々と突き刺した。
「さあ、どんな声で鳴いてくれるのかしら~?」
黒色ドレスの女は肩深く穿孔した日本刀をゆっくりと捻り上げる。
「――!」
グシュ!
霧生先輩の肉が裂かれ、潰れる音。刀を突き立てられながら肉を抉られているんだ。想像絶する痛みだろうに、先輩は顔を苦悶に歪めるだけで悲鳴一つ上げない。
「明美!」
霧生先輩に駆け寄ろうとする東条樹が、即座に百足女に羽交い締めにされる。
「痛いんでしょ? 我慢は身体に毒よぉ?」
「死ね!」
霧生先輩唾が吐きかけた唾が、黒色ドレスの女の頬に付着する。
黒色ドレスの女は、少しの間目を見開いていたが、忽ち額にみみず腫れのような青筋を浮かばせる。
「お前ぇ――」
怨嗟の声を上げつつも、霧生先輩を睥睨する黒色ドレスの女。
「こんな……テロを起こしたんだ。協議会も……確実にでばってくる。あんたらは……もうおしまいだ。精々、豚箱の余生を……楽しみな」
据わり切った目で霧生先輩を見上げつつも、日本刀の柄から手を放すと、右拳を握りしめる。刹那、クシャッと潰れる音。霧生先輩の形の良い鼻は折れ曲がり、鮮血が飛び散る。
「黙れよ。下等生物!」
「くはっ……ゴホッ……くく……」
血で咳き込みながらも、笑い始める霧生先輩に、黒色ドレスの女は、火のような怒りの色を顔に漲らせていたが、直ぐに口端を吊り上げる。
「あ~ん、いい事思付いちゃった」
黒色ドレスの女は、右手に真っ赤な細長い針を生み出す。
「これ、な~んだ?」
「……」
訝しげに眉を顰める霧生先輩に、顔を醜悪に歪める黒色ドレスの女。
「これはねぇ~」
突如、霧生先輩の蟀谷に突き立てる。
「かはっ!」
ビクンと痙攣する霧生先輩。
「明美ぃ!!」
百足女に抑えつけられながらも、絶叫する東条樹。
「放せぇ!!」
狂ったようにもがく東条樹を目にして顔を恍惚に染め上げる黒色ドレスの女。
「――秘密を話したくなる術。まあ、尋問は拷問が基本だから、邪道なわけだけどぉ~」
秘密? そんな事にどんな意味が? 黒色ドレスの女の意図が読めない。
「さ~て、メス、お名前は?」
「霧生……明美……」
霧生先輩の口から、壊れたラジオのような何の感情も籠っていない機械のような声が発せられる。
「お前が今一番、隠したいことはな~に?」
「彼奴を……考えると心の制御が……利かなくなること……」
脂汗を垂らしつつも、苦悶の表情で口を開く霧生先輩。
クリスが霧生先輩の立場でも、人に聞かれたくない想いくらいある。だから、わかる。これは、決して聞いてはいけない事柄だ。
黒色ドレスの女から指示でもうけていたのだろう。クリスが一歩踏みこむと、百足女の一体が牽制するかのように、ブンッと尾を振り回す。
その尾の旋回によって生じた暴風のような風圧で、数人が床を転がる。クリスは片膝を尽きつつも、何とかその場に留まろうとした。
そして、無常にも悪魔の尋問は続く。
「もっと詳しく」
「彼奴に……好きと言われたい。彼奴に……抱きしめて……もらいたい。彼奴に――」
「あ~、その手のビッチ発言はいらないわぁ~、私が聞きたいのはもっと黒くドロドロした話よん」
必死の抵抗からか、口から獣のような呻き声を上げる霧生先輩。その口からは血が滲んでいた。
「彼奴に……自分の気持ちを素直に向けられる明日菜が憎い。当然に、彼奴の隣にいる明日菜なんていなくなればいい」
霧生先輩の目尻には涙が浮かんでいた。同じ女として、先輩の悔しさは痛いほどわかる。こんなのあんまりだ。
「……いつもそうだ。明日菜は全て手に入れる。あたしが入りたかった《夢妙庵》も、そして彼奴も……」
遂にポロポロと大粒の涙を流す霧生先輩を視界に入れて、言い表しようのない憤りが湧き上がり、全身に充満していく。
霧生先輩は、日本刀で刺されても、悲鳴一つ上げない人だ。その彼女が、幼児のように泣いている。この想いは、多分先輩自身にとって決して認めたくはない事実だったのかもしれない。
「それじゃ、メインディッシュ~」
もはや人間とは思えぬほど顔を嘲笑により異様に歪ませると、
「その彼奴ってだ~れ?」
先輩に対する死刑宣告に等しい質問を投げかける。
「……うあぁ……」
「明美ぃ! 腐れ外道! 貴様は、絶対にぶち殺す。肉の一辺も残さず殺してやるぞ!」
必死の抵抗を試みる先輩に、凄まじい憎悪と憤怒でもがき、声を張り上げる東条樹。
「は~い、その負け犬チンを黙らせなさい」
黒色ドレスの女がさも可笑しそうに嫌らしい笑み顔一面に漲らせながらも指示を出すと、百足女は東条樹の太腿に百足の歩肢の爪を突き立てる。麻痺毒か何かなのだろう。東条樹は数回痙攣すると、身体中から抵抗が消え、力が抜けてピクリとも動かなくなる。
「じゃあ、気を取り直して。
彼奴って誰かな?」
右耳に手を当てる黒いドレスの女。
「ぐ……」
傍のフィオーレに視線を移すと、軽く頷いてくる。
これ以上、彼女の誇りを傷つけるわけにはいかないし、東条樹の想いには報いなければならない。それが無力なクリス達に残された最後の意地だ。
クリスのとっておきの魔術なら、目標に命中すれば、霧生先輩を救うことができるはず。そう、命中することができるなら。
「さ……」
指を動かし、魔術の魔術文字を描き始める。
《文字魔術》――言葉の詠唱を必要とせず、宙に文字を描くことを詠唱の代わりとする【特殊系魔術】。【特殊系魔術】は、一般の【基礎系魔術】と比較し、その実現し得る奇跡も希少さも別次元のものだ。
このレア魔術、ある事件の際に、クリスのみ発現した魔術種であるが、当然のごとく、志摩本家により秘匿するよう命じられている。公共の場で許可なく使用すれば、クリスやお父様達にはペナルティーが加えられるのは確実。
でも――。
「《紅刃雨》」
フィオーレがボソリと呟くと、黒色ドレスの女の上空に幾つもの紅の刃が生じ、高速で落下する。
紅の刃は、黒いドレスの女の全身に夕立のように降り注ぎ、その身体に触れると霧のように霧散する。
「あ?」
霧生先輩から視線を外し、上空を見上げる黒色ドレスの女。
よし、気が逸れた!
(《文字魔術》――《絶界》)
霧生先輩の全身を紫色の薄膜が包み込む。この《絶界》の効果は単純明快。一定時間ではあるが、あらゆる魔術やスキルの効果を無効化し、物理攻撃を受け付けなくする。
霧生先輩の蟀谷に突き刺されていた細針は塵となり消滅すると同時に、先輩は糸の切れた人形のように力を失う。意識を失ったか、それとも、力が抜けただけか。いずれにせよ、これで、奴は先輩に何もできなくなった。
「スキル遮断系の術か……」
舌打ちをすると、霧生先輩を放り投げ、
「せっかくいいところだったのに……たっく、どいつもこいつも、私の楽しみの邪魔しやがって!」
再度髪をガリガリ掻き始める。
ヒステリックな声を上げつつも、パチンッと指を鳴らす。
「あ~、もうむかつく! その二匹も取り押さえなさない」
瞬間、背後から凄まじい力で後ろ髪を掴まれ、床に叩きつけられる。
鈍い痛みが顔面に走り、押し潰されるほどの生温かい息が首筋にかかった。僅かに頭を動かし、背後を振り返ると耳元まで裂けた口に鋭い牙を有する上半身の裸の女に、下半身が百足の化け物がクリスに真っ赤な瞳を向けていた。
「下等生物共、今からお前らの中から一人ずつ、この子達の餌にする。私に逆らったそこに転がっているメス二匹を恨みなさい」
「く、狂ってる!」
この女は正真正銘の狂人だ。もはや、発想が人じゃなく、物語中にでてくる悪魔や怪物のそれだ。仮に、この女が怪物の現身だと言われても違和感なく受け入れられる。そんな気がする。
「誰が良い? 指差しなさい。心配しないでぇ~。まだ時間はあるし、一匹ずつ足先からゆっくり齧ってもらうから」
「止めなさい! 私が餌にでも何でもなります」
冗談じゃない。また、クリスの行為により人を不幸にするなど真っ平だから。それなら、クリス自身が犠牲になる方が遥かにましだ。
「駄目よぉ~、お前達、ここまで私を怒らせたんだし、そんな楽な殺し方するわけないっしょ? アジトで、じっくりたっぷり絶望の時間を味あわせてあげる」
無表情でクリスを一瞥すると、黒色ドレスの女は、微笑を造り、会場をグルリと眺め見る。
「では~、生贄選定ターイム! この機会に普段から気に入らない奴をぶっ殺しちゃいましょう!
五、四、三、二、一――」
当然だが、この場にいるのは新米とは言え、探索者。仮に裏切って生き延びたとしても、同胞を売った背徳者として、探索者としての未来は断たれたのも同然だ。誰も手など上げるはずもない。
「あ~あ、そんな反抗的なことしちゃう? いいわ。見てれば気など変わるだろうし。一匹目は私が選んであげる」
黒色ドレスの女は、グルリと部屋中を見渡すと、
「そこの正面のメスを部屋の中心に連れて来なさい」
《黒姫》に人差し指の先を向けて、そう命じる。
「わ、私!? や、やだぁーっ!!」
絶望の声を上げ、後退しようとするが、瞬きをする間もなく、《黒姫》の背後に移動した百足女の一匹が、彼女の身体を掴むと中央へ跳躍する。
床に放り投げられるも、《黒姫》は腰を抜かしたのか、張ったまま逃げようとするが……百足女の片腕で足首は掴まれ軽々と持ち上げられてしまう。
《文字魔術》の《絶界》のルーンを描こうとするが、百足女の歩肢の先の爪に刺されてから、指先一つ動かすことが叶わない。
「やだ、やだ、やだぁ!!」
泣き声が静まり返った絶望が渦巻く会場中に響き渡り、百足女の口が大きく裂け、《黒姫》の足首を口元へと運んでいく。