054 セタンタ
ほどなくして商人が戻り、アリスの立ち合いの下、八雲とセタンタの勝負が始まった。
意外なことにいつの間にか観客席には人が集まっていて、八雲とセタンタの勝負を観戦している。ざわめく観客のなかにはアクアたちの姿もある。
しかし八雲は、一切の意識を目の前の地竜に向けていた。
「そっちが来ないならこっちから行くぞ!」
いつもは相手の出だしを待ってカウンターを狙うのだが、今回はセタンタが動こうとしなかった。とうとう痺れを切らして動いた八雲だったが、地竜がどんな戦い方をするのかなどまったく知らない。いままで読んだ文献には地竜の情報など載っていなかったのだ。
だが、見た目からして地竜が俊敏に動くとは考えにくい。八雲は簡単に決めつけると、
「いつもの戦法は無理ってことか」
緩急をつけてセタンタに迫る。しかしセタンタは一切動じず、冷たい眼差しで八雲を見つめていた。そう、八雲の動きを見切るように。
──同じタイプ?
いや、断じるにはまだ早い。ただ耽々と機を狙っているだけの可能性もある。
一撃を食らわせるための手順を編み、八雲は魔力を上げて一気にブーストを掛ける。そのまま、右の拳を目標へと。
「よしッ!」
セタンタはこちらに気がついていない。八雲の拳が唸りながらセタンタの脇腹に──、
拳は、しかし寸前で硬い何かに止められた。まるで岩盤のように硬く、殴りつけた八雲の拳にジンジンと痛みが残る。硬いそれが尻尾だったと気づくのに時間は要らなかった。
次の瞬間にはセタンタの尻尾が八雲の腹を捉えたからだ。
「かハッ!?」
「兄ちゃん!? 大丈夫か!?」
吹き飛び、地面を転がる八雲を見て商人は顔を青ざめさせる。八雲は起き上がり、
「怪我はしてない」
と手を上げ、苦渋の表情でセタンタを見た。対してセタンタは、「何もおかしなことはないだろう?」とでも言いたげに流し目を向けてくる。
「まさかあんなに速いとは……」
尻尾の動きがまったく見えなかった。拳を止めたのが尻尾だと分かったときにはすでに腹に衝撃が来ていたのだ。考えを改めねばなるまい。
「やってくれたな! 今度はこっちの番だ!」
八雲は笑顔でそう叫ぶ。そして、考えてみた。
地竜は見た目こそ鈍重そうに見えるが、実際にはそこらの冒険者よりも格段に速い。加えて、商人が言っていたようにセタンタはかなり賢しいのだろう。でなければ、流し目で挑発することなどあり得ない。
──もしも、もしも最初からすべてが演技だったのなら?
気を張っていた、というのが商人の勘違い……いや、そう考えてしまうようセタンタが仕組んでいたなんてこともあり得る。むしろ、その線の方が可能性は高そうだ。
「……とんだペテン師もいたもんだ」
八雲はそう呟くと、口のなかに入っていた砂を吐き出して走り出した。
× × ×
セタンタは、血気盛んな個体が多いと言われている地竜のなかでもかなり聡明な個体だ。
事実、以前に所属していた冒険者のパーティの窮地を、その賢さで何度も救ったことがある。セタンタにとっては家族同然の存在だったが、あるとき見たこともないほど凶暴な魔物に襲われて全滅した。仲間はあっけなく喰われ、しかしそのおかげでセタンタは上手いこと逃げおおせた。いや、逃げおおせたというのは語弊がある。セタンタは救援を望んで街に戻ったのだが、あいにくと救援が駆けつけたときにはすでにあたりは血の海になっていたのだ。
それからというもの、セタンタはその生を無為に過ごしてきた。何をするわけでもなく、元の主人が懇意にしていた商人のもとで燻っていたのだ。
理由は、怖いからだった。あのときのように凶暴化した魔物と出会うことが怖いのではない。それによって仲間が喰われること、引いては自らの無力を知るのが怖いのだ。
セタンタは、商人が紹介してくる冒険者なども気軽には乗せなかった。一度その実力を確かめねば気が済まないのである。とは言え、確かめるのは護衛と思われる人間もしくは男だけだ。女子供を守るのが男の役目だと思っているからだ。
だからこそ、今日もやってきた冒険者に対して力比べをせがんだ。わざと気を張っているふりをして、相手に直情的なタイプなのだろうという勘違いを持たせた。
結果、やはりセタンタが優位に立っている。そしてセタンタは、勝負をとおして八雲を“すぐに死にそうな男”だと断じた。一撃を入れる算段もなしに突っ込んでくるなど愚の骨頂だ。
まるで話にならない。セタンタが鼻白んだ、そのときだ。
「カウンターだけじゃ話にならないぞ!」
八雲が急激に速度を上げ、当たると確信していたセタンタの尻尾を避けたのだ。唖然としたセタンタの隙を目敏く突き、八雲が蹴りを繰り出す。
見事に八雲の蹴りは、油断していたセタンタの脇腹にヒットする。くぐもった苦悶の声がセタンタの口から零れた。細い脚のくせに、なかなかどうして重い一撃だった。
「ほら、まだやれるんだろ?」
不敵に笑む八雲は、しかし肩で息をしていた。
当然だ。性懲りもなく仕掛けてくる八雲の攻撃はセタンタによって防がれ、あげく尻尾によるカウンターを何度も食らっているのだから。普通の人間だったら、これまでにあってきた男たちだったら、もう立ち上がってはこないはずだった。
不思議そうに顔を顰めるセタンタに、八雲は服についた砂を叩いて言う。
「何度だって立ち上がるさ、なんせ俺はしぶといからな」
汚れた服装。頬に出来た裂傷。それらをなんとも思わないように八雲は笑う。
随分とコケにされたものだ。セタンタは久しぶりに味わう痛みに双眸を細めながら、低い唸り声を発した。どうやら舐めすぎたらしい。
少し本気を出してやろうと意気込んだセタンタだったが、違和感を覚えた。
何かがおかしい。先ほどと同じようにカウンターを狙っているのに、そのことごとくが躱されている。八雲の緩急をつけた動きに翻弄されたわけでもないのに、どうしてか当たらない。八雲の動きを観察していたのに。一撃目を入れたときから、ずっと。
眉根を寄せるセタンタを見て、八雲がぐっと握りこぶしを作る。
「なんで避けられてるのかわかんないって顔してるな。おおかた、俺の動きがわからなくなったんだろ」
言い当てられたセタンタは不満そうに口の端を吊り上げる。八雲はますます上機嫌になって、
「でも、俺にはお前の動きがわかってる。カウンターに特化してることも、相手をよく観察する癖があるってことも」
八雲が懐に飛び込もうと踏み込む。セタンタはそれを阻止するべく、器用に尻尾を使って進路を塞いだ。が、八雲は直前で空中に飛び出すと、そこにあった魔法陣を蹴ってセタンタの顔を殴りつけた。
「だったらお前の癖を利用してやればいいだけのことだ。そうして嵌めちまえば最後、カウンター主体の相手なんて簡単だよ」
その一言でセタンタの堪忍袋の緒が切れた。空に向かって吼え、在りし日のごとく力任せに巨体を駆る。強靭な尻尾が地を割り、岩をも噛み砕く顎が八雲を捉える。
しかし、
「……やっぱりな」
当たらない。
「お前は人を傷つけるのを怖がってる」
当たらない。セタンタは吼えた。その先を言うな、と。
「なにがあったのかは知らないが、お前の動きは俺に当たる直前でわずかに緩む。これが、お前の攻撃を避け続けられている理由だ」
言い終えた瞬間、セタンタは喉が張り裂けそうなほどの絶叫を上げた。そして、考えなしに突っ込む。
「何が怖いのかは知らないが、」
八雲はセタンタの渾身の一撃を躱すと、空中で回転し、踵落としを叩きこんだ。セタンタの顔が勢いを余すことなく地面に伝え、かなりの轟音が闘技場に響き渡る。
「おいおい、大丈夫かよいまの!?」
「脳震盪を起こしててもおかしくないぜ!?」
目を見開き、観客たちがそろってざわめく。だがセタンタは意識を失なっていなかった。かえって、冷静になれたくらいだ。セタンタは起き上がらず、瞑目して考える。
八雲の言葉はすべて真実なのだ。セタンタは、これまでの勝負でも相手に致命傷を負わせたことなど一度たりともない。
「俺はお前の全力を知る義務があるんだよ。……あいつらを護るためにも」
それは、人の死があまりにもあっけないものだと知ってしまったからに他ならない。自分たち魔物と呼ばれる存在の一撃は、生身の人間にはあまりにも重すぎる。数年も前、組んでいたパーティの全滅によってセタンタはわかってしまった。
自分とみなとの違い。
種族と言う名の、どうしようもない違い。
だから、セタンタは無意識下にリミッターを掛けていたのだ。
「全力で来い! 俺のことを殺すつもりでな」
「何言ってんだ! こんなとこで死ぬつもりか兄ちゃん!」
商人が叫ぶ。八雲はそれを無視して、
「ここで死ぬくらいなら、この先もきっと通用しない。それに、さっきも言ったけど、俺とお前はこれから命を預け合う仲だぞ? お前の全力を知らなきゃ、俺はお前に命を預けられない」
八雲が挑発的な眼差しをセタンタに注ぐ。早く来い、と言わんばかりに。
セタンタは昔を思い出した。そして、駆けだす。
その日、夕方になってアリスが中断するまで、八雲とセタンタは絶え間なく己をぶつけ合っていた。そして、二人はくたくたの体で笑いあった。
ある地竜が、ひとりの青年を認めた日だった。