01. ぬくもり
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二○九九年三月二十五日
光剣一輝は、夢の中にいた。
つまり、それを自覚できてしまうほど、もう何度も見た夢。
毎晩のように見る、あの夢だ。
いつも始めは、見知らぬ平原に立っている。
もう見知った、見知らぬ平原……。
おかしなものだと思いながらも、いつものように周囲を見回す。
辺りは、柔らかな光に包まれていて、とても明るい。
空は、霧か靄がかかったように濁っていて、心地よいほど真っ白に塗りつぶされている。
空気は丸く、暖かい。
季節はきっと、春なのだろう。
乾いた風が、穏やかに、撫でるように躰を通り過ぎる。
夢の中なのに、どこか居心地がよくて、ぼうっと眠くなるような不思議な感覚に襲われる。
(ここは天国だろうか……)
いつもそう思うが……。
見渡す限りの花畑。
黒、
青、
緑、
赤、
黄、
紫、
白、
ベージュ……。
この世のすべての色彩が、そこかしこに散りばめられているかのような、夢幻の光景。賑やかで、艶やかで、芳香の漂う白い空間。
二つとして同じ色、形の存在しない、辺り一面、花の世界。
背の低い、色とりどりの花たちが、こちらを見上げて咲いている。
嬉々として咲く花々は、まるで、こちらを向いて微笑んでいるかのようだ。
一輝はふと、自分の視線が、いつもより低いことに気がつく。
そう……、僕は子供。
この夢を見るときは、いつも子どもの姿に戻っているのだ。
ほんの少し下を向けば、目前には無数の花々。
自分の足は、花の絨毯に隠れてまったく見えない。
一輝は、花をなるべく潰さないように、一歩一歩、足を踏み出す。
まるで、花の海を歩いているようだ。
こんなに密集していたら、きっと息苦しいだろうなと、他人事ながら考えてしまう。
競い合うように、真っ直ぐ空に向かって背を伸ばす花たち。
ここから太陽は見えないが、白い靄の上ではきっと、燦々と輝き、燃え盛っているに違いない。
甘酸っぱくて、ほんのりと雑味のある豊潤な芳香が、風で舞い上げられた。
丸くて角のない香りが、鼻先をくすぐりながら、平原を駆け抜けていく。
ふと見上げると、左右には優しげに微笑む父と母が立っていた。
一輝は、右手に父、左手に母と手をつなぎ、ゆっくりと花畑の中を歩いている。
とても懐かしい気分だった。
ほんわりとした柔らかい火が、心に灯るような……。そんな気持ち……。
今まで、一度も味わったことのない感情……。
親の肌の温もりを一瞬たりとも逃さぬよう、しっかりと左右の手を握りしめる。
強く握れば握るほど、心はどこか不安になる。
掴もうとすればするほど、それを失う怖さが付いてくる。
景色はこんなに綺麗なのに、僕の心は……。
再び、柔らかな風が吹いた。
無数の香りをミックスした風は、さっきとはまったく違う芳香、表情を見せてくれる。
きっと、花の香りなのだろう。
否、もしかしたら、これは母の香りが入り混じっているかもしれない。
母を見上げようとした時、反対から父の声が聞こえた。
「一輝、今日は思いっきり遊ぼうな」
お父さんは、いつにも増して嬉しそうだった。
今日は、白くて、臭くて、汚くて、息苦しそうなあの服じゃない。
僕と一緒。
青くて身軽で、楽な格好。
大きなお腹まで必死に上げた、ベルトのウェストを、よく覚えてる……。
(この服を着る時、お父さんはいつも休みだった……)
今日はずっと一緒にいられるんだ。
お父さんと遊べるなんて、いつぶりかな。
一輝は、心底嬉しくなった。
繋いでいた手を自ら離し、無限に続く花畑を真っ直ぐに駆け出した。
一輝が駆けるたびに、カラフルな花びらが無数に舞って、景色を万華鏡のように変化させていく。
夢のような世界。
そう……、夢だ。
これは、夢なんだ……。
ひとしきり走ったところで、一輝は立ち止まって後ろを振り返る。
純白のワンピースに身を包み、つば広の麦わら帽子を被った母が、こちらに笑顔を向けている。
「お母さん!」一輝は笑顔で叫んだ。
「お父さん!」今度は、両手を必死に上げて手を振った。
「いっきー」
「転ぶなよお!」
二人は笑顔のままこちらを見て、手を振り返してくれた。
「ねえ、早くこっちに来てよお……」
いつもそうだ……。
とても懐かしい夢なのに、一つだけ見えないことがある。
わからないことがある。
そうなんだ。
お父さんも、
お母さんも、
顔が見えない。
いつも見えない。
何度この場所に立っても、
何度振り返って見てみても、
二人の顔はいつも真っ黒。
思い出すことが出来ないんだ……。
見たいものに限って、いつも見えないんだよ……。
それが夢。
いつだって、見たくもないものだけが、無理やり視界に入り込んでくる。
拒めば拒むほど、顔に押し付けられるように、迫ってくるんだ。
それが現実?
「お父さん! お母さん!」
一輝は不安で心がいっぱいになって、大声で叫んだ。
父と母の背後からは、花を根こそぎ吹き飛ばす勢いの突風が吹きつけた。
色とりどりの花びらが視界一面に舞い上がる。
マジックショーのワンシーンのように、視界すべてに花びらのモザイクがかかる。
それと同時に、母の麦わら帽子が、風に飛ばされ宙に舞う。
「帽子が!」
一輝は慌てて帽子を追いかける。
帽子は花びらの海の上に落ちる。
風に煽られ、つばを車輪のようにして、遠くに向かって転がっていく。
追いかけても、追いかけても、一輝は帽子に追いつけない。
それでも必死に追いかける。
やっとの思いで帽子を捕まえた。
「帽子、取ったよ!」
あたりを見回すと、父も母もいない。
それどころか、花畑にいたはずが、冷たいアスファルトの上に裸足で立っていた。
空は曇り、肌寒い。
ここは、どこだ。
「お母さん! 」
返事はない。
「お父さん!」
誰もいない。
「帽子、捕まえたよ!」
暖かな風は止んでいた。
「ねえ! ねえってば!」
辺りはどんどん暗くなる。
湿った風が顔を撫でて気持ち悪い。
凍えるほどに張り詰めた空気を吸って、胸が痛い。
花に覆われていた足は、ねっとりと停滞し始めた、重油のような闇に沈んでいた。
次の瞬間。
どん、という鈍重な爆発音。
全身を突き上げるような地鳴りがしたかと思うと、
激しい目眩……、否、地面が大きく揺れ始めた。
地震だ。
しかも、大きい。
星全体を揺さぶるような轟音。
雷のような激震が、地表に走った。
「怖いよ!」
一輝は冷たい地面に両手をついて、這いつくばる。
「お父さん!」
揺れはどんどん強くなる。
「お母さん!」
嬉しさに満たされていたはずの心が、一瞬のうちに恐怖と不安に浸かってしまった。
「助けて!」
一輝は必死になって立ち上がろうとするが、足が震えて立つことができない。
(逃げないと!)
荒々しい地響きと共に、遥か彼方から、内臓を震撼させるような轟音が迫ってくる。
今度の衝撃は、地震の揺れではない。
唸りを上げる海獣の咆哮。
幼少の心が理解できる範疇を優に超えた戦慄。
津波だ……!
一輝は、振り返った。
次に瞬間、壮絶な恐怖に全身が凍りつく。
山のように盛り上がった海面が、遠く彼方の遠景に、渦高く聳え立っていた。
水平線を湾曲させながら増幅し続ける黒い海面。
小さな荒波をも飲み込みながら、狂った怪物のように迫り来る海面。
はち切れんばかりに膨張した水の頂を崩落させ、想像を絶する水量が襲い掛かった。
大きな黒い水柱は、あっという間に黄土色の濁流へと変わり、灘からな地表をあっという間に飲み込んでいく。
「逃げなさい、一輝!」
母の声が聞こえた。
大蛇のごとき濁流は、猛烈な速度で一輝を飲み干そうと、まっすぐに襲い掛かる。
「逃げて!」
「一輝、逃げなさい」
母の姿は見えない。
「行きなさい」
母の声だけが聞こえた。
(いつもそうだ……)
「おいきなさい!」再び母の声。
(ここで結局動けないまま、津波に飲まれて、目が醒めて……)
体が重い。
「おいきなさい」
動けない。
「おきなさい」
体が燃えるように暑い。
「起きなさい」
海に飲み込まれたように、じっとりとした寝汗が首元にまとわり付くのを感じる。
「起きなさいー!」
夢と現実の狭間に、いつもとは違う変化を感じた一輝は、油粘土のように重いまぶたをゆっくりと開けた。
※この物語はフィクションであり、実在する人物、法律、団体、名称とは一切関係ありません。
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