044 蒼の女神と呪われた勇者
備え付けの棚の上で、アロマキャンドルが火を揺らめかせている。明かりはそれだけで、ほのかな薫香が部屋の中に満ちていた。気分が落ち着く、いい香りだ。
夕食と風呂をいただいたのち、八雲は案内された部屋のベッドに寝転がって天井を見つめていた。特に何も考えず、ただぼーっと。
いつまでもそうしているわけにもいかず、八雲は改めて明日からの予定を脳裏に起こす。
旅に出るのは明日。急な日程にも思えるが、竜王からの提案だ。おそらくは、八雲の意を汲んでくれてのことだろう。
アリスは渋るかと思っていたのだが、そんなこともなかった。むしろ、笑顔で急かしていたくらいだ。どうやらこれから先、二人には頭が上がらなくなってしまったらしい。
八雲は、昼のアリスとの会話を思い出した。彼女は、自分がなぜ封印されていたのかを憶えていないと言っていた。しかし竜王にも訊かないと言う。
ふと、考え始めた。今まで、考えるのを放棄していたことを。
なぜ憶えていないのか。封印を施した理由はいったいどこにあるのか。そもそも勇者とはなにか。疑問は募るばかりで、どれも答えに繋がらず、後回しになっていくばかりだ。
勇者がなぜ存在するのか。たとえば、魔王を倒すため。世界に平和をもたらすため。いや、まず誰が勇者を勇者と名付けたのか。何を以て勇者としたのか。
アリスは初代勇者だ。その証拠は彼女の身に宿る“聖剣”の名を冠する神託にある。神託が女神から与えられたものなのだとすれば、それは何のために?
魔王を倒す旅に出たことは明らかだ。だが、女神が聖剣を与えたことに、魔王を倒すという理由があるのか?
そも、アリスの話が正しければ魔王は滅ぼされる理由がない。何か、見落としているものはないだろうか。何か、あるはず。過ごしてきた日々のなかに、あるはずだ。
「思い出せ……」
何かあるはずだ。さっきアリスたちに語ったすべてのなか、あるいは語っていない、なんでもない日常のなかに、ヒントがあるはずなんだ。
──そういえば……。
思い浮かべたのは、咢に落ちたあとのこと。
銀髪の少女、ノア。あのとき彼女は、なぜ自分を助けたのか。そして最後に残した言葉。
――『竜王を頼って』
そこにどんな意味が込められていたのか。なぜ竜王を知っていたのか。待て。まだだ。その前に、落ちるときに確かに見たはずだ。会ったはずなのだ。
女神に。
「いや、ずっと前から会ってた……のか」
ずっと前から会っていたのだ。死を願う少女と幾度となく言葉を交わしてきたではないか。
思い出せ。蒼い少女に告げられていた、この世界のことを。いつも夢だと思い込んでいた、幼いころの記憶の断片を。あれは、単なる夢じゃなかった。たしかに、会って話をしていた。
「あのとき、あいつはなんて言ってた……?」
記憶を洗い出す。おぼろげで曖昧な記憶。王立図書館で読み漁った文献。
──『いつか、私を殺しにきてください』
──『私があなたに呪いを掛けたのです』
あともう少し。すぐそこまで、答えが来ている。
神託を与え、勇者という存在を創りだした理由。過去の文献を思い出す。あれが真実なら、彼女は残酷な希望を託した。そして神は死んだ。虚しさゆえに世界を滅ぼそうとする神と、ミラスティリアに宿命を与えられた神の一族。その宿命がなんなのか。
世界を滅ぼそうとする神。ある意味では魔王らしいと言える。それを倒すのが宿命を与えられた神の一族? いや、それなら勇者はいったいなんのために存在する。
最初の疑問に帰結する。
そして、脳裏を過る、幼いころの記憶。腰まで届く、蒼穹のように蒼い長髪が揺れる。たれ目がちな瞳と泣きぼくろが妙な艶めかしさを醸し出していた。特徴的な、胸元のロザリオと銀に煌めく髪飾り。ボロボロと泣きながら、彼女は──、
とんっ。
「わっ……どうしたんだよアクア」
蒼い球体が八雲の顔にのしかかる。もっちりした感触のそれをどかし、問いかけてみる。当然、答えは返ってこない。身体を揺らし、こちらを見つめるのみだ。
「……なんて言ってたんだったか」
同時に、すぐそこまで出てきていた答えが再び隠れる。
また、考え始めた。しかしどうにも集中できない。
「あのときもこんなんだったってのに」
苛立って、八雲はガシガシ頭を掻いた。ベッドに投げだした身体が沈み、強張っていた筋肉が徐々に弛緩していく。心地よさが眠気を誘い、しかし八雲は欠伸を噛み殺した。
蝋燭の火に向けて手を開く。それから、握りしめた。
「知りたいときに知ればいい、ね……」
先刻の発言を反芻する。八雲は双眸を悔しげに細めて、
「どうやっても知ることができないなら、どうすればいいんだよ……!」
自分の身体に掛けられた呪いとは一体なんなのか。運命そのものを呪っているのか、それとも身体に掛けられた、魔法が使えないという制約が呪いなのか。それすら定かではない。
すべては女神だけが知り得る情報。勇者という存在も、神託も呪いもそうだ。考えてもわからないことだらけで、脳の回路がショートしそうだ。
「知恵熱ってやつか……?」
額を触ってみると、熱い。心なしかぽーっとしてきて、微睡みのなかにいるような感覚になる。だんだんと視界が狭まってきて、蝋燭の火がいっそう揺れを強める。
最後に映ったのは、口をもごもご動かすアクアだった。
「あく、あ……?」
それきり、八雲は何も言わなくなる。伸ばした手がするりと落ちた。
× × × ×
両親が死んだ原因は、対向車との衝突によるものだった。
不運な事故とテレビで報道されていたのを憶えている。しかし八雲は不運な事故なんかではないと知っていた。だってあのとき見た、運転手の目は血走っていたのだから。
しかも、見知った顔だった。金の横領で会社を辞めることになった父の同僚に違いなかった。横領が発覚したのは父が告発したから。きっとあの男は、父を恨んでいたのだろう。
そう言えば、人が自殺するのを見たのも初めてだった。
炎上する車。ぐったりと倒れた母と、自分を外に出そうと懸命に身体をよじる父。結果として、八雲は外に脱出できた。しかし父と母は、出られなかった。父の足が、ドアに挟まれて潰れていた。
目を覚ました母が言った。早く出なさい。窓ガラスを割って父が言った。いきなさい。早く。八雲は何が起こっているのかわからなかった。が、両親の剣幕に押されて車外に出た。
すぐに近くにいた男性に抱き上げられ、その場から離された。
車からは黒い煙が上がっていた。
父さんは? 母さんは? 八雲が問うと、男性が言った。ここにいなさい。私が行くから。男性は車体に近づくと、力任せにドアを引っ張る。すると、両親が車内から声を張り上げた。
父が叫んだ。いきなさい。父が大声を上げるのを初めて見た日だった。母も叫んでいた。愛してるわ、と。掠れた声がまだ耳に貼りついて消えない。
結局、両親の声を聞いたのは、それが最後だった。
車が、猛火を上げて轟音を鳴らした。黒い煙が、青い空に上っていった。呆然自失になった八雲の目の前に来たのは、対向車を運転していた男だった。
血眼になって、顔の筋肉がひくひくと痙攣していた。不気味だった。男は奇声を上げながら、持っていたナイフを振りかざした。切っ先が貫いたのは、男の胸だった。何度も、男は。何度も何度も何度も何度も繰り返した。止めに入るひとたちを斬りつけ、また自らの左胸に切っ先を立てる。返り血が八雲の顔に塗られた。
八雲は何も言葉を発せず、ただ眼前で起こる狂気の沙汰を見ていた。
× × × ×
気がつくと、波打ち際を歩いていた。足が浸るくらいの小さな波はなぜか暖かく、苛立っていた気分を和らげる。ふと、遠くを見つめる。
朝焼けに燃える空と、水平線から昇る太陽が見えた。振り返って後方の空を見ると、形の良い三日月と宵闇が広がっている。その下には、静謐さに満ちる海があった。
八雲がいるこの場所にだけ、両側から波が寄せている。朝の海と、夜の海の両側から、暖かい波と冷たい波がゆったりと遊んでいる。
幅の細い砂浜は、どこまでも続いている。足を踏み込むたび、とぷっ、と音が鳴る。
ここは、どこだろう。朝なのか、それとも夜なのか。真上の空を仰ぐと、そこには色のない、強いて言うならば灰色の何かがあった。
ぞくり、と悪寒が背筋を舐める。あれは、見てはいけない。そう直感し、目を逸らす。
いつの間にか、目の前には少女が立っていた。目を合わせた瞬間、あまりにも大きな情報の奔流が脳になだれ込んでくる。幼いころに聞かされた、彼女の話。おそらくは、彼女の知っている情報の一部にしか過ぎないのだろう。
不思議と心は冷静で、脳は淡々と情報を飲み込んで消化していく。
「八雲さま」
少女は八雲の胸あたりまでしか身長がない。腰まで届く長髪は澄み渡った蒼ドレスとしなやかな細指、それに眦に溜めた涙が彼女を神秘的にも彩っていた。さらに特徴的なのは、彼女の胸元にある黒のロザリオと、銀に煌めく髪飾り。
少し怯えた様子だ。蒼穹を映した海を思わせる瞳に涙が滲んでいる。
「ごめんなさい……」
「お前が俺を呪ってたのか」
「すべては私が原因です」
「そうか」
素っ気なく返すと、少女は目を伏せる。
彼女は昔、ミラスティリアと名乗っていた。あまりに長い名前だったから、八雲は彼女のことをミラと呼んだ。そして、彼女がこの世界の女神だった。
「俺を呪った理由を教えてもらえるか」
「……あまり長くは話せません。補給した魔力の大部分は解呪に使います」
「それでもいい。聞かせてくれ」
自然と語気が強められる。俯いていたミラが顔を上げた。八雲は濡れるのもいとわず、その場に胡坐をかく。ミラは立ったまま、話し始めた。
「……まず、あなたに掛けた呪いは複雑化しています」
「と、言うと?」
「ひとつは運命です。ふたつめは、魔力の使用の禁止、それから魔力量の隠蔽。それらが絡まり合って、今の状況が作られました」
さざ波の音が耳朶を打つ。
一瞬の間を置いたのち、八雲は悲しげに眉尻を下げる少女を見上げた。
「ってことは、父さんや母さんたちが死んだのも?」
「それは……ええ、そうです。わたくしの呪いが起因しています」
ドレスの裾を握る手に強い力が籠められる。
父と母が死んだのは呪いのせいだと少女は言う。あの事故すらも。不運な事故と報じられた、あの日。両親の死が単なる不運だったのだと。あなたに掛けた呪いのせいだと。
それを聞いて、納得ができるだろうか。自分に掛けられた呪いが両親の死を呼んだと断じられて、八雲は自身を責めるだろうか。
あたかも、すべてが決められていたように少女は語る。
「つまんない嘘吐くなよ」
「いえ、嘘ではありません。呪いを掛けたのはあなたが生まれた直後です」
「俺が言ってるのはお前の呪い自体じゃない。その内容だ。今ので確信した。父さんたちが死んだのにお前の呪いは関係ない」
断言して、八雲は双眸を光らせる。ミラは目を見開き、下唇を強く噛んだ。薄皮が破れて、血が滲んでいた。
父が告発したのも、告発された男が父を殺したのも。すべてがミラの思惑どおりであるはずがない。父は自らの良心に従って動いたのだ。
「人の感情がコントロールできるんだったらお前が俺をこの世界に呼ぶ必要がない。だって、感情をコントロールできるならお前の理想を創れるんだから」
「…………」
「それから、お前の言葉を否定する理由は単純だ」
父と母が死んだのは、呪いのせいじゃない。あの男が両親を殺したのも、呪いのせいじゃない。たしかに自分は不幸だった。けれど、自分一人が残酷な境遇にあったわけじゃない。
呪いなんて。そんなもので運命を左右されるなんて。
「お前の呪いがなんだってんだ……っ」
閑散とした地平線。一方では太陽が昇り、もう一方では宵の月が廻る。さざめく波が朝陽に輝き、月明かりに煌めく。両側から照らされ、二つの影は行き場をなくした。
呪われた青年は、息を吸い込むと、女神の名を冠する少女に言い放つ。
「呪いなんて陳腐なもんで父さんと母さんは死んじゃいねえっ……父さんも母さんも自分の意志を貫いてんだ……っ!」
悔しさに漏れ出た言葉が波に溶けた。眩い朝陽はそこまで来ている。しかし淡い月光が、粘つくようにひとつの影を引き摺ろうとしている。
「ふざけるんじゃねえッ!」
絡みつく月光を撥ね退けるように腕を薙ぎ、八雲は怒鳴り声を散らした。その瞬間、ミラは眦が裂けんばかりに目を見開く。怒りが頂点に達し、八雲はますます呼吸を荒げ、
「それを呪いなんかで片づけられるほど俺は腐っちゃいねえんだよ!!」
「──っ」
昂る感情を抑えきれず、ミラの胸ぐらに掴みかかる。ミラが悲愴と苦悩が入り混じった表情になる。しかし八雲は手を止めない。激情が八雲を飲み込んでいた。
記憶の断片が舞い上がった。
真夜中にふと目が覚めた八雲は、深刻そうに顔を歪める父と母を見た。思えばあのとき、告発することを決めていたのだろう。そこにある苦悩は、父と母だけのものだ。
両親の決断は決して、呪いに決められたものではない。
「父さんと母さんを馬鹿にするんじゃねえ! お前の安い同情なんざ要らねえんだ!!」
喉にせり上げる衝動を唇が言葉にしていく。反射的に腕が動き、少女の足が地を離れる。ともすれば息が出来なくなる状況で、しかし少女は抵抗しなかった。苦しそうだった。
同情されている。その事実が激情を煽り、裡の猛火が唸りを上げる。だが少女の苦しみ喘ぐ姿を見た瞬間、すっと微温湯がかかったように熱が冷めた。
「くそっ……ふざけんなよ……!」
尻すぼみに小さくなり、やがて声が霧になって散る。
八雲は力を緩め、少女を下ろす。ミラはその場で膝をつくと、溜め込んだ苦痛を吐き出すように咳き込んだ。何度かえずいて、そのたびに涙を零している。
怒りが薄れたわけではないが、罪悪感が八雲に押し寄せてきた。チッと舌打ちして、八雲は後頭部をガリガリ掻きむしる。
「……悪い」
「いえ、八雲さまが謝る必要はありません」
ミラが笑顔を取り繕う。あまりにも痛ましい笑顔に、八雲は耐えきれず目を逸らした。ようやく落ち着いたミラは、立ち上がって、
「お父様とお母様を侮辱したわたくしの発言への怒り、どうかこの場でだけはお鎮めください」
「……ああ」
「ありがとうございます」
軽く応答し、八雲は小さく舌を打つ。砂を噛んだ気分のまま、八雲は次なる言葉を発した。
「お前は運命を操作する力なんか持ってない。……違うか?」
「……」
確信を持った問いかけに、ミラは口を結んで逡巡する。八雲はすでに、結論を出していた。言い訳はさせない。許さない。そう言う目で、ミラを見つめていた。
幾度となく視線を交わすと、ようやくミラが唇を開く。
「……おっしゃるとおりです。わたくしに運命を改変する力はありません」
真実を話しているのかはわからない。だがすでに答えを出している八雲にとっては、ミラの言葉の真偽などどうでもよかった。視線を落とすミラに、八雲は次の問いを投げる。
「お前が掛けたのが、いや、お前が残したものが俺たちを呼んだのか」
「ええ」力なく首肯して、「これがわたくしの遺した召喚陣。そしてあなたに掛けた呪いです」ミラは、紅い魔法陣が手の平に浮かばせた。
「やっぱりか」
あの日、八雲だけが色の違う魔法陣に吸い込まれた。
忌々しいその魔法陣を、八雲は一生忘れないだろう。すべてを変えるきっかけとなった魔法陣こそが、“ミラの遺した残酷な希望”に違いなかった。
「わたくしの掛けた呪いは、あなたをこの世界に召喚すること。そして、魔法の制限です」
目を瞑るミラの姿は、まるで首を絞めてくれと言っているみたいだった。八雲はその白い首筋にほんの数秒見惚れた。手を伸ばして、今すぐにでも絞めてやりたくなった。
──え?
ぞくり、と鳥肌が立つ。目の前の少女を殺してやりたい。その願いに気づいた瞬間、怖気にも似た感情が血流とともに体内を駆け巡った。
いま、八雲は八雲でなくなっていた。確実に違う八雲ではない誰かが、誰かの視点でミラを殺してやりたいと願っていた。
「なんだよ……これ?」
「八雲さま?」
八雲は混乱して頭を抱える。脈動が速く、呼吸の感覚が狭くなる。
誰かが自分のなかにいる。自分ではない誰かが、いま、八雲の後ろで待ち構えている。
いままでのような、狂気や憎悪の類ではない。それすらも飲み込んで、八雲ではない誰かが機を狙っている。
──どうなってる……!?
内側で鬼が暴れまわるがごとく、臓腑をぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚がある。止められない吐き気を催す。
「がはっ! う、ぐっ……ク……」
「八雲さま!?」
ミラが不安げに駆け寄る。が、八雲は衝動を抑えるのに必死だった。暴れ狂う殺意と憎悪が、脳を食い殺そうとしている。
「近寄るんじゃねえ……殺すぞ」
じろりと向けた八雲の瞳には、何か得体の知れないものが宿っていた。ミラは身体を縮こまらせて立ち止まる。しかしミラは怯えた風体ではなかった。
「いつか殺していただくと約束をしたのです、それがいまでも……いえ、前言を撤回します。わたくしはまだ死ぬわけにはまいりません。──貴方さまの呪いを解くまでは」
「悠長なこと言ってられねえんだよ……とっとと失せろ……っ!」
八雲の声に、誰かの声が重なる。深い憎悪と怨嗟をどろどろに溶かした声が、八雲の喉から発せられていた。驚く暇もなく、八雲は自身を止めることに集中する。
「……いま、あなたに掛けた呪いの一部を解呪します」
「早く消えろって言ってんだよ! 俺の視界に入るんじゃねえ!!」
がっ、とえずいて八雲は吐血した。喉が燃えるように熱い。
「無理をなさらないでください。ここはあなたの心象世界。肉体にダメージはありませんが、精神へのダメージはあるのですから」
憎悪と怨嗟、殺意を籠めて睥睨する八雲だったが、ミラはそれも気にしないと言った様子で何某か唱え始めた。ミラの声音は、鼓膜を通り抜ける、小鳥のさえずりに似ていた。
「【────】」
途端に、殺意が牙を剥く。眼が血走り、ミラの肢体を捉えようと動く。が、八雲の手が目を覆った。地獄の亡者のごとく、八雲はくぐもった唸り声を出す。
だが、
「【──枯れたヒイラギ、萌ゆるツメクサ──】」
八雲の脳が情報を処理する。何故か、ミラの詠唱から意味を取ることができる。
蒼いシャボン玉が、小さなミラの身体を取り巻く。どこからか湧き上がるそれは、一定の高さまで浮かぶと、ぱちっと弾ける。
「【──我、此の者の呪を解く者なり────】」
ふわり。羽毛が空気に舞い上がるみたいに、八雲の身体から重圧が取り払われていく。憎悪、怨嗟、殺意は鳴りを潜め、思考が一気に澄み渡る。
すると同時に、視界が狭窄し始める。目蓋が鉛になったように重く、持ち上げることができない。今の状態を維持するのがやっとだ。
それでも立ち上がろうとする八雲を抱きしめたのは、蒼穹を思わせる女神だった。
「あなたの呪いは完全には解けていません」
優しい力に振り向く。視界がミラをいっぱいに映す。涙を湛えた彼女の微笑みは、その外見どおりに幼さを残していた。蒼い女神は唇を震わせて、八雲に告げる。
「またあなたにすべてを背負わせるわたくしを、どうかお許しください。そして、その手でわたくしの命を絶ってくださいませ」
意識が白濁する。真白に染められる視界のなか、八雲は手を伸ばす。ミラの頬へ。そうしておぼつかない手つきで涙を掬うと、八雲は、
「おれ、が……ぜんぶ、終わらせて……やる…………」
掠れた言葉を聞き遂げた瞬間、ミラが口許を覆って泣き出した。すすり泣く音が広い空間に木霊して、弾ける。潮が満ち、すでに砂浜はない。水面が鏡となり、青年と少女の姿を映す。太陽と月は消え、空には無数の星が瞬いた。
ミラの柔らかな細腕が八雲を抱き留める。
それはきっと歪な関係だった。慣れ親しんだ友人のようにも、何年も寄り添った恋人のようにも見える二人。しかし二人を繋ぐものは、歪んでいる。
『いつか、わたくしを殺してください』
『──ああ、絶対に』
殺してほしいと願う少女と、願いを受け入れる青年。少女の願いは、贖罪か、それともなければ気を狂わせたか。願いを受け入れるのは運命か、それとも純然たる殺意からか。
いずれにせよ、二人には詮無きことだった。
少女の人生に青年が幕を下ろすのはすでに決まっているのだから。
鏡面が女神を映す。
腰ほどまで届いた蒼い長髪。胸元には、黒のロザリオが煌めいている。つい先ほどまであったはずの銀色の髪飾りは、すでにない。
鏡面が勇者を映す。
灰を被ったような色の髪。重くのしかかっていた負の感情はすでに払われた。瞳に在った濁りは、今や消え去っている。
そして──銀色のピアスが勇者を彩っていた。