007 強く在れと言うのなら
城外の草原。魔物がほとんどいないこの地域は、騎士団の訓練所でもある。その一角で、八雲と拓哉は睨み合っていた。八雲の武器は握りしめた木刀。対して拓哉は己が身ひとつ、ただ、両手両足に装甲をつけていた。
精神を澄ませ、拓哉を注視する。拓哉は気が張っている様子もない。いたって自然体でいるものだから、その動きが予測しにくい。
距離は数歩。じりじりと詰め寄りながらも、踏み込まない。踏み込めば、一瞬で刈り取られる。だが、踏み込まないままでも同じことだった。
舌打ちして八雲は飛び出した。勢いに任せて突きを放つ。まず一手。
しかし拓哉は動じない。八雲の突きを受け流しつつ、一撃を入れようと身構える。が、それは軽率過ぎた。
八雲の出した二手目。
「なっ!?」
拓哉は目を剥いて驚愕していた。
受け流された八雲は、勢いに転ぶどころか跳んだ。そしてそのまま身をよじり、渾身の蹴りを放つ。狙うは側頭部。意識を一気に刈り取る算段である。
完全に不意を衝いた。このままいけば、確実に当てられる。八雲はさらに強い力で腰を捻る。身を無理矢理よじったことにより痛みが現れる。
歯を食いしばり、痛みを堪える。
果たして、八雲の蹴りは拓哉の側頭部に命中した。そのまま落ち、八雲は地を転がる。激しい痛みに耐えかねて、八雲は、
「ぐっ」
と喘ぎ漏らした。
──まるで岩だっ!
確実に当てたのに、激痛を得たのは八雲だった。足の甲に違和感がある。
「悪い、咄嗟だったから使っちまった……その、大丈夫か?」
拓哉は申し訳なさそうに八雲を見つめる。
「そんな顔するなよ、まだ終わってないぜ」
不敵に笑って、八雲は立ち上がり──、崩れ落ちた。足にひどい痛みがある。
「もう無理みたいだ」
ブーツを脱いでみると、八雲の足は青黒く腫れあがっていた。少し動かすだけでも激痛が走り、立ち上がるのは困難そうだ。
拓哉はまた申し訳なさそうな顔をする。痛みを堪えつつ八雲は笑いかけて、
「やっぱり勝てないな……」
「ま、俺はいろいろやってたからな。簡単に負けるわけにもいかねえよ」
「俺にも魔法が使えれば、なんて、考えるだけ無駄か」
八雲が自嘲すると、拓哉は黙り込んだ。申し訳なさそうな顔が、余計に腹だった。
「……悪い。思った以上に悔しいみたいだ」
寝転んだ八雲はタオルで顔を隠した。その心中を察したのか、拓哉は城の方へ歩いていく。
「かっこ悪いな、俺……」
八雲たちがこの異世界に来て一週間が経った。
その間に起きたことと言えば、武器を使った訓練によってクラスのほとんどが強くなっていたということだ。勇者の称号は伊達ではないらしい。
麗華などは、魔法の才にも長けているようだった。麗華本人は嫌がって試合はしなかったが、魔術の訓練においては聖也と競えるだけの実力を持っている。
もちろんのこと拓哉は体術に優れ、その一方で愛華は精霊と対話することができるまでになっていた。
中田などは、ザイクに素晴らしいと言わしめるほどの闘争心を秘めている。
他のクラスメイトも同様で、みなさまざまな魔法を使役することができ、また、身体能力の向上も目覚ましい。
圧倒的だったのは聖也だ。剣術においても魔法においても、その実力は桁外れで、今や王国内でも注目の的となっている。
しかも聖也はそれを鼻高々に自慢する節もなく、いたって真面目な好青年という印象を持たれていた。
「ちくしょう……」
その一方で、八雲は伸び悩んでいた。
この世界では、元来、人は誰しも魔法を使役することが出来ると言う。事実、そのあたりを歩いている子供でさえも、威力のない初級魔法なら使えるのだ。
だが八雲には、その初級魔法さえもが使えない。実戦訓練ならば、と意気込むも、やはり勝つことはできない。なぜかと問われれば、魔法が使えないからだ。
戦闘では、基本的には魔力を使って身体能力を向上させる。戦闘時のみに身体能力をあげる、いわば一時的なブーストだ。
三日前、二度目の適性チェックをしてみたが、やはり水晶は透明なままだった。水晶にはなんの問題もないと言う。つまり、八雲には各魔法の適性がなかったのだ。
さらに悪いことに、八雲は強化魔法が使えなかった。クルト曰く、“魔力がほとんどない”らしい。
ふと、思い出す。
「努力したって、変えられるものじゃない、か」
それは、セルグに言われた言葉だった。
魔力の保有量は成長限界までは使うことによって増えるが、魔法適性はどうやっても変えられない。
適性は生まれたときからすでに決まっており、これは自然に過ごす限り不変の事実なのである。
「なら、どうしろって言うんだよ」
誰にともなく呟く。
どうすればいいと言うのだ。この世界には、才無くしても扱える銃火器はない。才無くして生き残れるほど、この世界は甘くないのである。
無性に苛々する。
八雲は虚空に手を伸ばした。ぐっと握りしめても、空を掴むだけ。手の中に残るのは、虚しさだけだ。
どうしようもないことだというのは嫌というほどわかっている。自分は弱いと自覚している。仕方のないことだと理解していても、苛立ってしまうのだ。
伸ばした手を、だらしなく落とす。
それが服部八雲の生き方だった。手の届かないものは諦める。だって、どうしようもないことだ。それが不変の事実だとわかっていればなおさらである。
そこへ、
「八雲くん?」
不意に声が掛けられた。
ついで、タオルが取られる。そこにあったのは、よく知る幼馴染の顔だった。いつもニコニコしていて愛嬌のある、周囲に元気を振りまく女の子。
「怪我してるんでしょ? 今治してあげるね」
そう言って、愛華は八雲の足を見た。顔を歪めながらも愛華はすぐに両手をかざして、
「我、汝の傷を癒さん、“精霊の恵み”」
現れた淡い桃色の魔法陣より、暖かな光が発せられる。人肌くらいのその暖かさは、みるみるうちに八雲の足を包み込み、青痣を消していく。
自らの足が治癒されていくところを見ていると、感謝と同時に切なさが湧いてくる。昔を思い出しつつ、八雲はささくれた気分も和らぐのを感じた。
「ありがとな」
「ううん、気にしないで」
愛華は淀みのない笑顔を向けてくる。それがなんだか眩しく見えて、八雲は目を細めた。そうしているうちに、痛みは完全に消えていた。
「拓哉くんがね、教えてくれたの。俺が怪我させちまったんだって言ってね」
「……そうか」
「すっごく急いでた。八雲くんのために、だよ」
八雲はそのとき、裏切られたような気分を覚えた。だが、それが自分の思い込みだというのも承知している。ただ、愛華の口調は自分を責めている気がしたのだ。
八雲は自らを自分勝手だ、と評している。
弱さを自覚しているのに、それを他人に指摘されるのがどうにも悔しく、また、他人にそういうつもりがないのだと分かっている。だからこそやりきれなくなって、自らに嫌悪を抱く。
それこそが一番の弱さだと知っていても、治せない。
「あいつは悪くない。悪いのは俺なんだ」
拓哉はなにひとつ悪くない。かと言って八雲の弱いのが悪いと言うわけでもない。
悪いのは、勝手に嫉妬して、勝手に自虐して、勝手に自己完結する自分なのだ。受け入れねばならないとわかっているのに、それを受け入れられない自分が悪いのだ。
だがしかし、それを否定してもらいたい自分がいることにも気づいていた。この心優しい女の子なら、きっと否定してくれると、そんな身勝手な希望を押し付けている。
「……そうだね、きっと拓哉くんは八雲くんを傷つけたりしないと思う」
その可憐な顔を綻ばせて、愛華は再び八雲に言う。ちくりと胸が痛んだ。
「俺が弱いからだよ。あいつに非はないんだ」
「……そっか」
愛華は目を伏せる。いたたまれなくなって、八雲は目を瞑った。すると、風が吹くのを感じられる。微風は生温く八雲の肌を舐めていく。それがなんだか無性に気持ち悪い。
「八雲くんはきっと、悩んでるんだよね」
唐突に愛華が呟く。八雲は応えず、瞑目したまま風を感じていた。
「でも、大丈夫だよ」
どうして大丈夫と言えるのか。弱さを弱さと受け入れきれず、許容したくないと駄々をこねている自分がなぜ大丈夫なのか。八雲は真意を確かめるべく尋ねる。
「どうしてそう言える」
「だって八雲くんは強いから」
八雲は心が再びささくれるのを感じた。愛華の言っていることはまったく理解できない。
なるほど愛華が自分を慰めていると言うのなら話は別だが、今の愛華は慰めているわけではないだろう。声音には実感が伴っていて、憐憫の情は欠片もない。
片目を開けてちらと窺うと、愛華は空を見上げていた。その横顔は、どこか愁いを帯びていて、まるで──、
まるで、物語の英雄に憧れを抱いているようだった。愛華の姿は、無邪気にその背中を追うこともできず、かと言って諦めることもできない、中途半端な憧憬を抱いているように映った。
──どうして……?
はっきり言って、八雲は愕然とした。
愛華は別段志が高いわけではないし、もとより高い志を持つこともない、普通の女の子であると八雲は認識している。
そんな愛華が、焦がれるほどの憧憬を抱いているとは思えなかった。
「わたしね、八雲くんは強いと思うよ」
八雲は黙り込む。心持ち胸が苦しくなって、愛華を見ていられなくなる。だが、目を逸らすことはなぜかできなかった。吸い込まれるように、愛華に視線が行く。
「ごめんね、勝手に押し付けちゃって」
愛華は儚げな微笑を湛えていた。それを目にした瞬間、八雲は衝動的に叫びたくなった。
自分は強くない。逃げてばかりで、何の強さも持ち合わせていないのだ、と大声で伝えたかった。だが、できなかった。
それは、別に愛華の中の八雲を壊すのがいけないとか、そういうことを考えてではない。
ただ、ひとえに八雲が弱さを拒絶するためであった。本当は弱いと自覚しているのに、その弱さを受け入れきれないから、他人の評価を否定できない。
受け入れるというのは、ただ口頭で自らの弱さを肯定することではない。心にその弱さを許容させ、肯定する。自らは弱いと認識し、それを踏まえて努力を重ねる。
そういったことができるのが、所謂強さなのだろう。自分を認め、逃げないこと。それが八雲にはできなかった。
「わたし、八雲くんはすごいひとだと思う」
愛華は少しだけ照れくさそうにする。それからまた、八雲の目を真っ直ぐに見つめた。蜂蜜色をした、どこまでも純粋な瞳が八雲の姿を映す。
八雲には、その瞳に映る自分がひどく矮小な存在に見えた。ちっぽけで、何もできなくて、脆い、そんな人間。それが自分。だとして、何の問題があるのだろう。
困惑の表情を浮かべる八雲に、愛華はただ淡々と言った。
「だから、強くなって。八雲くんはすごくて強い人だから、強くなって」
八雲には愛華の言った意味がまるでわからなかった。先ほど強いと言っていたのに、今度はもっと強くなれと言う。もともと強くないのに、さらに強くなれなど無理矢理すぎる。
しかし、愛華の願いは八雲の胸に深く浸透していった。自分でも驚くほどすっと、胸のうちに溶けていく。
じんわりとした暖かさと、不思議な使命感とが混ざって、胸中にあった靄が薄れていった。
「えへへ、何言ってるかわかんないよね。勝手なこと言ってばかりで……。でも、これがわたしの気持ち」
両の掌を合わせつつ、愛華は恥ずかしげに八雲を見つめる。
八雲は、救われた気がした。意味はわからなかったが、きっと愛華の言葉は大事にするべきもので、今の八雲にとって何よりも大切なもののように思えた。
「たしかにわからなかった」
八雲は冷淡に言う。やはりと言うべきか愛華はしょんぼりと目を伏せた。いたたまれないが、本当のことだから仕方がない。けれど、本当に思ったことはもう一つ。
「けど、愛華。すごく嬉しかった」
八雲は破顔してそう告げる。
すると一転、愛華は喜色満面で立ち上がる。上半身を起こすと、吹き抜ける風が爽快感を与えた。
愛華が肩をつつく。八雲が振り向くと、
「行こ?」
と、愛華は手を差し伸べた。
八雲は目をしばたたかせたのち、ふっと笑みを過らせる。
「……俺は強く在らないといけないらしいからな。早く戻ろう」
愛華の手を取って、立ち上がる。この、小さく柔らかな手に、八雲は少し救われたのだ。そう思うと、情けないような、嬉しいような感じがする。すでに、苛立ちはどこかへ消えていた。
八雲が歩き出すと、愛華も横を歩く。
「今日はなにするの?」
「図書館にでも行くさ。力がないならせめて情報だけでも得ておくべきだしな」
「わたしも行っていい? 面白い本があったら読みたいの」
「面白い本、見つけたら俺にも読ませてくれよ」
「もちろん!」
あ、と愛華が漏らす。何かに気がついたようだった。
「ねえ八雲くん……」
「どうした?」
「わたしたち、この世界の文字読めないよね……」
「……そういえばそうだったか」
迂闊だった。この世界では、なぜか日本語が通じている。が、文字はまったく違うのだ。したがって、異世界人である八雲たちにはまったく読めない。
どうすれば、と考えて、八雲はひとつの結論に行きついた。
「クルトに読んでもらおう」
「たしかにクルトくんなら読めるもんね」
「有無を言わさず連行するぞ」
「うん!」
愛華は元気よく返事をする。なかなかひどいことを言ったつもりだったが、はたして愛華はちゃんと理解しているのだろうか。そのうち「強盗に行くぞ」と言ってもいい返事をしてしまうのでは……と思ったが、さすがにそれはないだろう。
天然気味な幼馴染を心配しつつ、八雲は空を仰ぐ。澄みきった青空は、果てしなく高かった。どんな世界でも、空は綺麗らしい。だが隣の幼馴染は空を見る気などないようだ。
鼻歌まじりの愛華はスキップでもしそうな雰囲気である。
幼馴染は強く在ってほしいがために強くなれと言う。いくらなんでも無茶苦茶だし、それに、その要求はあまりにも突飛すぎて、まったく理解できなかった。
けれど、心には染み込んだ。それが、感情というやつなのだろう。難しすぎて、簡単すぎる。
なんにせよ、強く在らねばならない。それは、幼馴染の希望でもあるが、自らのためでもある。そのためにはまず、この弱さを受け入れねばならないのだろう。
──さて、どうやって弱さと向き合っていこうか。
目の前に聳え立つ荘厳な城を眺めつつ、八雲はそんなことを考えた。