第8話 ブラックアウト
二一〇三年一一月六(日)
昨日は、ホント散々だった。自宅内でも、朝の小雪への面会でも、俺の頭の片隅には、昨日の別れ際のカリンの泣き顔がチラつき離れなかった。
武帝高校に入学して以来、長門が現れず、どこか気を抜いていたのかもしれない。その結果、カリンを巻き込み、泣かせる結果となってしまった。あのカリンが泣く姿を見たのは、何年ぶりだろうか。
(成長しねぇな……俺)
上空を見上げると、青々とした空に、オレンジ色の太陽が花のように照らしていた。
陰気な気持ちを吹き飛ばすように、大きく空気を肺へ入れて、《バーミリオン》の職員用の扉から建物に入る。
予想通り、カリンは終始元気がなく、いつもの非常識な集中力もなりを潜め、何をやるにしても、心ここにあらずの状態となっていた。
店長と厳さんに別室に呼びされ、カリンのこの状態につき、それとなく尋ねられる。
隠す事でもないし、下手に誤魔化しても店長達の俺への信頼を損ねるだけだ。お好み焼き店――『じゃじゃ丸』での長門とのやり取りをできる限り詳細に説明しておく。
店長には面接の際に、俺が《上乃駅前事件》の関係者であることと共に、長門の存在は説明している。どの道、長門が《バーミリオン》に来ればバレることだからだ。
結局、俺は採用され、《バーミリオン》には一度たりとも、長門が来ることはなかった。どういうわけか、店長は各方面に顔が広い。何か、手でも打ったのだと思われる。
「腐れ外道!!」
俺の話が終わると、厳さんが、蟀谷に太い青筋を漲らせつつも、拳を握り締める。
「事情はわかったわ。だとすると、きっとカリンちゃん、今日一日あの調子だわねぇ」
腕を組み、片目だけを開ける店長。どことなく店長の声色にも怒気が混じっている。
それだけカリンの奴が、このたった数日で、《バーミリオン》に馴染んだ。そういうことだろう。
「おそらくは……」
「今日は少し早めに上がっていいわ。カリンちゃんと話しなさい」
「はい」
店長の言う通りだ。今のカリンの状態の改善は、俺が話すことしかありえない。
この数日、小雪と会って話したい旨の発言を頻繁にしていたことからも、二年たった今もカリンはあの事件につき、碌に知らされてはいまい。志摩家が依然として口を閉ざしている以上、下手にあの事件について語れば、志摩家重鎮共の逆鱗に触れる危険性はある。
だが、それも昨日までだ。すでにカリンには俺たちの現状につき知られてしまった。ここで、隠すメリットはもはや微塵も存在しない。
何より間接的とは言え、無垢なカリンをあそこまで傷つけたのは俺だ。俺には、カリンをいつもの元気なあいつに戻す責任がある。
一八時となり、店長にあがるように伝えられる。
いつもよりかなり早いあがりの指示に、カリンは不自然なほど素直に従った。
近くのコンビニで、中華まんを購入し、《府道駅前公園》へ行くと、その一つをカリンに渡し、公園のベンチに腰を掛ける。
「昨日、悪かったな。もう知ってるかも知れんが、俺と小雪は、《上乃駅前事件》に巻き込まれた。俺の話、聞いてくれるか?」
コクンと頷くカリンに俺は話し始める。二年前の俺と小雪の人生を無茶苦茶にしたあの忌まわしい事件を――。
「それじゃあ、コユキは……」
俺の話に、カリンはもう泣かなかった。代わりに、明日から世界が消えるような悲痛の表情を顔一面に浮かべている。
「今は、『府道総合病院』に入院している」
「コユキの心の整理がつくまで、わたくし達に会いたくないと書いてあったのも?」
俺は、事件後、志摩家の重鎮――志摩時宗に呼び出され、カリンとクリス姉宛に決別の手紙を書かされた。
親父達の死により、小雪がすっかり塞ぎ込んでしまった。小雪が真の意味で立ち直ったら、俺達の方から会いに行く。それまで、決して会いに来ないで欲しい。こんな旨の手紙だったと記憶している。
「ああ、事件後に書かされた。志摩家の意図まで俺は知らねぇよ」
昨日の出来事を思い出せば一目瞭然。あの事件を周囲に知られただけで、あそこまでたっぷりの敵意を向けられるのだ。カリン達を世論という害意から守りたかったと考えるべきだろうが、脅迫までしてくるのは若干過剰のような気もする。
とは言え、これ以上は俺の勘に過ぎないし、今の情緒不安定なカリンにいうべきことでもない。
「コユキに合わせて」
消え入りそうな声を上げるカリン。
今のカリンを、小雪に会わせたくはないのが本心だ。小雪が意識不明である以上、会ってもカリンがつらくなるだけで何の生産性もないから。
しかし、俺がカリンの立場なら、例え心が擦り切れ血を流そうとも、会いたいと思うのは間違いない。特に、二年前まで、カリンにとって小雪はいつも行動を共にする妹的存在だったはずだから。
「わかった。明日、七時に府道駅前で待ち合わせだ。小雪に会わせる」
「ほ、本当!?」
「ただし、一度だけだ」
俺が小雪なら、カリンの悲痛な顔をそう何度も見たくはあるまい。俺は兄失格な最低な人間だが、これだけは譲れない。
「なぜ!?」
カリンは、勢いよくベンチから立ち上がり、非難の声を上げる
「何でもだ。それが約束できないなら、小雪には会わせない」
奥歯を強く噛みしめるカリンに、苦笑しながらも、俺もベンチから立ち上がる。
「俺が小雪を絶対に治す。そのときは、思う存分、会ってやってくれ」
「わかり……ましたわ」
絞り出すように言葉を紡ぐカリンの頭を数回撫でて、再度、ベンチに座る。
暫し、無言で、中華まんを食べていたが、極めて神妙な顔で口を開く。
「ユウマ」
「ん?」
「《上乃駅前事件》の前日、わたくし、上乃駅前を訪れていました」
「そうなのか?」
「はい」
前日訪れたから何だってんだ? カリンの言葉の意味するところが判然としない。
兎も角、傷ついているカリンに、これ以上、《上乃駅前事件》の話題はよろしくなかろう。
それから、この二年間のカリンの学園生活や私生活につき、根気強く尋ねていた。
当初、カリンは、ボソボソと意気消沈した声色であったが、次第に普段の調子を取り戻してくる。会話の内容も、かつて俺達の過ごした何気なくも愛しい日常になっていく。それが、俺にはただひたすら嬉しかった。
「そろそろ、行くか」
腕時計を見ると、一九時を過ぎていた。一時間以上も話していたらしい。これ以上寒空での長話は風邪の元だ。
「うん!」
顔を喜色で満たして、俺の右腕にしがみ付くカリン。おそらく、強がりもあるのだろうが、今までの悲壮感溢れる雰囲気はなりを潜めている。この二年間で、カリンも成長したのかもしれない。
公園を出ようと、その出入口へ足を運ぼうとする。
出入口のアーチタイプの車止めの前に、血の様に真っ赤な衣服に身をスッポリ包んだ男が街路灯に照らされ佇んでいた。
(何だ、あのコスプレ野郎は?)
赤色のズボンに、シャツ、さらに、漫画やアニメででてくるフード付きのボロボロの赤色のローブを頭からスッポリ被っている。
これだけでも十二分に異常だが、その顔には、あたかも泣き顔をモチーフにしたよう真っ白な仮面を装着していた。
カリンの俺の右腕を抱きしめる腕に力が入る。
わかっている。今、この公園には、俺達二人しかいない。さらに言えば、この肌がヒリツク感覚。十中八九、奴の目的は俺達だ。
「心配するな」
カリンの頭を一撫し、カリンを抱き上げると、奴と反対方向へ疾駆する。伊達に毎日筋トレなどしていない。カリンの身体は羽のように軽かった。
カリンは、俺のクビに両腕を回し、瞼をきつく締める。
奴の目的が何処にあるのかまではわからない。俺があの事件の関係者であるとは一般に公表されていない。だから、今までこの手の襲撃に会うことはなかった。
考えられる可能性は二つ。
一つ目が、昨日の騒ぎを聞きつけ、《上乃駅前事件》関連で俺を襲ったケースだが、考えるのと実際に行動に移すのとではまた別の話だ。それに、自己が手を汚すまで俺を恨んでいたものが、偶然、あの場にいた可能性はそこまで高くはあるまい。
もう一つが、あの赤ローブの目的がカリンということだが、俺とは異なり、恨みつらみではあるまい。 カリンが他者に憎まれるような人物でない事は、俺が一番よく知っている。カリンが狙いなら、身代金目的の誘拐だろう。
カリンが目的の可能性がある以上、奴に捕まるわけには断じていかない。
この『府道公園』の北口と対面の南口まで行けば、この時間ならかなり人通りがある。さらに道路の向こう側には交番もある。俺は鍛えてはいるが、身体能力はあくまで常人レベル。《サーチャー》クラスなら、直ぐにでも追いつかれる。それが未だに追いつかれていないとうことは、あの赤装束は一般人に過ぎないということを意味する。ならば、その交番に駆け込めば俺の勝ちだ。
軽いと言っても一人の人間を持っての全力疾走だ。既に脚はまるで俺のものではないように悲鳴をあげ、心臓が繰り返し、苦しいという自己主張をしている。
さらに、道の両脇の静かに荒くるう海のような夜の樹木は、今の緊迫した現状と相まって、心細さを胸の底から湧き上がらせた。
ようやく数メートル先に、街の喧騒の音と、車のランプが見える。遠方に見える横断歩道の信号は丁度青で、点滅を始める。あの道路の対面に交番がある。あそこまで行けば、一先ずは心配ない。
公園を出ると、最後の力を振り絞り、丁度赤に変わったばかりの横断歩道を渡り、対面にある交番に転がり込む。
「俺達暴漢に襲われたんだ。助けてくれ!」
実際には襲われたとまでは言えないが、冗談にしては、あれは悪質に過ぎる。今後もある、このくらい言っても問題なかろう。
「ふむ、まずは落ちつきましょう。奥で事情をお聞きします」
制服を着た白髪交じりの五十台前半の年配の警官に促され、奥の個室へ案内される。
個室に入ると直ぐに、カリンに志摩家に電話をするよう指示する。渋るかと思ったが、今の緊迫した状況を理解しているのか、素直に従った。
カリンが志摩家に電話をするが、興奮して上手く話せないので、俺が変わって説明した。俺がカリンといること自体が、志摩家にとっては一大事。遅くても三十分そこらで駆け付けてくるはず。あとは、この場で待っていればいい。
個室で数分待つと、二人の人物が部屋に入って来た。
一人が年配の警官で、もう一人が黒髪ショートカットのスーツの女。女はテーブルにお茶を人数分置くと、俺達の対面に座る。
「私は、警視庁の堂島美咲。宜しくね」
制服を着ていないことからも、刑事という奴なのだろう。
余計な事は話す必要はないが、志摩家の迎えが来るまではここに留まりたい。今は大人しく、事情聴取とやらをされてやるしかあるまい。
「俺は相良悠真、隣にいるのが志摩花梨」
「そう、貴方が志摩家のお嬢さん……」
堂島は顎に手を当てて暫し考えていたが、直ぐに微笑みを浮かべる。
「それで、襲われたって言ったけど?」
「ああ、赤装束の男に――」
俺の言葉が終わる前に、ガシャン!とガラスの割れる音が交番内に響き渡る。
音のする方向は交番の入り口から。正直このタイミング、悪寒しかしない。
「ユウマぁ~」
俺の腕にしがみ付いて来るカリンに、堂島は頬を緩ませると、席を立ちあがる。
「私達、少し見て来るね。大丈夫、ここは世界でも屈指の検挙率を誇る警察の交番。それに私、これでも《サーチャー》の資格を持ってるし、安心していいわ」
今や警察機構にも《サーチャー》が配備されていると聞く。堂島もその一人なんだろう。
兎も角、《サーチャー》であること自体が、強さの証明だ。これで、志摩家の精鋭がくるまでは耐えられるだろう。体中の力が抜けていくような安心感に、深く息を吐き出す。
「ありがとう」
「うん、うん、素直でよろしい」
両手を腰に当てると、数回満足そうに頷き、年配の男と共に、部屋を出て行く。
「カリン、もう大丈夫だ」
カリンの頭を数回撫でると、頬を僅かに赤く染めて目を細める。
堂島が《サーチャー》であることと、彼女の自信たっぷりの態度から、カリンも大分落ち着いてはきたようだ。
◆
◆
◆
(いくら何でも遅くないか?)
それから、凡そ10分、堂島と年配の警官は依然として部屋に戻らなかった。
堂島は見た感じ、かなりしっかりしていた。長引くなら、俺に一度断るくらいしてしかるべきだ
(部屋に戻れない理由がある……ということか)
胃を固く締めつけるような不安の念を全力で片隅へ追いやると、口角を上げてカリンを見下ろす。
「カリン、俺が見て来るからここで待ってろ」
「いやですわ。わたくしも行きます」
俺の背中に両腕を回すと、きつく抱擁してくる。カリンは頑固だ。絶対に翻意はすまい。確かに、ここで一人にするよりは、よほど気が楽かもしれない。
それに、この建物には《サーチャー》の堂島がいる。もし、彼女が敗れたのなら、こんな部屋の扉の鍵などあってないようなものだ。直ぐに脱出しなければならない。
「わかった。俺から離れるな」
コクンと頷くカリンの右手を握り、部屋の扉まで行くと、そのノブを回しゆっくり開ける。
部屋の外のついていたはずの電気は全て消えていた。どうやら、最悪な状況を驀進中らしい。
危険だが、一度交番を出るしかあるまい。カリンの手を引き、音を立てないよう気を配りながらも進む。
ピチャリ、と足が水たまりのようなものを踏みつける。バケツでもひっくり返したのかと、足元に視線を向けると、床に転がっているものが視界に入る。
「……」
一瞬思考と呼吸が停止し、俺の頭を空白が支配する。ただ呆然と、このあり得ない現実を眺めていた。
「~~っ!!?」
次第に回復してくる思考。次の瞬間、体中の血液が逆流するほどの恐怖が全身を駆け巡る。そこには、床一面にできた大きな血の水たまりと首のない年配の警官の死体があった。
悲鳴を飲み込んで、直ぐに、カリンの手を引き交番の玄関口向けて疾走を開始する。俺一人なら、この場で悲鳴の一つでも上げて、立ち尽くしていたことだろう。しかし、カリンの優しい右手の温もりに突き動かされるように、俺は全力で脚を動かした。
廊下の突き当りの扉を勢いよく開ける。この部屋を抜ければあとは、外へと続く部屋だ。
部屋内に足を踏み入れると、濃厚な鉄分が俺の嗅覚を刺激する。
「見るな!!」
咄嗟に、カリンの顔を俺の胸に埋めさせる。
床に転がる堂島の四肢に、散らばる臓物。テーブルには生首が静置されていた。
酸っぱいものが胃からせり上がってくるが、それを飲み込んで、カリンの手を引っ張り、走り出そうとするが――。
「残念~、無念~、無残~、無惨~、遺憾~、ざんとう♫」
背後から、この殺伐とした雰囲気に似つかわしくない、やけに陽気な声が鼓膜を刺激し、体じゅうの血が凍るような悪寒に襲われる。
咄嗟にカリンを突き飛ばすも、一歩遅れて俺の身体に凄まじい衝撃が生じ、壁に叩きつけられ、顔面から床に倒れ込む。
「ぐぉぉぉ……」
地が裂けて熱い溶岩が流れ出したような凄まじい熱感に、獣のような呻き声が漏れる。
俯せなっている自身の身体を起こそうとするが、体を仰向けにするのが精一杯だった。
唯一動く右手で、腹部に触れると、多量の温かな液体と初めて触る臓物の感触。どう控えめに見ても、明らかな致命傷。もうじき俺の命の灯は消えてなくなる。それがぼんやりと予想できた。
自身の以後の歴史が永遠に消失するのだ。通常ならば、その事実は俺に人間の本能としての恐怖と絶望を刺激してしかるべきだ。それなのに、この理不尽で濃密な死の抱擁にも、俺の感情は思ったほど動かなかった。まるで、それが過去に日常であったかのように――。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと、激烈な痛みは、真っ白な意識に置換されていく。
「ユウマ!!」
大粒の涙で顔をくしゃくしゃにしたカリンの顔が網膜に映しだされ、俺の意識は再度、現実に引き戻される。
言い表しようのない焦燥から、早く逃げろと叫ぼうとするも、口から吐き出されたのは言葉ではなく血塊だった。冗談のような量の吐血。気管に血が入り、むせ返り咳き込み始める。
「に……げ……」
再度言葉を紡ごうとするが、出るのは真っ赤な血のみ。
カリンの背後に立つ白仮面の赤装束の男。
その狂ったような赤色カラーの人物は、肩に担ぐ大鎌をゆっくりと振り上げる。薄暗い部屋の窓から差し込む月の光に照らされたその禍々しい姿は、まさに死神そのものだった。
《サーチャー》の堂島でもバラバラになったのだ。あんな物で切り付けられたら、一撃でカリンは絶命する。それだけは――許容できないし、許容してはならない。
俺はもう二度と、大切なものを奪われない。それだけが、この俺――相良悠真の唯一の真実だから!
僅かな力を振り絞り、右腕でカリンの身体を乱暴に払いのけようとする。しかし、逆にカリンは俺を強く、強く抱きしめて来た。
「仲良く、気安く、近しく、親しく、バイバ~イ♫」
赤い死神は鼻歌を口遊みながら、鎌を振り下ろす。
鎌の刃が、カリンごと俺の胸部深く突き刺さり、俺の意識は失われる。
ようやく、物語が進みます。ここから少しずつ、事件の泥沼に足を踏みいれていく事になります。
退屈だった方、次回から物語は次第にエンジンがかかってきますのでご期待頂ければ幸いです。