06. お母さん……
今話のi2M (image instrumental Music) はこちら!
白石めぐみ 終わりのセラフOST より
『不安の向こう』
https://www.youtube.com/watch?v=NvS58cYa8xo
(大人の事情によるのか、+2ほどピッチ調整入ってますが……)
ぜひ、すばらしいメロディを聴きながら、作品のイメージを膨らませて読んでくださいな。
6
橘エミリは、腐敗した生クリームの如く、濃厚かつ陰湿な眠りからようやく覚め、たった今、やっとの思いで重苦しい瞼を開けたところだった。
しかし、上体を起こそうにも、全身が砂袋のように重い。瞬きする瞼も鈍重で、温まるには相当の時間が掛かりそうだった。張り巡らせているはずの細やかな神経が寸断されて、脳の指令がどこにも行き届いていないような感覚。虫取りの粘着シートに寝かされたのか、それとも、自分が磁石になったのではと錯覚するくらいに、全身が大きな重力か何かに引っ張られているようだった。
仮に私が磁石だとしたら、プラスとマイナス、どちらだろう。
(間違いなくマイナスね……)
ため息。
諦めて、しばらくグレィの天井を見つめたままじっとすることにした。
一般的な女性なら、ここで金縛りにあったとでも思うのだろうけれども、自分には、そんな乙女な思考は一切ない。それは、よくわかっていた。
不気味な静寂が鼓膜に染み込む。部屋はとても静かだった。
少しは、ろくでもない思考に頭が回るようになってきたのだから、躰だって動くはずだ。そう思ったエミリは、それでもなかなか言うことを聞こうとしない肉体を、やっとの思いで横に向け、枕元の小さなデジタル時計を見ることに成功した。
十時半。
見慣れた時計の緑色LEDは、こちらの必死さなどはどこ吹く風で、いつも通り、目にも留まらぬ明滅を繰り返して時刻を知らせてくれていた。
約束の時間まで二時間以上あったことに、エミリは胸を撫で下ろす。
エミリは、掛け布団を足で器用に剥いでから、嫌がる躰に鞭を打つようにして強引に起こした。こういう時は、とにかく鉄のような意思だけが大事。怠けた躰の意向を聞いてやっていてはきりがないのだ。
ベッドに腰掛ける。少しだけ頭が痛い。いつもより血圧が高いかもしれない、と思った。
視界は、見慣れた景色で満たされていた。狭くも広くもない、自分には丁度よいサイズの自室。ベッドの脇、自分が背を向けている側にある小窓から差し込む、遠慮がちな日光が、部屋の薄闇をぼんやりと切り裂いてくれていた。
そう……。確かあの時も、背中から光が湧いてきた。
エミリは、足元にできた小さな陽だまりを見つめながら、記憶を掘り出そうとした。
すぐに、凍った紫陽花のフラッシュバック。
まるで遠い昔のよう。否、あれは夢だったのかもしれない。今なら本気でそう思える。
ベッドのある洋間とリビングの間には、真っ白な仕切り用のスライドドアが三枚。寝る前に確かに締めたはずなのに、今は少しだけ開いていた。きっと、愛猫のルナが、リビングに設置した砂トイレに行くため、夜半にそっと開けたのだろう。
隙間からは薄暗いリビングが見え、使い慣れた白い木製家具とテーブル。ベランダから、水色のカーテンを透過して差し込む光に照らされて、青白く光っているように見えた。その色は、もちろんカーテンの色だ。
再び、フラッシュバック。
リビングに差し込むその光は、あの日、自分を包んだ、淡くて冷たい光に少しだけ似ていた。
「あの花と同じ色……」
思考のつもりが、言葉になっていた。喉が渇いているせいか、自分でもびっくりするくらいの嗄れ声。少しだけ面白かった。
入隊式の朝、ここを出てからまだ二日しか経っていないのに、本当に久しぶりに戻ってきたように思う。普通の隊員なら、家族と離れて寮に入るのに、自分はNFIに配属された事で自宅に戻れる。それは、予想していなかった大きなメリットだったかもしれない。今思えば、入隊直前まで入寮の知らせが来ない時点で、配属先の特殊性を疑うべきだったと考えた。
もしかしたら自分は、軍の堅苦しい規律や厳しい訓練よりも、大勢の他人と過ごす寮生活のほうが耐えられなかったかもしれない。そう思えば、結果オーライ。NFIに配属されて本当によかったと思う。もちろん、そのための配属ではないのはわかってはいたけれども。
エミリはしばらくベッドに腰掛けた姿勢のままでいたが、躰は変わらず鈍重だった。できることなら、もう一度横になって、そのまま寝てしまいたい。でも、頭はいつもの寝起きよりもクリアで、二度寝を許すほどに怠けてはいなかった。
そう、躰が不自由な時でも、頭はいつだって自分のものだ。
エミリはそっと、片手を背中に回してみた。
パジャマ越しに、中央を撫でてみる。
なにも無い。いつもと変わら無い。
(私の背中……)
安心したような、がっかりしたような、複雑な気持ちが、心の隙間にじんわりと浸透していくのを感じた。
ふと足元に目をやると、部屋全体に敷かれた水色の絨毯の上に、真っ黒なシルエットがひとつ。猫のルナが、焼き物か木彫りの置物のようにお座りをして、翡翠のような深緑の瞳でこちらを見上げていた。
「おはよう」
エミリはルナをそっと抱き上げ、彼女の黒い頬にキスをした。ルナは嬉しそうに口を開けて、全身が震えてしまう程の大あくび。ネコ科特有の鋭い牙の白と、開け広げた粘膜のピン色が、黒い体毛に不思議と映える。
「おはよう」
エミリは、ルナの透き通るような純粋な目を見ながら、頭をフルに回転させた。思えば、こうしてゆっくり考え事をするのも二日振りだ。
エミリは、ここ二日間に起こったことを一瞬で振り返った。二日前と今で、違うことが二つ見つかった。それは、実弾銃を使って、人を二人殺したこと。
もう一つは、自分の中に、不思議な花の命が芽生えたこと。
もちろん、複眼ゴーグルの男達は姿を消したのだから、死んではいなかったのかもしれない。でも、確かに引き金を引いて、生きた人間に向けて銃を撃ったことには違いない。
何にしても、自分にとってその二つは、とてつもなく大きな違いだった。
でも、エミリには、本当にそれが自分にとって大きな違いなのかは、正直わからなかいこともあった。考え方によっては、たったそれだけの事、それ以外はなにも変わらないと言えなくもない。
後悔はなかった。なぜならそれは、すべて自分で望み、選び、掴み取った事だから。人を殺めたからといって、それにいちいち気を取られて後悔したり、感傷に浸っていては軍人など務まらない。ましてや、戦争なんかできないし、世界なんて変えられない。
「世界……、か」
エミリはルナに向かって囁いた。
「世界……」
そう、それは、多分、現実の世界ではなくて、私の中にある世界。
現実の世界は変えられないかもしれない。でも、私の中の世界なら、いつだって、確実に変えられる。誰かに作られたくだらない世界で生きるくらいなら、死んだ方がまし。でも、何度やっても自分で自分を殺す事が出来なかった。だったら、そんな世界、全部叩き壊してやればいい。そうすれば、私の世界は変わるの……。少なくとも今、私の中には、それが出来るだけの力がある。
(お母さん……)
母は今、私に向かって、笑ってくれているだろうか……。
エミリは心の中で呟くと、ルナを精一杯強く抱きしめてから床に降ろしてやった。すると彼女は、一目散に、キッチンの方に駆け出していく。いよいよ朝食のおねだりが始まるのだ。
その瞬間、エミリの脳裏に、ジンと名乗ったあの男の不敵な笑みが蘇ってきた。
エミリは目を開けて絨毯の床を見つめたまま、総理官邸で目にしたものを、ゆっくりと一つずつ、コマ送りするように丁寧に回想する。
不気味に潰れた、蠢く片目。
悪魔の姿をした、黒い花。
悪魔の 孤独な 主張……
(どうして、あの男が花を……)
あの花には、闇よりも黒く深く、あらゆる物質よりも硬い、強固な意思と邪念、憎悪を感じずには居られなかった。
炎のように揺らめく、闇の陽炎……。
「奴隷解放……」
あの男が口にした言葉を、呟くように言ってみた。
「それは、あたしのこと?」
エミリは、片手を背に回して、手の甲で、花の咲いた場所をもう一度軽くさすった。
けれども、何度確かめようと、無いものは無い。あるのはパジャマの布と自分の肌。体温。いつもの背中。変わらない、私。
帰ってきたばかりの頃は、全身を襲っていたはずの痛みも、気付けば嘘のように消えていた。寧ろ今は、あの花を思い出すだけで心がすっとする。とても心地よい感覚だった。
「まさか」
あの時私は、奴隷解放を唱える男に向かって叫んだ。
『命を守る』
咄嗟に口を突いて出た言葉には、その言葉の持ち主の真意が垣間見えることがあるって、どこかで聞いたことがある。でも、あの時叫んだ言葉が、本当に自分の気持ちを素直に表した言葉かどうかは、正直、わからなかった。
なぜなら、命を守る為には、殺さなければいけない命もある。
矛盾。
命なんて、そもそもが無駄なもの。
後生大事にしているほうが、それこそ滑稽。
どれだけ必死に守っても、どれだけ必死に殺しても、結局は、すべて消えていく運命。
百年後、千年後、一万年後……。分からないけど、いずれこの星にある命は、すべて消えていくのだ。
この星だけじゃない。
月も。太陽も。太陽系も。銀河系も。もしかしたら宇宙全体だって。どうなるかなんて、わからない。
だからこそ、この星の多くの生命は、ただ日々、淡々と生き、死に、それを繰り返す。来たるべき、自らが消える、その日を待ち詫びながら。
生命なんて、本当に小さい。
砂つぶのような、粒子のような、
いいえ、もっともっと、自分では気付きようもないくらいに小さな存在。
それなのに、人間だけが、くだらないことに拘って、馬鹿馬鹿しいことで争って。
笑って、怒って、泣いて、悲しんで、悔しんで、
愛して、愛されて、
憎んで、憎まれて、
奪って、奪われて、
殺して、殺されて、
支配して、支配されて。
すべて、いずれは必ず消える運命の、無駄、なのに。
健気に残して、いじましく守って、必死に繋いで……。
その繰り返し。
おかしい。笑える。馬鹿馬鹿しい。虚しい。泣ける。
でも、私だって……、命なんて、そんな無駄なものを守って、一体どうするつもりだろう。
あんな人間、ひとり殺して一体、なにになるんだろう。
自分自身に無駄なものを課して、無駄を守って、無駄を排除する。
(やっぱり、私、馬鹿かも……)
いずれ、すべては無に還るのに。
でも……。
無駄は、人間だけが欲すること。人間だけが甘受できる、人間だけのもの。
無駄な命だからこそ、無駄なことに費やすのも悪くない。
誰だってみんな、自分が必要だと思える無駄を消費して、生きているんだ。
無駄だからこそ、有意義なことだってある。
それでいい。それのどこが悪いの……?
エミリは、やっと回り始めた頭にブレーキをかけて、目覚めたての緩い躰で立ち上がった。
黒いゴシックワンピースのパジャマ(というよりもネグリジェ)姿のままリビングに出て、カーテンと窓を開ける。室内の淀んだ空気と外の空気を交換した。これが、エミリの朝の定例儀式。冬でも夏でも、起きたら窓を開けて、一日の始まりを自分と自分の部屋に教えてやるのだ。
大きく深呼吸。二回。
外の空気はひんやりと肌寒く、思った以上に澄んでいた。粒子もきめ細かやかで、とても美味しい。都会の淀んで濁った、埃臭いタールのような空気とは大違いだった。
「なんだか、懐かしい」
ブルーの晴れ空を覆い隠すように広がる、うっすらした白い雲。バルコニの先、二階から見下ろした先には、こげ茶色をした裸の田んぼが視界一面に広がり、そのずっと奥には杉林の濃い緑が見えた。その杉林の手前では、赤い大きなトラクタが小さい豆粒ほどに見え、ゆっくりと田んぼを耕しているのが見えた。毎年遅い春を迎える筑紫の町にも、ようやく田植えの季節がやってきているのだ。
「そろそろ私も田植えしなきゃ……」
エミリは、近所から借りている自分の田んぼのことを思い出す。けれども果たして、今年はそんな余裕があるかどうか。
「それより、まずは朝ごはん……」
エミリはいつも朝食も昼食も滅多に食べない。
催促を始めた黒猫に、遅い朝食(というよりも既に昼食)を与えてから、シャワーを浴びて、黒い制服に袖を通す。そこから一時間はたっぷりとかけて化粧をして、時刻は十二時。
大隈との約束は十三時だった。
制服用の黒いブーツを履き、玄関に立つ。スイッチを触って、照明を消した。
「いってきます」
誰もいない、電気の消えた細長い廊下に声を投げる。
「いってらっしゃい」
※この物語はフィクションであり、実在する人物、法律、団体、名称とは一切関係ありません。
※当作品内に掲載されているすべての文章、画像等の無断転載、転用を禁止します。すべての文章、画像等は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。
[ Copyright 2016 Koma Aoi. All rights reserved. Never reproduce or replicate without written permission. ]




