雪の夜
雪が、しんしんと降り積もってゆく。その雪が音の一切を飲み込んでいるかのように静かな夜だ。身を切る寒さの中を歩く人影は無く、車道の轍も消えかけている。日付が替わるまで、あと僅か。塵芥の如く光の無い空から落ちる純白がふわりふわりと舞った末、家の窓に貼りつき――まるで塩をかけられたナメクジのように、じわりと溶けて消える。次々と、次々と。音も無く、活気も無く、ただただ白く染められてゆく夜。雪を背負う家々の多くも明かりを消し、まるで家が死んでしまったようにも見える。その住宅街に少年の家はあった。
少年の名は月井健太。彼は泣いていた。ベッドの中で、泣いていた。常夜灯の儚い橙色が照らす部屋は寒く、健太の泣き声をより一層悲痛なものにしている。しかしその泣き声も、今では鼻をすする音が時折響くだけになった。
あの電話が鳴ったのは、健太の母が夕食の準備をしていた頃だった。『…………健太……お父さん、死んだって……』と、震える声で母が言った。事故死だそうだ。凍結した路面でのスリップ事故。これから病院へ向かう――焦燥した顔でうわ言のように言い残し、母は家を出ていった。
母が玄関を出ていく音。それを皮切りに、寒々とした家にひとり残された健太は突然世界から切り離されたような感覚に襲われた。遊んでいたゲームがつまらない。テレビをつけても内容は頭に入ってこない。音すらも健太を避けて通っているかのように、どこか遠くに感じる。唯一、チッ……チッ……と時計の足音だけが明瞭に聞こえた。あたかも健太を嘲るように。
チッ……チッ……チッ……チッ……
時計の単調な歩みが進む中、健太は一人で夕食を食べ、風呂に入り、早々にベッドへともぐり込んだ。奇妙な感覚だった。いつもなら家族みんなで夕食を食べ、風呂のあとには晩酌を楽しむ父とテレビをみるのに。なのに、今日は一人。心なしかベッドの中がいつもより冷たい。
チッ……チッ……チッ……チッ……
――『お父さん、死んだって……』
頭までかぶった掛け布団の中、母の顔が浮かぶ。初めて見た母の表情。突きつけられた言葉。けれども健太には、どこかそれが現実ではないように思えてならなかった。きっと明日、なに食わぬ顔で父が朝食を食べていたとしても健太は驚かないだろう。
チッ……チッ……チッ……
息苦しさを感じ、掛け布団から頭を出す。いつの間にか部屋に忍び込んだ冷気が健太の鼻をじくじくと痛めつけた。頬を叩く寒さは――どうしてだろうか――少しだけ気持ちがいい。
相変わらず、静かだ……
疲れをみせない時計の足取り。常夜灯にぼんやりと炙り出された室内。動くものは何一つ無い。黒と橙色の小さな世界は凍ってしまったかのようだ。
ふいに、音が健太の耳を撫でた。それは「あ……」という他ならぬ健太の声だった。静止する視界の中で、ある物が目に映ったのだ。それは勉強机の傍らに転がる野球ボールと大小2つのグローブ。今年の夏、父に買ってもらったものだ。
脳裏に青い空と父の顔が浮かぶ。それは、近所の小さな公園でキャッチボールをした記憶だ。父は嬉々と白球を放っていた。高々と空を目指した白球が、重力を受け、健太のグローブを避けて落ちる。キャッチできなかった事が悔しくて、転がったボールを思い切り投げ返すが、父は易々と受け止めた。そして再び空を目指すボール。追いかけて見上げた空は恐ろしいほどに青い……――ふいに、パスンとグローブ越しに伝わる衝撃と、父の喜びを含んだ優しい声。それがむず痒く、健太はやはり全力でボールを投げ返した。
穏やかな風。心地よい陽気。あしたも、おとうさんと……
……健太はハッと目が冴えた。いつの間にか浅い夢を見ていたようだ。
…………チッ……チッ……チッ……チッ……
父とキャッチボールをした夢だった。
忘れていた時計の足音が耳を優しくノックする。
穏やかな夢だった。目覚めたくなかった。でも……どうしてだろうか。しばし考え――健太はようやく気づいた。父とキャッチボールすることは、もうできないからなのだと。
――『お父さん、死んだって……』
あの時の母の顔が浮かぶ。父とは、もう、二度と会えない。
鼻の奥が痛んだ。寒さとは別の、ツンとした痛み。堰を切った心から、ついに涙が溢れ出した。その涙に手を引かれ、父との思い出が胸にこみ上がってくる。熱い雫は瞬く間に冷やされ、頬を滑り落ちる……
リビングで寝てしまった健太をベッドまで運んでくれた父は死んだ。健太を叱る父の声はもう聞く事ができない。宿題を手伝ってくれる父は、もうこの世にいない。
目頭が熱い。頬が冷たい。胸が苦しい。鼻が詰まる。
薄暗い部屋を、健太の嗚咽が満たした。
チッ……チッ……チッ……チッ……
どれくらいの時間、泣いていただろうか。泣き疲れた健太の耳に、またしても秒針の音。暗い室内。動くものは何一つ無い。しかし……時計の足音に混じって、微かに物音が聞こえた。
ギィ……ギィ……と、廊下を人が歩く音だ。母が病院から帰って来たのだろうか……?
「…………違う……」
母じゃ、ない。足音の主は手当たり次第にドアを開け閉めしている。まるで、何かを探すように。それならば、この足音は誰……?
ギィ……ギィ……ギィ……
ガチャ、キィィィ……バタッ……
ギィ……ギィ……ギィ……
歩き、ドアを開け、閉める。誰だろうか。暗がりの中、不気味な音が健太に近づいてくる。
泥棒、だろうか? それとも…………
嫌な想像ばかりが浮かぶ。包丁を片手に歩く男、血みどろの幽霊、異形の化け物。……誰にせよ、殺される。
そう、殺される、かもしれない。
ギィ……ギィ……ギィ……
足音が、近づいてくる。徐々に明瞭になる音。
ギィ……ギィ……ギィ……
ガチャ、キィィィ……バタッ……
ギィ……ギィ……ギィ……
健太は耳の奥でバクバクと高鳴る心臓を感じた。少しでも身動ぎすれば、相手が駆け寄ってくるかもしれない。息を殺し、耳を澄ませる。
ガチャ、キィィィ……
チッ……チッ……チッ……
バタッ……ギィ……ギィ……
足音の合間に聞こえる秒針が、まるでタイムリミットを示しているかのようだ。徐々に、徐々に、音が明瞭になってきている。健太に近づいてきている。
ギィ……ギィ……ガチャ、キィィィ…………
隣の部屋が開けられる音。そしてバタッとドアが閉められる。次は、健太の部屋。廊下の軋みが近づいてくる。
ギィ……ギィ……
寝たフリをしていれば殺されないだろうか。それとも必死で殴りかかれば……
ギィ……ギィ……
時間が無い。心臓がうるさい。
ギィ……ガ、チャ……
キィィィ……
部屋が開けられる音。咄嗟に目を瞑って寝たフリをした健太には、誰が来たのか分からない。けれど、目蓋の先に気配を感じる。
……………………
無音。
健太は願った。早くドアを閉めて次の部屋へ行ってくれ、と。
――しかし、
…………ギ、シィ……
ベッドで横になる健太へ、忍び寄る足音。
殺される。死にたくない。
呼吸すら忘れ、耳に意識を集中させる。
ギシィ……
チッ……チッ……チッ……
ギシィ……
足音。秒針の音。怖い。
怖い怖い怖い。
ギシィ……ギシッ……
足音が、止まった。
健太のすぐ横で。
まじまじと顔を見られている気がする。
それとも包丁を高々と振り上げているのだろうか。
目を開く勇気は無い。
怖い。
時計の針は、苦しむ健太を嗤うように、ゆっくりとゆっくりと、進む。
チッ…………チッ…………チッ…………
長い、長い、数秒間――
…………ギシィ……ギシィ……
離れていく足音。しかし部屋から出るのではなく、勉強机の前で再び音は止まった。ガサゴソと何かを漁る音。何かを探しているようだ。やはり、泥棒なのだろうか。けれども健太の部屋に金目の物なんて無い。ガサゴソ、カサコソ、ガサッ……懸命に探し物をしている。
…………今なら、今なら少しだけ目を開けても大丈夫だろう……
不意に危険な好奇心が鎌首をもたげた。
もちろん恐怖が消えたわけではない。未だに、張り詰めた緊張感で毛穴からジットリと汗が滲み出ている。しかし謎の人物の不可解な行動、健太に背を向けているであろう現状、いまだ殺されていないことに対する僅かな安堵――それらが好奇心となって健太の目蓋を押し上げようとする。
少しだけ……少しだけだ。薄目を開けて、すぐに閉じればいい。
まだガサゴソという音は続いている。今しかない、と好奇心が健太に囁きかける。
少しだけ……少しだけ…………
ゆっくりと、目蓋が持ち上げられた。
常夜灯の橙色とそれに追いやられた黒色が、まず視界に映った。その隅で動く赤い――
「なぁんだ、やっぱり起きてるじゃないか」
赤い人影から、声。それは、しゃがれた老父の声だった。
反射的に健太は固く目を閉じたが、もう遅い。ギシィ、ギシィと赤い老父が近寄ってくる。
ギシィ、ギシィ、ギシィ、ギシ……
すぐ傍で気配がする。息遣いを感じる。そして――
「メリークリスマス!
坊や、寝たフリなんかせずに目を開けてごらん」
それは予想外に、どこまでも優しげな声色だった。
その声を信じても良いのだろうか。しかし赤い老父は何をするでもなく、健太が目を開くのを静かに待っている。
チッ……チッ……チッ……
しかし『メリークリスマス!』だなんて。たしかに今夜は聖夜だが、サンタクロースなんているわけがない。架空の存在だし、健太にとってのサンタクロースは父だ。もうこの世にはいない父だ。
……そうだ。もう、健太に父はいない。恐怖の陰に隠れていた感情が、再び顔を覗かせる。
チッ……チッ……チッ……
幽かな音。傍らの息遣い。
もしも死んだら、また父と会えるだろうか――そんな馬鹿馬鹿しい考えが、時計に手を引かれてやってきた。
チッ……チッ……チッ……
時の経過にしたがって、健太の心から恐怖が抜け落ちてゆく。極度の緊張から、脳が現実逃避したのだろうか。『もし本物のサンタクロースなら、またお父さんに会わせてくれるかも……』などと甘く都合の良い発想が広がり――ついに健太は目蓋を上げた。
「――おお、やっと起きたかね坊や」
やはり優しく温かな声。健太を覗きこむ顔も、その声色に違わず穏やかなものだった。雪のように白い頭髪は丁寧に撫でつけられ、同様に白い眉と口髭。黒縁メガネの奥には好々爺の瞳。アゴに乗った一房の顎髭はどこかユーモラスだ。
「…………さ、サンタ、さん……?」
「いかにも。わしは坊やにプレゼントを届けに来たサンタクロースじゃ」
震えた声の問いかけに赤い老父――サンタクロースが微笑みを返した。
サンタクロース……たしかにそんな格好をしている。真っ赤な服に白い髭、片手にはおそらくプレゼントが詰め込まれているであろう白く大きな袋。
「……本当に、サンタさん、なの?」
「ふぉほほ、最近の子供は疑り深いのぅ。何なら証拠でも見せようかの――ほれ」
唐突にサンタクロースが指を鳴らす。すると窓の外からシャン、シャン、と澄んだ鈴の音が滑り込んできた。そして体を起こした健太に見せるように、サンタクロースがカーテンを開く。
「……あ」
健太の口から思わず声が飛び出した。開かれたカーテンの先には、鈴の首輪をしたトナカイの姿。赤鼻のトナカイが真っ白な雪の中で佇んでいる。
「ふぉほほ、これで信じてもらえるかのぅ」
サンタクロースがお茶目にもウインクをした。間違いない……、本物の、サンタクロースだ……
「――しかし、坊や。おかしな事に、坊やへのプレゼントが消えてしまったんじゃよ。サンタの国を出る時にはちゃんとあったはずなんじゃがのぅ……
なにか心当たりはないかね。欲しいプレゼントが急に変わったり、欲しかったプレゼントを既に手に入れたり……そんな心当たりは」
困り顔のサンタクロースが袋をガサゴソと漁りながら訊ねる。
心当たりは……あった。
「たぶん、今日、お父さんが…………お父さんが死んじゃったから、だと思う……
お父さんと遊べないなら、何もいらないから……」
肩を落とした健太の言葉に、サンタクロースの瞳が大きく開かれた。「おお……だから目を泣き腫らしておったんじゃな」という声も、心なしか同情の色が宿っている。
「それはそれは、可哀想に……
……ふむ。もし良ければ、坊やのお父さんについて教えてくれんかのぅ。悲しい事は吐き出すに限るぞ?」
俯いた健太の頭に、優しく大きな手が置かれた。温かく柔らかな手だ。その安心感を与える手に、父の手を重ねる……
時間はかからなかった。
気づけば健太の頬には涙の川が流れ、健太の口からは父との思い出が溢れ出していた。
「お父さんはね、すっごく力持ちなんだ……」
「うむ」
「宿題をサボった時のお父さんは怖いんだ」
「うむ」
思い出に乗せられる相槌は「うむ」と一言だけだが、どうしてだろうか――魔法のようだ。それは頬の涙を暖めてくれるような、不思議な「うむ」だった。
「お父さんは……お父さん、は…………」
「うむ。言葉に出来んほど、素晴らしい御仁なんじゃな」
「……うん」
いつの間にか隣に座っていたサンタクロースが、健太を優しく抱き締めた。真っ赤な服に、涙と鼻水が染み込む。けれどもサンタクロースは離れずに、健太の頭をそっと撫でた。
「……そうじゃ、プレゼントを渡せん代わりに素敵な魔法をかけてあげよう」
健太の涙が落ち着いた頃になって、サンタクロースが明るく言った。慰めるような、元気づけるような、そんな声だ。
立ち上がり、「ちち~ん、ぷいっ」と指を鳴らす。するとそのお茶目な魔法の言葉に、鍵を閉めていたはずの窓がひとりでに開いた。外のトナカイが駆け寄り、ソリを窓につける。
「さあ坊や、ついておいで」
サンタクロースに手を引かれ、健太はソリに乗り込んだ。これも魔法だろうか、雪が暖かい……
サンタクロースが手綱を「そぉれ、ほいっ」と振るえば、トナカイが空中を駆け出した。シャン、シャン、と鈴の音が白い夜に響き渡る。
――それは夢のような光景だった。
シャン、シャン、シャン
シャン、シャン、シャン
空を滑るソリから見る街は綺麗だった。ポツリポツリと灯っている住宅の明かり。駅前のクリスマスツリーの輝き。それらを受けてキラキラと舞う純白の雪。
シャン、シャン、シャン
シャン、シャン、シャン
あれは健太の大好きなフライドチキンを売っている店だ。
あれは健太の学校、あれは父とキャッチボールをした公園、あれは……
隣に座るサンタクロースに、健太が興奮したように話す。それをやはりサンタクロースは「うむ、うむ」と相槌を打ったのだった。
シャン、シャン、シャン
シャン、シャン、シャン
シャン、シャン、シャン
シャン、シャン、シャン
澄んだ鈴の音は、聖夜が明けるまで響き続けた――
「――健太、朝よ。起きなさい」
母の声。健太は寒い部屋の中で目を覚ました。カーテン越しに澄みきった陽光が部屋に射し込んでいる。
なにか、とてもいい夢を見ていた気がする……
まだ重い目蓋を擦りながら、健太が体を起こす。すると枕元に置かれた箱が目に映った――
「ねえ、コレッ!」
ラッピングされた箱に入っていたゲームソフトを手にした健太がリビングの扉を開ける。そこにはエプロンをした母とコーヒーを飲む父の姿。
――『 父さ 、死 だっ ……』
「…………お父さん……?」
「なんだ? 急に変な顔して」
「お父さん……生きてたの……?」
「ばかやろう、俺がいつ死んだってんだ。寝ぼけてんのか?
それよりもどうしたんだよ、そのゲームソフト」
……夢、だったのだろうか。
…………夢、だったのだろう。
「……これ、朝起きたら部屋にあったんだっ」
「ははは、きっとサンタが来たんだな」
「うんっ!
ねえ、お父さん、一緒に遊ぼうよ」
* * *
雪が、しんしんと降り積もってゆく。その雪が音の一切を飲み込んでいるかのように静かな夜だ。身を切る寒さの中を歩く人影は無く、車道の轍も消えかけている。日付が替わるまで、あと僅か。塵芥の如く光の無い空から落ちる純白がふわりふわりと舞った末、家の窓に貼りつき――まるで塩をかけられたナメクジのように、じわりと溶けて消える。次々と、次々と。音も無く、活気も無く、ただただ白く染められてゆく夜。雪を背負う家々の多くも明かりを消し、まるで家が死んでいるようにも見える。その住宅街に健太の家はあった。
その家の中に、悲しみに暮れる声が一つ。
「健太……あなた……」
最愛の夫を亡くし、病院から帰ってみれば――愛する息子も消えていた。それから何日も何日も、年末に浮かれる街の中を駆けずり回った。……だが、息子の消息は分からなかった。家出だろうか、誘拐だろうか……しかし、靴は玄関に残ったままだった。家にも鍵がかかったままだった。神隠しのように、忽然と息子の健太だけが消えていた。
チッ……チッ……チッ……
時計の足音が、真っ暗な室内で単調に鳴り響く。
まるで彼女を責め立てるかのように。
チッ……チッ……チッ……
チッ……チッ……チ「――うるさいッ!」
金切り声とともに時計が投げつけられた。
壊れたのか、時計の音が消える――
………………
………………
無音。
………………
……ギ、シィ……
足音。
そして――
真っ暗な部屋の中で最期に響いた音は、何かを突き刺す音だった。その音も雪に飲み込まれ、誰にも気付かれる事なく……