第8話 迷い込む偶然の幸運
その日、美夜子の頭の中は、どうやって、この絶望的な状況を切り抜けるか。それだけに終始占拠されており、授業の内容はおろか、教室中の話題を独占している四界とやらの使者の話も、取るに足らないものとして、頭の片隅に追いやられてしまっていた。
あの父の有無を言わせぬ姿からも、美夜子が今更何を言おうと、翻意はすまい。お父様は、そのシーカーとの結婚が美夜子の幸せに直結すると本気で考えている。それこそ、悠真君自身が、パーティー会場でお父様を説得でもしなければ、話さえ聞いてもらえないだろう。
だが、そんな奇跡が叶うなら端からこんなに悩んでいない。あの過去の出会いを覚えていない悠真君にとって、美夜子はただの見知らぬ先輩だ。しかも、一色至を始めとする生徒会の役員が、過去に数回、悠真君を公然と侮辱したことの報告は受けている。先週、話した際も、悠真君からは苦手意識を持たれている印象があった。無理に決まっている。
昼休みでの生徒会室でのやりとりは、ほぼ美夜子の予想通り――いや、想像以上に愚かで、馬鹿馬鹿しいものだった。
美夜子の悠真君への《世界探索者選手権》国内代表予選の出場の要請に、役員達の大部分が反対する。
彼は、レベル3以上。レベルの存在すらも知らぬ素人集団とは、もとより格が違うのだ。彼なら、十中八九、卒業と同時にサーチャーの資格を獲得する。もしかしたら、本当に将来、世界に三百人そこらしかいない探索者の頂点たる《シーカー》にさえ至れるかもしれない。
今度の《世界探索者選手権》国内代表予選は、武帝高校の威信がかかっている大会だ。本来なら、学校を代表して生徒会が悠真君に、出場してくれと頭を下げて頼むところなのだ。そして、それは、体育連、文化連、風紀委員の共通見解。今更、生徒会だけ反故にすることなどできないし、仮にそれをすれば、三者から今後そっぽを向かれる。それだけじゃない。学校側は既に悠真君がレベル3以上であることを認識している。国内代表選で是が非でも負けられない学校側からも、それなりの圧力があることだろう。
要するに、あらゆる意味で、とっくの昔に決まった事項なのだ。それを悠真君がDクラスという理由のみで、現在の実力を実際に確かめようともせず、唯々諾々と不満を述べる役員達。これでは、固定概念に凝り固まった他のエリート崩れと変わらない。仮にも、生徒会は、武帝高校最高の人材を謳っている。これ以上、失望させないで欲しい。
美夜子の片腕たる一色萌奈香が上手く場をまとめたことにより、混乱は終息し、そして、奇跡が起きた。悠真君に食事に誘われたのだ。
少しの間、さも美味しそうにカレーを頬張る悠真君を、頬杖を突きながらも眺めていた。瞳一杯に悠真君を見つめることができるという現実だけで、みっともなく、胸が躍るのを自覚する。
だが、今は、一時の至福に流されているときではない。ここで選択を間違えれば、美夜子は間違いなく一生後悔するから。
「気を遣わせてしまったみたいで、御免ね」
謝意を述べ、頭を深く下げると、
「だからさ、今日のあんたは謝り過ぎだ。あんたらしくねぇんだよ」
そんな美夜子にとってどうしょうもなく嬉しい言葉を言ってくれた。
「かも知れないわね」
だから、極力感情を顔に出さないように頷く。
「余計なお世話かも知れんが、あんまり、一人で背負い込まないほうがいいぞ。あんた等、一般の学生の立場なら大抵のことは何とかなるものさ」
何とかなるか……確かに美夜子が普通の家庭に生まれていたら、こんなふざけた悩みなど微塵も抱かずに自身の恋に邁進できたかもしれない。
でも、それは、小雪ちゃんという救うべき妹がいる悠真君も同じ。だから、通常なら子供が背伸びしたようにしか感じないこの悠真君の発言からは、十分すぎるほど重みと実感が伝わってきた。
だから――。
「君の台詞、まるで、自分が一般の学生じゃないみたいね?」
これを尋ねたのは、あの過去の思い出を忘れてしまった薄情者に対するただの意地の悪い意趣返し。
「それで要件は?」
案の定、悠真君から温かみの一切が消失し、先週会ったときのような鉄壁の距離感を作り出す。
「いきなり、本題なのね」
「……」
「はい、はい。話すね」
こんな警戒されかねない疑問をふっておいて、不貞腐れるなど、およそ人間として失格だ。なのに、どうしても、今日は気持ちのコントロールが上手くいかない。
(私、おこちゃまか!)
自身に罵声をあびせながら、口を開こうとすると、悠真君が一足早く、今回の表向きな議題の《世界探索者選手権》につき尋ねてきたので簡単に説明する。
「俺のメリットは?」
(どういうこと? 悠真君の目的はサーチャーになることではないの?)
この問いは、想定外のものだった。だって、悠真君は、小雪ちゃんの治療を必要としている。その目的達成ためには、サーチャーになることは必須。《世界探索者選手権》出場選手には、サーチャーの実技試験が免除になるという特典があることは周知の事実。さらには、有名な探索者ギルドへの就職も可能となる。今の相良君にとって、喉から手が出るほど必要としているはずだから。
思考の渦に呑まれている美夜子に、悠真君はテーブルに一〇〇〇円札を乗せると、立ち上がる。
「食事付き合わせて悪かった。じゃあな」
端的にそれだけ告げて、悠真君はトレイを持って席を放れようとする。
「待って!」
咄嗟に口から悲鳴にも似た言葉が吐き出される。当たり前だ。ここで、悠真君に選手権の予選の代表選手入りを拒否されれば、説得を引き受けた生徒会の今後の学内での発言力は激減する。美夜子も生徒会の長。自身の不甲斐なさにより、組織を貶めるなどあってはならない。
何より――。
「何だ? もう話すことはないはずだが?」
「貴方の希望する対価を教えて?」
彼には果たさなければならない目的がある。ならば、望むべき対価はあるはだ。
「あんたが俺の出す条件をすべて呑むなら、今度の日本代表の選手権出てやるよ」
無論、悠真君の目的が俗物的なもののはずがない。陰からずっとみてきたのだ。そんな人じゃないことくらい十分にわかっている。
でも、どうしても期待してしまう。そんな自分に吐き気がするが、これは美夜子の唯一ともいえる願望だ。だから――。
「わ、私にできることなら」
口からそんな震える言葉が紡がれていた。
「簡単なことさ。全部、お前に実現可能なことだ」
「な、何?」
息をするのを忘れて、緊張で痺れた舌を動かしそう尋ねる。
「まず、お前が過去に得て、未来に得るであろう今後の一切の俺についての情報の不開示。そして、俺が今後もこの学校で目立たないように全力で協力してもらいたい」
「それ……だけ?」
悠真君は、自身の力を人前に晒すことを極端に嫌っていた。自己を隠そうとするのは、探索者――いや魔術師にとって最も大切なものだと、師から教わっている。だから、この要求は別に奇異なものではなく、予想の範疇。だからこそ、その落胆は大きかったのかもしれない。
「それだけとは、随分簡単に言ってくれるな。既にお前が俺について得た情報も隠蔽しろと言っているんだ。八神達を説得させなければならんわけだし、結構大変だと思うぞ?」
(私の気持ちも知らないで――)
理不尽だとはわかっている。それでも、こうして悩んでいる元凶の人が、美夜子という個人を無視していることが、この時、ひたすら悔しく許せなかったのだ。
バンッと両手の掌でテーブルを叩き、コップを掴むと席を外す。
給湯室へ行くと、両手の掌で頬を叩く。あの鈍感、朴念仁にはもう期待はできない。どうせ、悠真君は美夜子に一定の警戒をし、心を開いてはいない。なら期待に応えてやろうじゃないか。徹底的に――。
席に戻り、にこやかな顔で――。
「頼みたいことがあるの」
そう口火を切った。
「だから、それはお前次第――」
「世界選手権の国内予選は出てもらいます。貴方に頼みたいことはまた別のこと」
「何勝手な事言ってやがるっ!」
悠真君の顔に、僅かな焦りが混じる。
「私の願いが聞き届けられないなら、貴方が、石櫃教官に勝利したことを全校生徒に触れ回るわ。私の言葉なら、誰もが信じると思うけど?」
「お、お前、俺を脅すつもりか?」
脅すよ。例え嫌われようと、このまま顔も知らない男性と添い遂げるのだけは嫌だ。
「御免ねぇ~、私も背に腹は代えられないのよ」
「頼みたいこととは?」
ウンザリしたような顔で悠真君は、そう尋ねて来る。
「私の恋人になって」
これが本心だけど……。
「はい?」
「正確には、今晩、恋人のふりをして欲しいの」
既に一時はお父様を説き伏せたのだ。悠真君と美夜子が公共の場で、説得すれば翻意することも可能かもしれないから。それに、そのシーカーに心があるなら、思いとどまってもらえることも期待できる。
「恋人のふりをする理由は?」
「今晩パーティーで、あるシーカーと婚約させられそうなのよ」
「婚約? 話が欠片も見えないが?」
「神楽木家が欲しているのは、そのシーカーの持つ血よ」
「血? それってまさか?」
「想像通り。私にそのシーカーの子供を産めってわけ。最悪、婚約ができなくても、そのシーカーの子供だけは産め。多分、それが神楽木家の意思だと思う」
「系統能力遺伝ってやつか?」
「そう。いわば、優秀な形質を有する魔術師の開発」
お父様とお母様の真意は兎も角、神楽木家全体がこの度の婚約を推し進める最も大きな理由は、それだろう。
とは言え、シーカーを一族に迎え入れる事による権威の増強の意味もあると思う。シーカーとは、世界の魔術師や超能力達の頂点。いかなる性格破綻者でも、一定のルールを守る限り、莫大な富と名誉が約束される。そんな資格だから。
「お前の家、マジで鬼畜だな……」
「それが真面な神経の持ち主でしょうね」
鬼畜か……悠真君の立場ならそう思うことだろう。でも、個人の心よりも一族の未来の可能性をとるのは、古来からの魔術師の系譜にとって至上の命題であり、美夜子には否応でも理解できてしまってもいた。
ともあれ、美夜子の一世一代の賭けは――。
「恋人のふりくらいいくらでもしてやるが、本当に俺でいいのか? 俺は、二年前の事件の相良悠真だぞ」
実にあっさり成功した。
「あ、あくまで仮の恋人だからね。単なる仮定の話よ、そう、あくまで仮定の話……」
壮絶に舞い上がり、自身が何を話しているのかも判然としない。そんな中、高鳴る心臓の鼓動を必死で抑えつけながら、心にもない事を呟いてしまっていた。
「当たり前だ。俺だって、お前の種馬役など御免被る」
「そう……」
この悠真君の言葉により、浮かれていた心に亀裂が入る。それもそうか。悠真君にとって、美夜子など、所詮武帝高校の先輩、しかも、自身を散々侮辱してきた生徒会の長。本来なら敵対されてもおかしくはない。そんな相手なら、実に当然の返答だろう。
もしかしたら、受け入れてくれる。そんなあり得ない妄想に期待してしまった自分が情けなくて、歯を食いしばって、泣くのを必死で我慢する。
「単なるジョークだよ。悪かったって」
そんな時、美夜子の頭にあの懐かしくも優しい感触がした。夢で幾度となく再現されきた、至福の行為。
「……」
全身からマグマのように熱が放出され、自身の肌が真っ赤に熟したトマトのように赤く染め上げられているのを自覚する。同時に湧き上がる幸福感。
なぜか、居ても立っても居られなくなり、席を勢いよく立ち上がっていた。
「お、おい? どうした?」
「わ、わ、私、よ、よ、用事あるからっ!」
ドモリながらも、本日のパーティー会場の近くである新塾駅西口改札前で待つように告げると、逃げるように悠真君に背を向け歩き出す。




