第4話 交通事故
意識を取り戻すにつれて、独特の消毒液の匂いが嗅覚を刺激する。
医務室のベッドから、上半身を起こし、右傍を振り向くと、部屋の隅で朱里が椅子に座って眠っていた。
(なぜ、朱里が――)
疑問の解は直ぐに思い当たった。
(銀二の奴だろうな……)
銀二は、この武帝高校に入る前から、朱里と同じ塾で既知の仲だったらしく、入学当初から俺と朱里を引き会わせようとしていたように思える。
まあ、銀二と知り合ったのも奴のこのお節介にあると言っても過言ではないわけだが。
医務室の机にはご丁寧に俺の鞄が置いてある。
(これも銀二か……)
二人で帰れということなのだろが、銀二の目論みに乗ってやるいわれはない。魔力の消費が著しいせいか、頭がクラクラする。頭を何度か振り、ベッドから降りると保健室を後にした。
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《日相谷駅前》付近まで来ているのに気付く。
今の俺の頭の中を占拠するのは、朝霧朱里。
あの事件後、俺と朱里は互いに距離を置いた。だから朱里の顔をまともに目にしたのは、久々かも知れない。
(あいつ、まだあんなの……)
朱里は気が強く、しかも昔から肉体的と精神の両面において早熟だった。
幼年期、口論になった際、――お前、性格も外見もきつ過ぎんだよ――、と俺が心にもない事を不用意に口走った結果、朱里の奴は大層に落ち込んでしまった。
外見は早熟故に、可愛いというより、綺麗であっただけに過ぎない。男勝りだった幼馴染が始めてふさぎ込む様を目にして、罪悪感にとらわれた俺は、母さんにありがたいアドバイスをもらい、当時の俺の全財産をはたいて、青色のリボンをプレゼントしたのだ。まあ、若干大きすぎたわけだが、朱里の機嫌は一気に好転した。
それ以来、朱里はずっとそのリボンをつけている。無論、数年前に贈ったものだ。どんなに大切に使おうが既にボロボロ。流石に、もう捨てたとばかり思っていた。
説明不能な懐古の念が湧き上がり、首を数回振って意識を紛らわせようとすると、道路を挟んだ公園で遊ぶ兄妹の姿が飛び込んで来る。
(フリスビーか……小雪とよくやったっけな)
奇妙なノスタルジアに突き動かされ、自然と視線は固定されていた。
日本人にしては珍しい金色の髪に、雪のような白い肌。
(あの兄妹、どこかで……)
そんな疑問が脳裏をかすめたとき、男の子が投げたフライングディスクが女の子の頭上を越えて路上まで飛び出す。
女の子が兄に文句を言いつつも、路上へ駆けてくる。
(お、おい! 嘘だろ!)
高速で迫る乗用車。しかも、運転している若い男は携帯を片手によそ見中。
(くそ!)
お決まりのような展開に、内心で壮絶に悪態をつきながらも、俺の足は少女に向けて走りだしていた。
妙にゆっくり流れる時間の中、少女を抱えると、力の限り、右足を地面に叩きつける。
間一髪、俺の背後に通りすぎる乗用車の猛威。しかし、勢い余った俺の身体は砲弾のごとく、公園の柵に頭から衝突し、その意識はぷっつりと切断される。
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次第に思考にかかった靄が晴れていく。
瞼を開けると、視界一杯に、涙ぐんでいる金髪の美しい女性が映る。
「ユウちゃん。気が付いた」
「クリス……姉?」
セミロングの艶やかな金色の髪に、垂れ目でおっとりとした顔、この女性を俺は知っている。凡そ、二年ぶりだが、その優しそうな雰囲気も含め、全く変わっていない。
「よかった!」
クリス姉は俺を抱きしめると、堪えきれなくなったのか、遂に泣き出してしまう。
俺の目の前にクリス姉がいることも、彼女に今抱きしめられていることも、この懐かしくも大きな部屋のベッドに寝かされていることも、全てが意味不明で、思考が上手く機能しない。
「ユウマ!」
突如、バンッと扉が勢いよく開かれ、ぱっつん髪の少女が部屋に飛び込んで来る。よほど急いでいたのだろう。息を切らし、光沢を帯びた長い金髪は強風に煽られたように乱れていた。
「よ、よう。カリン」
二年ぶりの幼馴染に向けて俺は、右手を軽く上げる。
カリンは、俺と今も子供のように泣いているクリス姉を、その宝石のような翠色の瞳を大きく見開き、暫し眺めていたが、乱暴に扉を閉めると退出してしまう。
(あれは、完璧に臍曲げたな……)
俺の幼馴染殿――志摩花梨は、極度のシスコンだ。昔から、クリス姉の俺に対するスキンシップは、いつもアグレッシブなわけだが、その度にカリンは頬を膨らませていた。
「クリス姉。そろそろ離してくんねぇかな」
クリス姉は、ようやく俺から離れると、涙を指で拭い、横の席でちょこんと座る二人の少年、少女に顔を向ける
「マリア、助けてくれて、ありがとうは?」
クリス姉の言葉に大きく頷くと緊張気味に、ペコリと頭を下げる幼女――マリア。
「ユウお兄ちゃん、ありがと」
(そうか、このガキがマリアか……どうりで見覚えがあるはずだ)
二年の月日は、想像以上に長い。一目で、マリアとケントに気付かないほどには――。
「お前ら、大きくなったな……」
頭を撫でると、猫のように目を細めるケントとマリア。
俺の相良家と、クリス姉達――志摩家、朱里の朝霧家は親同士が仲良かったこともあり、幼少の頃から家族ぐるみの付き合いをしてきた。
あの事件以来、俺は朝霧家とはもちろん、志摩家とも極力関わっていない。理由は簡単だ。俺の相良家以上に志摩家と朝霧家との関係は深いから。
朝霧家にとって俺と小雪は、少なくとも体面上は不吉の対象だ。下手に俺と関わって朝霧家と疎遠になることを危惧したのだろう。あの事件後ほどなくして、志摩家の重鎮の一人から、もう二度と志摩家と関わるなと念を押されている。
腕時計を見ると、二二時を示している。もう、バイトの終わりの時間だ。初の無断欠勤をしてしまった。また、店長に無理難題を吹っ掛けられるかもしれない。
起き上がり、靴を履く。頭にたん瘤がある意外、異常はない様だ。むしろ、ぐっすり眠ったせいで、身体は軽くなったような気さえする。
兎も角、もう、ここは俺がいていい場所じゃない。
「介抱してくれて、ありがとさん」
「ユ、ユウちゃん、ちょっと、待っ――」
クリス姉が言葉を紡ぎ終わる前に、右手をヒラヒラふると、一瞥すらせずに、部屋を出る。
部屋の外には60台前半の白髪の老執事が俺に頭を垂れていた。
この人の名は春夏冬半蔵さん。カリン達の教育係だ。
「旦那様に、家までお送りするよう申し付かっております」
「いりませんよ」
志摩家の屋敷から、俺の家のある『府道駅付近』までは二駅であり、送ってもらうほどの距離ではない。
その脇を通りすぎて、階段へ向かおうとするが、半蔵さんは直ぐに俺の前に出ると、先導を開始する。
この爺さん、昔から異常に頑固だ。いくら拒否の言葉を吐いても、俺の家までの送迎は決定事項。笑顔でスルーすることだろう。
小さなため息を吐くと、半蔵さんの後に続く。
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結局、半蔵さんに、リムジンで自宅まで強制送還される。
今や誰もいなくなった自宅の玄関から中に入り、リビングに直行するとバイト先であるファミレス――《バーミリオン》に電話をかける。
「あ~ら、悠真ちゃん。今日、どうしたの?」
携帯から聞こえてくる華やかに澄んだ声。
「悪い、店長。今まで気絶してた」
店長には、武帝高校の学生であることは伝えている。修練等で今日の様に、稀にバイトを休まざるを得ないことがあることも。
「ふ~ん。なら仕方ないわね」
案の定、あっさり許してくれた。普通の職場なら、どんな理由があるにせよ、クビになってもおかしくはない。
「大丈夫でしたかね?」
店長は怒っていても口調が変わらない。皆にどの程度の迷惑をかけたかが不明なのだ。正直気が気じゃない。
「今日が平日だったのが幸いしたわね。明日だったら、完璧にアウトだったでしょうけど」
良かった。これで皆から恨み節を吐き出されることもなくなった。彼奴ら、マジで容赦ないからな。
「あとで、必ずこの埋め合わせはしますよ」
「悠真ちゃん。その言葉を待ってたわ。じゃあ、さっそく代わりに明日からの四連休出てちょうだい」
「それはちょっと……四連休は、俺にも予定が……」
俺は来週金曜の実習試験に勝利しないと、十中八九、退学だ。生活費も大事だが、退学になったら元も子もない。今は修行にだけ専念したい。
「そこを何とか頼むわぁ~。明日、バイトの新人の教育係をお願いしたいの。悠真ちゃん以外、任せられる人いないのよ。わかるでしょ?」
「あぁ、そういうことですか。確かに無理でしょうね……」
《バーミリオン》のスタッフはよくも悪くも、全員灰汁が強すぎる。新人に懇切丁寧に教えるところなど想像もつかない。唯一、真面な人が、一人いるにはいるが、彼女はフロアのまとめ役。あの濃い連中の制御は彼女しかできない以上、新人教育などしている余裕はあるまい。
「頼むわよぉ。一生のお・ね・が・い」
「店長、その一生のお願い、何度目ですか?」
「まぁ、そう固い事言わないのぉ。もし、引き受けてくれるなら、来週のバイトはお休みにしてあげる」
「来週、俺、バイト休みのはずですが」
俺にとって今度の実習は生命線だ。当然に来週、休みをもらっている。
「焦らないの。来週、私のマイフレンドに貴方の修行を取り付けてあるわ。どう?」
「マイフレンド……その人、強い人なんですか?」
「ええ、とんでもなくね」
店長は嘘や冗談が殊の外嫌いだ。どんな失敗でも、正直に包み隠さず報告すれば大抵許されるが、一度でも、偽りを述べれば大目玉が待っている。俺はその現場を何度も見ている。店長のマイフレンドなる人が、かなりの強者なのは間違いない。
それに、今更自身で数日修業しても、何も得られない可能性の方が高い。今は新たな可能性にかけるのがベストか。
「わかりましたよ」
「引き受けてくれてありがとう。明日の八時半に店まで来てちょうだい」
「了解しました」
電話が切れ、携帯を放り投げ出すと、ベッドに仰向けに横になる。
一度、強制睡眠の旅に出向したからだろうか。とんでもなく眠い。
(数時間なら構わない……よな……)
重たい瞼が閉じていき、暗闇が俺の意識を塗りつぶした。
お読みいただきありがとうございます。
まだ、死にませんでした。もう少し日常シーンが続きます。期待した方すいません。