第100話 やっと会えたな――フィオーレ
フィオーレの頭蓋を縦断せんと振り下ろされる黒色ドレスの女の右腕。
迫る十字の釘の剣は、フィオーレに届くことはなく、その握る右上腕ごと宙を舞う。
「なっ!?」
驚愕の言葉を紡ぐ間もなく、黒色ドレスの女の身体が横凪され、フィオーレの視界から消失した。直後、落雷のごとき轟音が鼓膜を痛いくらいに震わせ、爆風が会場中を吹き荒れる。
会場に舞い上がる破壊された床の細かな破片により遮られていた視界が晴れる。
眼前に気配を感じ、フィオーレは目を凝らすと、そこには、闇と悪意の塊がいた。
その姿を網膜が映し出し、刺すような顫動が背中を駆け巡り、思わず息をのむ。
黒色の上下の衣服を着こなす黒髪の少年が、吸い込まれそうだが恐ろしいほど鋭い黒色の瞳で、黒色ドレスの女を睥睨していたんだ。
(あ、あれ、何……?)
――全身をゆらゆらと陽炎のように覆う濃密な黒色の靄も。
――耳元まで口角を吊り上げた悪鬼のごとき形相も。
――右手に握る銃身の長い黒色の銃口と左手の闇色の刀身の刀も。
(バケモノ……)
実に陳腐な感想しか出て来やしない。翼と角の生えた黒色ドレスの女よりも、フィオーレには彼が、かつて父に枕元で読み聞かされた御伽噺にでてくる化け物に見えた。
そして、それは多分この会場の共通見解。その証拠に、誰も一言も口を開くことすらせず、黒色の怪物を瞬き一つせずに凝視している。
「やっと会えたなぁ、ファッキン女。
立てよ。お前らのゴキブリ並みの生命力なら大してきいちゃいねえだろ?」
ゾッとする魂を握り潰されるかのような怨嗟の声。
「ユウ……ちゃん?」
クリスの当惑に彩られた疑問の声。
ユウちゃん? 彼が相良悠真? 叔父様の資料とクリスの話から読み取れる人物像は、早熟ではあるが、年相応の悩みを抱く少年にすぎなかったはず。あんな――。
「待ってろ。直ぐに終わらせる」
クリスに視線さえ向けずに、相良悠真は銃口を黒色ドレスの女の突っ込んだ瓦礫の残骸へと向ける。
「カスがぁっ!!」
黒色ドレスの女は、瓦礫の中かから、激高し、双方の眼球を真っ赤に血走らせながらも立ち上がろうとするが――。
「ぐほっ!」
まさに瞬きをする刹那のとき、黒色ドレスの女の身体は、クの字に折り曲がり、相良悠真の左脛が奴の鳩尾に深く食い込んでいた。
そのまま、相良悠真は、そのまま黒いドレスを天井目掛けて蹴り上げる。
「ごぼおぉぉ!!」
黒色ドレスの女は、吐しゃ物を撒き散らせつつも、会場の天井付近まで驀進する。
そして、その背後に姿を現した相良悠真の肘鉄が、その後頭部に打ち下ろされた。
ゴギャッ!――骨の砕ける音。奴は床に頭部から叩きつけられ、落雷のような鳴動と共に蜘蛛の巣状のクレーターを形成する。
会場中に訪れたのは、危機的状況が去ったことに対する安堵の声でもなく、自身達を助けてくれた少年に対する声援の声でもない。ただの、凍るような静寂だった。
誰も彼もが到底あり得ない風景を阿呆のようにぼんやりと眺めている中、相良悠真は悠然と黒色ドレスの女に近づいていく。
国家代表部門のエース――東条円香と四童子八雲を圧倒した黒色ドレスの女の強さは本物だった。
《世界探索者選手権》は、四年間に一度開催される世界の探索者のトップを決める祭典。【探索者】という存在が国家システムの重要なファクターとして取り込まれている現代社会において、この大会に勝利することの意味は、国家や組織の威光を示すことに他ならない。
当然、この大会に対する各組織の熱の入れようは尋常ではない。特に国家代表部門は、サーチャーのみという限定はあるものの、国同士の代理戦争に等しい。その中で、東条円香と四童子八雲は日本国代表のエース。限りなく、シーカーに近いと称される人物達。
その二人を黒色ドレスの女は圧倒したのだ。シーカークラスなのは間違いない。相良悠真はそのシーカーに匹敵する黒色ドレスの女を行動不能にした。しかも、いとも簡単に蟲でも踏みつぶすかのように。
黒色ドレスの女の首はあり得ない角度に捻じれ、両腕は根元からぽっきりと折れてしまっていた。どう楽観視しても瀕死。そのはずだったのに――。
黒色ドレスの女の全身から黒色の煙が吹き上がり、捻じれた首が元に戻り、両腕も高速で修復していく。
「嘘だろ……」
誰かの掠れ声が妙に痛いくらい静かな会場に響き渡る。
忽ち、ただの捻挫程度まで回復してしまった黒色ドレスの女。
足元まで足を運んでいた相良悠真は、冷たい闇色の瞳で女を見下ろす。
「む、虫けら風情――」
「……」
ボキュッ!
「こげっ!」
悪鬼の形相で飛び起きようとした女の下顎は、無慈悲にも踏みつぶされた。
傲岸不遜な黒色ドレスの女の相良悠真を見上げる瞳の中にあったのは、恥辱による怒りでも、憎悪でもなく、息をする者が当然に享受する絶対的恐怖だった。
「もう一度言うぞ。立て」
相良悠真は静かに、黒色ドレスの女に命じる。
彼のやろうとしていることが、フィオーレにも薄っすらと予想ができた。おそらく彼は、決闘をしようとしているんだ。何の表裏もない純粋な戦いを!
「……」
眉間に胸騒ぎめいた黒い影を漂わせながら、黒色ドレスの女は立ち上がり、身を屈める。
「喜べ、これは慈悲だ。ラヴァーズ、お前を一人の戦士として――潰してやる」
相良悠真の両眼の闇色の瞳がさらに深まり、口端が耳元まで引き上げられ、無慈悲な蹂躙劇はゆっくりと開幕する。
◆
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会場の誰もが一言も口を開かない。ただ、凄惨な光景を呆然と眺めていた。
黒色ドレスの女――ラヴァーズの全てを切り裂く鋭利な爪も、会場を半壊させかねない蹴りも、全て防がれ、代わりに胴体が吹きとばされ、四肢が爆砕する。あれほど、恐怖し、絶望を味わった相手が、みっともなく、痛みと屈辱により顔を歪ませながら相良悠真に、ズタボロにされていく。その度にラヴァーズの傷は癒え、再度、その肉体に深い傷を負う。
そして、時が経つごとに、女の傷の修復速度は徐々に衰えていった。
今やラヴァーズの一〇本の爪も根元から切断されたままであり、身体中は、内出血で赤黒く染まっている。
「ぐぞぉっ……」
ラヴァーズは、千鳥足で相良悠真に向けて拳を振るうも、当然、掠りすらせず、無様に床に転がった。
「立て」
仰向けになり、指先一つ動かなくなったラヴァーズを見下ろす爬虫類のような視線は、圧倒的に温かみに欠けていた。
どれほど憎めば――気が狂わんばかりの憤怒を覚えれば、こんな目ができるんだろう?
その視線は、どこか、里香を失ったばかりの叔父様のものに似ているような気がしたんだ。
「立てっ!!」
喉の底から吐き出す激高にも、ピクリとも動かないラヴァーズ。別に、彼女が抵抗しているわけではあるまい。本当に動けないんだ。事実、屈辱のためか、彼女はボロボロと大粒の涙を流していた。
「ちぐじょう!」
相良悠真は、闇色の刀身の先を黒色ドレスの女に向け、右肩を刺し貫く。
「ぐごっ!!」
苦悶の声を上げる女の右肩に深々と刺さった刀身を捻じり上げ、会場に女の絶叫が響き渡った。
その声を聴き、さらに相良悠真の顔が増悪に満ちる。
「お前が今までいたぶり殺してきた奴らは、そんなもんじゃなかったろうよ。そのお前がこの程度で悲鳴をあげんのか?」
相良悠真の荒々しい甲走った声とその顔を視界に入れてか、ラヴァーズは、絶叫を上げて必死で後退ろうとする。その顔は、蒼ざめて鼻から口元へ震えが走っていた。
「どこまでも、救いようのない奴」
満ち溢れていた憤怒も含め一切の感情を消すと、相良悠真は右手に握る黒色の銃の銃口を黒いドレスの女に向ける。
ああ、そうか……。きっと、彼は止めたんだ。
――この女にも、己が己であるための最後の誇りがあると信じることを!
――この女を同じ人間としてみなすことを!
――何より、自身の最後にあった自制する心を!
「だ、だすけ――ッ!!」
死線などくぐった事がないフィオーレにすら可視化できるほどの濃密な殺意に、彼の意思を本能で感じ取ったラヴァーズは、狂ったような金切り声を上げる。
相良悠真の右手の黒銃の引き金が引かれ、ラヴァーズの右脚から鮮血が飛び散る。
「さて、問題だ。あと何発打ち込めば、お前は滅ぶと思う?」
「くひぃっ!!」
もはや、狂気しか含まれていない言葉に、ラヴァーズは相良悠真から逃れるべく、ジタバタと無事な手足を必死に動かす。
二発目の銃声が響き、ラヴァーズの左手の甲が打ち抜かれる。
「最後くらい、しっかり気張れよ」
三発目、四発目、五発目、六発目、七発目……相良悠真は、あっという間にラヴァーズから逃走の手段を奪い去ってしまう。
会場中の至ところから、カチカチと歯が小刻みに鳴る音が聞こえてくる。
フィオーレも、震える己の身体を強く抱きしめ、眼前の悪夢のような光景を、ただ、黙って眺めていた。
「ゆ、ゆるじて……」
弱々しいラヴァーズの言葉にも、相良悠真は、もはや眉ひとつ動かさない。
ただ、銃口をラヴァーズの眉間に固定し、引き金に人差し指をかける。
「もうやめよう」
その時、クリスが相良悠真の右手に握る黒銃を握り締めていたんだ。




