050 茶番
船が港に着くころには、すでに乗客はみな甲板に出てきていた。幸いなことに、海に飛び込んだ客も無事に助け出されたらしく、身体はボロボロだが元気そうだった。
次々と降りていく乗客のなかにアリスたちはいた。どうかしたのかと目で問うてくるアリスに先に行けと告げると、八雲はじぃっとこちらを見つめてくる存在に振り返った。
「兄ちゃんが活躍する場はなかったけど、ありがとよ」
「活躍できたかはわからないさ」
「素っ気ねえ答えだ。ま、やれないとは言わねえだけマシだな」
頭領がニッと笑いかける。八雲は不思議になって片眉を持ち上げた。
「随分と高く買ってくれるな」
「兄ちゃんの目見たら誰だってわかるぜ。人が死にそうな状況で冷静な対応ができるってのは、かなりの場数を踏んできた証拠だからな」
「否定するようで悪いが、場数はあまり踏んだことがない」
頭領が目を丸くした。どう見たってそれはないだろう。そう言いたげだった。だが八雲が何も言わないのを見ると、頭領は真面目な顔つきになって言った。
「そいつが本当なら、兄ちゃんは相当な野郎だぜ」
「そう取ってくれていい。概ね間違ってない」
八雲は頭領の言葉を噛み砕いて適当に返す。頭領は眉間の皺をますます深くすると、すっかり禿げあがった頭を掻いた。
「……間違っても死んでいいだとか思うんじゃねえぞ」
「ああ、肝に銘じておく。忠告ありがとう」
「じゃあな兄ちゃん、いい旅を。また乗ってくれや」
釈然としない様子ではあったが、頭領は何も口出ししてこなかった。八雲は彼の見送りに手を上げて応えると、船から飛び降りて先を行くみなを追いかけた。
「なんだかすごかったみたいですね……」
「いや、本当にすごかった。あれを見たら誰だって自信を失くすさ」
「じゃあ八雲さんも?」
「どうだかな」
小首を傾げるアリスに八雲はやんわり言う。
「俺は正直言って弱い。けどまあ、やるとなったらやるしかないだろ?」
「ふふっ……変な答え方ですね」
「変人で悪かったな」
アリスが笑みをこぼし、ばつが悪くなった八雲はそっぽを向いた。
そこで自然と視線が向かったのは海上からも見えていた時計塔だ。さっき見たときは十二時を指し示す頃だったが、いまではすでに十三時を回っている。
「ここが……」
あたりを見まわしてみれば、案外に普通の人が多い。なかには動物の耳や尻尾を持つ獣人もいて目を丸くしたが、街行く人の大多数はアルスにいた人たちと姿が変わらない。
八雲は事前に説明を受けていたから驚きが少なかったものの、こうしてみるとやはりアルスでの教育が間違っているのだと改めてわかる。
「ここが、カルマ大陸か……」
「そうじゃな。大陸本土では最西端の街じゃ」
答えたのは白髪の老人。八雲の旅に同行し、さらには道中の路銀をも提供してくれている支援者のような存在である竜王だ。
竜王はぼうっとしている八雲を見ると意地が悪い笑みを見せて、
「美人でも探しとるんじゃろ」
「え? いや、別にそういうわけじゃないって……」
「誤魔化さんでもいいんじゃぞ。男なんてそんなもんじゃ」
「だから違うっての」
「お兄ちゃん……そういう人だったんだね」
「誤解だからな!?」
真に受けたイーナが後ずさりして、焦った八雲は慌ててそれを否定した。美人を見たら目に留まるだろうが、八雲自身はおそらく目移りなどはしない。
──……絶対に言わないが。
八雲がちらりと隣を見遣る。視線を受けてきょとんとしているあたり、アリスはどうやら話を聞いていなかったらしい。八雲が小さく息を吐くと、竜王は目敏く八雲を見た。
「なかなか褒め上手じゃのぉ」
「褒めてなんかないだろ、ていうか何の話だ」
ぶっきらぼうに八雲が言った。アリスはますますわからないと眉間に皺を寄せる。
考え込むアリスをよそに、嫌な笑みを浮かべたままの竜王はそっと八雲に耳打ちした。
「いい、いい。わしはわかっておるよ」
「……言うなよ?」
「言うに決まって……ないから安心せい!」
腰の剣に手を伸ばした八雲を見た竜王は目を剥いた。
さすがに本気ではない。八雲は竜王の驚くさまを見ると満足して、
「ハハハっ、驚いたか?」
「いつものお主を見ておれば誰だって驚くわい! アホか!」
「なんていうのかな、俺もこういう悪戯の楽しさを思い出したんだ」
唾を飛ばす勢いでまくしたてる竜王の姿は普段と違ってなかなかに面白い。気がつけば考え込んでいたアリスもくすくすと手を口許に添えている。
「ふふっ。竜王さんもそんなふうに驚くんですね」
「わしをなんだと思っておるんじゃ」
「悪戯好きのじいさん、ってところだな。それでいて意地が悪いひとだ」
「──おじいちゃんは優しいよっ!」
顔を真っ赤にしたイーナが珍しく大きな声で言った。涙目ながらもそこに強い意志を映すイーナを見て八雲とアリスが苦笑する。どうやら彼女は冗談を本気と取ってしまったようだ。
「おじいちゃんは悪戯も好きだけど、みんなのことが一番大好きなんだから!」
イーナという人間の少女は、何の因果があったのか竜王の孫である。燃えるような赤いセミロングの髪は鮮烈であり、前髪は眉のあたりで綺麗に切り揃えられている。内気で温厚な性格だが、おじいちゃん想いの優しい女の子だ。
「わたしはおじいちゃんの孫だからわかるもん……!」
だからこそなのだろう。イーナは強い口調で竜王の良いところを並べ立てるとともに、竜王に抱きついた。件の竜王といえば、深い皺の奥にある両の眼を潤わせて感動している。
「おじいちゃんは悪い人じゃないよ……っ」
「い、イーナ!?」
「ごめんなさい! 悪口のつもりはなかったんです……」
いよいよ竜王の孫娘は堪え切れずにひとすじの涙を零した。狼狽えるのは八雲とアリス、くわえて祖父である竜王も一緒だった。
「大丈夫じゃよ!? 泣かんでええんじゃ!」
「でもおじいちゃんは本当に優しいから……」
「ごめん! 俺たちだって竜王の優しいところは知ってるつもりだ」
「八雲さんの言うとおりです! 竜王さんはいつも悪戯ばかりですけど、本当はみんなのことを第一に考えてくれているんです!」
三人が口々になだめるも、イーナは鼻をすんと啜って泣いている。擦りすぎたせいで目許もすっかり赤い。もはや狼狽しきってどうすればいいかわからない八雲は、とにかくイーナの肩に手を置いて涙を拭っている。
「イーナ、ごめんな……?」
「ごめん、なさい……冗談だってわかってるのに、でも、おじいちゃんが可哀想だったから……」
イーナも泣き止みたいのだろう。何度も目をこすっては、ぐっと唇を噛みしめてしゃくり上げるのをこらえている。健気な少女を見ていると、八雲もだんだん泣きたくなってきた。
「うぁあ…ごめんなさい竜王さぁん……わたしも竜王さんのこと大好きですぅう……」
「わかった、わかった! わかっておるからちゃんと立て! ほれ、背をさすってやるから!」
アリスなどはすでに泣いてしまって、こちらはこちらで竜王になだめられている。
収集がつかなくなった状況に風を吹かせたのは、まだ年端もいかない少女であるアクアだった。アクアはイーナに寄り添うと、背伸びしてその赤い髪をなでながら、
「ないちゃだめだよ? おじいちゃんもないちゃうから」
「うん…わかってるよ……ありがとう」
かなしげに笑顔を作るアクア。イーナはさらに唇を震わせて、静かに涙を流した。
愛娘たるアクアの成長を感じ、なおかつ周囲の空気にあてられた八雲の堰も壊れそうになった。が、寸前でぐっとこらえる。
「そうだな、アクアはよくわかってるな……」
若干声を震わせながらも八雲がなでてやると、アクアはくすぐったそうに目を細めた。
八雲は、愛娘がこれからもっと成長し、ゆくゆくは誰かに嫁ぐのかと考えてまた泣きたくなってきた。
「やらん、アクアは誰にもやらないからな……!」
「ずっといっしょ?」
「そうだ、ずっと一緒だ。俺の最期をみとってくれ……」
「よくわかんないけど、あくあごしゅじんのことすきだよ?」
その言葉が杭となって八雲の胸に突き立った。
えてしてダムという建造物は小さな穴で内側から決壊してしまうものだ。だから、いまの八雲にはアクアの言葉が突き刺さったのだ。
「アクアぁ……」
「ないちゃだめだってば。ねぇごしゅじん、くるしいよー!」
その場にくずおれた八雲がアクアに縋りつく。怪しい青年が可愛らしい幼女に抱きつくなど現代社会では通報ものだろうが、いまの八雲にはそれを想像する余裕さえなかった。
ともあれ、現状で冷静なのはアクアと竜王だけだった。アクアだけは涙を一滴もこぼさず、自身の周囲で泣き出す大人たちを訳が分からないと言った顔で見ている。
「おじいちゃんたすけて……」
「もう少しの辛抱じゃよ。我慢じゃ」
顔を顰めるアクアに竜王は達観したように遠くを見つめていた。竜王にも泣きじゃくるアリスという厄介な代物がくっついているのだ。
「というか、わしもイーナの言葉が嬉しかったが……」
竜王はこちらを見つめている人々に「申し訳ない、申し訳ない」と頭を下げながら呟いた。
「なんじゃこの茶番」
なんですかこの茶番。いや、マジで。