第80話 悩みと決意 クリス
帝都大学――探索学部の図書館の片隅の席につき、本を眺めつつも志摩来栖は何度目かになる深い溜息を吐く。
本に羅列されている文字は網膜を通して脳が認識してはいるが、今の来栖にとって全く無意味な記号的な意味合いしかない。
来栖の頭にこびりついて離れないのは、今朝のあのショッキングな光景。
先週、妹のカリンから、ケントとマリアの誕生日プレゼントについての相談を受けた。何でも、お父様達に内緒でバイトをしたいらしい。カリンは一度言い出したら聞く耳を持たない。
心配ではあったが、もうカリンも高校生、世間を知ってもよい年齢だ。
丁度都合よく、帝都大に通う友達からファミリーレストランのバイトの話を聞いたことがあった。何でも、制服が可愛いし、店長を初めとするスタッフも親切で、優しく働きやすい環境らしい。
バイトの委細を調べてカリンに助言すると数日後、バイトの採用が決まったと大喜びしていた。我が妹ながら、その行動力の高さには改めて驚かされる。
バイトの件につき、執事の半蔵さんに協力を願い、お父様達には秘密にしてもらう。
そして、今朝がカリンの初めてのバイトの日。朝食のときから、ガチガチに緊張していた。
カリンにハンカチを持たせようと、門を出たところで、あのシーンを目にしたのだ。
カリンを泣きそうな顔で抱擁していたのは、親同士が決めたクリスの婚約者だった。
「クリス、ごきげんよう。ここ、空いてる?」
金色の長い髪をポニーテールにした美しい少女が軽く会釈してくる。
彼女はフィオーレ・メスト、イタリアからの留学生であり、同じ帝都大探索学部の二階生。探索学部でもトップレベルで優秀な一人。挨拶はよくするが、話しかけても会話が続かないことが多く、友人関係であるほど親密という訳ではない。
先月行われた《世界探索者選手権――大学の部》の国内予選において、クリスはベスト4まで勝ち残ることができた。代表に選抜されるのはほぼ確定だろう。日本代表となれば、きっとあの人も目にすることになるのだ。絶対に、不甲斐ない結果は許されない。普段なら、鍛錬に勤しんでいる時間だ。なのに、今、クリスが図書館にいるのは、一人になって色々考えたかったから。だから、内心を独白すれば、今、このときだけは一人でいたいのが偽りのない本心。
しかし、断ればきっと彼女を傷つける。
「ごきげんよう、フィオーレさん。そこ、空いてますよ」
出来る限り爽やかな笑顔を作り、返答する。そんなクリスを見て、フィオーレはほっとしたように固い表情を崩し、クリスの対面の席に座る。
彼女は、熱心に本を読み始める。
正面にいるのだ。否応でも彼女の熟読している本が視界に入る。
――『攻撃的結界術』、他にも、『結界系スキルや魔術』、『溶解術』、『呪術と解呪方法』の基本書がフィオーレの前に積まれている。
全てが、結界と呪いについて。結界は探索者としても、研究者としても、今の現代社会では最も基本で重要な知識。だから、彼女が読んでいること自体何ら不思議はない。
しかし、知識獲得目的にしては、彼女の様相が聊か真剣過ぎる。
「フィオーレさんは、結界についてご興味がおありなんですか?」
だから、遂、尋ねてしまった。
フィオーレは顔を上げると、暫し唇に指をあてて考え込んでいたが、
「うん」
そう端的に答えると、再度視線を本に落とす。
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フィオーレが正面にいたせいか、モヤモヤした気持ちはあったものの、数時間、余計な葛藤は考えないで済んだ。
後、四五分ほどで次の授業の時間だ。少し早いが教室に移動しておくことにする。
本を閉じて、席を立ち上がろうとすると、フィオーレが神妙な顔でクリスを凝視していた。
「それではお先に失礼――」
軽く会釈して立ち上がろうとすると、
「相良悠真さん、相良小雪さんの名前に心当たりある?」
「っ!?」
今まさに頭から放れないその名を問われて、心臓が激しく鼓動する。
「知っているようね。そして、事情は知らされていない……全て叔父様の推測通り……」
「ど、どうしてっ!?」
フィオーレが生真面目な一点の曇りもなさそうな眼でクリスを射抜く。
「全てお教えるわ。多分、貴方にとって辛い話になるけど、いい?」
辛いこと? そんな状況にあの二人が置かれているということか? そしてそれは、フィオーレ・メストにとっても無関係ではないこと。
「教えて!!」
焦燥からか、自身の裏返った声が図書館内に反響する。
フィオーレは、軽く顎を引くと歩き始める。
おそらくついて来いといことだろう。確かに、図書館内で話せば、注意ぐらいされる。ただでさえ、さっきのクリスの大声で司書の視線が若干、痛い。
図書館を出て、校舎の屋上の隅のテーブルまで移動し席につく。
この屋上は高いフェンスに囲まれた空間で、幾多もの円形のテーブルと椅子が置いてあり、春や夏には学生達の憩いの場所となっている。
もっとも、今のこの寒空にわざわざこの場所で食事をする酔狂な人間もいないのも事実。まさに、話をするにはうってつけだろう。
「私も叔父様の資料の一部を偶然目にしたにすぎない。だから、全てを知っているわけではない。それでもいい?」
「……」
無言で頷くクリスにフィオーレはゆっくりと話し始める。それはクリスにとって耳を塞ぎたくなるような悪夢のような事実だった。
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フィオーレの話が終わり、冬に突入した寒空にもかかわらず、滝のような汗が全身から流れ出ていた。
否定はしたい。今すぐ、フィオーレの言葉が全て偽りだと叫びたい。でも、反面、今まで納得いかなかった疑問が見事に氷解していた。
二年前、ユウちゃんから突然、離別の宣言の手紙を突き付けられた。
手紙の内容は、ユウちゃんの叔父様と叔母様が交通事故でお亡くなりになり、コユキちゃんが想像以上にショックを受けて精神を病んでしまい、部屋から出なくなってしまった。コユキちゃんが真の意味で立ち直るまで、決して会わないで欲しい、そんな内容だった。
こんな手紙の内容など無視して、会いに行こうと何度思ったかもわからない。
だが、最後に書かれていた一文は、クリスをその度に思いとどまらせた。
『今の小雪の姿をクリス姉達に見せたくはないし、小雪も見られたくはないだろう。そして、俺だけクリス姉達と会う気にもなれない。絶対に俺達兄妹に会いに来ないでくれ。
もちろん、小雪が治り次第俺達の方から会いに行く。だから、そのときまで待っていて欲しい』
クリス達はこの言葉を信じ、会いに行くまいと心に決めた。
小雪ちゃんが精神を病んでいるなら、クリス達と会わないと決断することも、その間、ユウちゃんがクリス達に会おうとしないことも、実にユウちゃんらしい判断だったから。
それでも一度、遂に耐えられなくなり、一目見ようと『府道駅』で降りたこともあった。しかし、駅前で半蔵さんから電話が入り、急な会食の予定が入ったと告げられ、会うことは叶わなかった。
そうこうしているうちに、既に二年だ。日々の秒刻みの殺人的な忙しさからユウちゃんの事を考える時間は減っていく。会えないという事実に慣れていく。その事実がどうしょうもなく許せなかったが、無常にも時間だけは過ぎて行った。
でも、最初から不自然さはあったんだ。
相良夫妻の葬式は事故死の次の日になされた。当時、丁度、クリス達は《アシュパル》の親戚の家に遊びに行っており出席はできなかった。しかし、通常の事故死なら葬式の出席者確保のため、一日くらい空ける。次の日にする必要まではない。
それに、お父様達の性格なら、家族ぐるみの付き合いをしていたクリス達を、何よりも優先させて帰国させていたはずだ。
そもそも、クリス達がアシュパルを訪問している間に相良夫妻が死亡するなど、偶然にしては出来過ぎている。
ユウちゃんの家を訪れようと、『府道駅』で降りた途端、半蔵さんから電話が来たことも、改めて考えるとあまりにタイミングがよすぎる。これも、お父様が半蔵さんにクリス達をユウちゃんに会わせないよう命じていたなら納得がいく。
全ての不自然な事実が、一本の線となり、フィオーレの言葉が真実であると告げている。
クリス達が《アシュパル》へ出立したのは、《上乃駅前事件》の一週間後。要するに、事件で死亡した相良夫妻の葬式の最中、クリス達は《アシュパル》へ追いやられたのだ。
手紙が届いたのは、クリス達が《アシュパル》から帰国した数日後、時期的にも合致する。
つまり、相良叔父様と叔母様が亡くなり、コユキちゃんが意識不明となり、ユウちゃんが絶望のどん底にいたとき、クリス達はアシュパルでバカンスを楽しんでいたということか……。
あの事件の生き残りに対するマスコミの反応は痛烈だった。つまり、ユウちゃんの手紙はその意志ではなく――。
「ふふ……」
口から出たのは、自責の念でもなく、悔恨の言葉でもなく、乾いた笑い声だった。
あの手紙の真意に、気付いてあげられなかった、自身の馬鹿さ加減には、心底反吐が出る。
ともあれ、あの手紙がユウちゃんの意思でないなら、クリスと会うことは、志摩家全体の意思に反するのかもしれない。それなら、クリスが会いに行けば、かえってユウちゃんが危険だ。
さらに、今朝カリンを抱きしめているときのユウちゃんは泣きそうだったんだ。まるで、迷子の子供をやっと見つけた母親の様なとびっきりの安堵と深い悲痛と後悔がその表情には含まれていたような気がする。
とすれば――。
「クリス?」
気遣わしげにクリスの名を呼ぶフィオーレさんに右手を上げる。
「いえ、大丈夫です」
色々考えるのはあと。今はフィオーレから、聞き出さなければならない。
「貴方が調べているのは、《上乃駅前事件》の真実と――コユキちゃんの難病の治療方法ですか?」
「そう」
フィオーレはクリスの目を見ると、神妙な顔で頷く。
「なぜ、コユキちゃんを治そうと?」
いかなる聖者でも、ただの正義感でこれほど真剣にはならない。必ず訳があるはず。
「贖罪よ……」
「贖罪?」
オウム返しに尋ねるクリスの疑問にフィオーレは、軽く頷いた。
「あの事件で私は親友を失った。親友の父親である叔父様は、その事実が許せず、怒りの矛先を見失い、相良悠真さんに辛くあたってしまった」
報道規制により名前が秘匿されたのをいいことに、マスコミ達はあの事件の生き残りの少年少女を連日、まるで事件の犯人であるかのように報道していた。一部で犯人捜しが始まるほど過熱していたのだ。
少年と少女は生き残っただけ。特に少女は意識不明とされていた。完全な被害者に過ぎない少年と少女に、責任を擦り付けるマスコミの一方的で愚劣な偏向報道は、不快であり、大層憤ったものだが、あの少年少女がユウちゃんとコユキちゃんならまた話は変わってくる。
ユウちゃんは、両親とコユキちゃんを事実上一度に失ったのだ。そのユウちゃんに辛く当たる? そんな恥知らずな事をする奴らを絶対にクリスは一生許せないし、そのつもりは微塵もない。
「貴方の叔父さんの御息女がお亡くなりになった事は御悔やみ申し上げます。ですが、それが真実なら、私は貴方の叔父様を許せそうもありません」
「当然ね」
寂しそうに答えるフィオーレを再度右手で制す。
「勘違いしないでください。私が許せないのは貴方の叔父様であり、知りもしなかった私自身。貴方じゃない。
少なくても貴方はコユキちゃんのために動いていてくれていた。私なんかより、数万倍ましです」
初めてフィオーレは泣きそうに、顔を悲痛に染め上げる。
「違うのよ。あの子、里香が死んだのは、私のせい。
私、《上乃駅前事件》の前日なぜか上乃動物園を訪れていたの。それをあの子に話したら、確かめてきてあげるって言って……」
「事件に巻き込まれた……」
フィオーレは俯きながらも頷く。
「私が黙っていれば、里香が死ぬこともなく、叔父様があんなことをなさることもなかった」
そうか。この子も、事件の犠牲者だった。ずっとこの二年間苦しんで来たんだろう。コユキちゃんの難病を治そうとしているのも、その罪滅ぼしから。
フィオーレは誰かに責めてもらいたいんだろうが、生憎、ユウちゃん達の状況について知ることすら叶わなかったクリスにはその資格はない。
だめ、だめ、このままでは駄目だ。
パンッと頬を両手の掌で叩く。
「コユキちゃんの治療法、一緒に探しましょう」
右手を差し出す。
「う、うん」
おそるおそる震えつつも伸ばしてくるフィオーレの右手を無理矢理握り返し、立ち上る。
クリスは現状を知らなすぎる。まずは情報の収集だろう。でも不用意に尋ねるなどもっての外。志摩家がクリス達の味方なのは間違いない。
しかし、ユウちゃん達の敵ではあるのかもしれない。クリス個人で動くしかないのだ。ユウちゃん達の敵はクリスの敵に等しいんだから。
やり遂げて見せる。そう。懐かしくも愛しい生活を取りもどすために――。




