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灰被りの勇者と封印されし聖女~疫病神の英雄譚~ 作者:柏もち太郎

二章:疫病神と封印された乙女

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042 初めまして



 玄関をくぐると、そこは雪国だった……なんてこともなく、意外と質素なんだな、という感想を抱くに終わる。竜王宅は靴を脱ぐという日本的な文化があるらしい。竜王に倣って八雲も靴からスリッパに履き替える。
 靴箱ももちろん木製だ。靴箱の上には花瓶があり、紫色の綺麗な花が挿してある。しかし香りがあるわけでもなく、玄関には檜に似た香りが立ち込めていた。

 それから八雲はリビングに通されて、言われるがまま椅子に腰かけた。アクアを膝にのせると、テーブルに肘を突いて久々の感触を懐かしむ。その間、竜王は茶を淹れると言って台所に向かった。こぽこぽと茶を淹れる音が耳に心地いい。漂い始めた香りは甘く、八雲の鼻腔を蕩けさせる。

 ふと、見回してみる。

 もともとの八雲が抱いていたイメージに反して本棚が多い。暖炉には炭と化した木片があり、最近使用したことをうかがわせる。暖炉の近くには、ゆらゆら揺れる椅子があった。よく物語なんかで見られる椅子の上には、栞を挟んだ読み()しの本が置かれていた。
 そして八雲の目を留めたのは、七色に光る丸みを帯びた玉だった。本棚の上に置かれた箱に、大事そうに乗せられている。下に敷かれた紫紺の布は傷がつくのを防いでいるのだろう。

「それが気になるか?」

 突然掛けられた声に、八雲は驚きつつも振り返る。二つのカップとティーポットを乗せたトレーを持った竜王がいた。

「ああ、綺麗だなと思って」
「それはまあ、わしの研究成果じゃな。と言っても、おまけみたいなもんじゃ」
「大事なものじゃないのか?」
「それなりに、じゃな。なくなってもさして気にせんし、ただ綺麗だから飾ってみただけなんじゃよ」

 へえ、と片眉を持ち上げて、八雲が再び問う。

「じゃあ、これ、なんなんだ?」
「進化の宝玉と言う。それを体内に入れると、その者のなりたい種族に進化することができるというわけじゃ」

 初めて聞いた名前と効果だ。書庫の古本も片っ端から読み漁ったが、進化の宝玉は一度も見かけたことがない。本当に竜王の研究成果なのだろう。

「どういうことです?」
「つまり、あれだ。俺が飲み込んで、ドラゴンになりたいと願ったとする。すると、地うの間にやら俺はドラゴンになってるわけだ」
「すごいですね! ってことは私がスライムになりたいと願えば……あ、でも人間のままが一番です……」

 ぶつくさと呟く聖剣(アリス)に、八雲は乾いた笑みを投げる。なぜスライムになりたいのかは知らないが、面白い発想だとは思う。八雲はひとつ、適当に提案してみた。

「人型のスライムになればいいんじゃないか?」
「名案です! 天才ですか!?」
「どろどろした人間なんてみたくないけどな……」
「もちもちの肌の美少女になれますよ! ま、まあ私はもとからもち肌ですけど」

 と豪語するアリスにはいっそ敬意を払うべきなのかもしれない。そこまでの自信家になれるのは一種の才能だろう。八雲には到底無理そうだ。

「前向きな考えは好きじゃぞ」
「アリスはこっちまで明るくしてくれるからなぁ」

 竜王の言に頷くと、素直な感想が口から出てしまった。しかし別段、恥じ入る気持ちもない。八雲の言っていることは本当のことなのだ。
 だが当人には恥ずかしかったらしい。アリスは声を上擦らせて羞恥を露わにした。

「そ、そんなことないですよ……わたし、みなさんには元気でいてほしいだけです」
「可愛いことを言ってくれるのう」
「まったくだ。なんでこっちが褒めるとしおらしくなるんだか」

 八雲がくぐもった笑い声を漏らす。八雲の正面に腰掛けた竜王が、カップに紅茶を注ぎながら、

「照れ隠しじゃろ」
「違いない」
「ち、違いますからっ! 別に照れてないんですからね!」

 必死に声を荒げるアリスに、八雲も竜王も優しい微笑を湛える。するとアリスはますます恥ずかしくなったようだ。声を荒げはせず、照れたアリスが呟く。

「でも、ちょっとだけ嬉しいです……」

 歓喜と言うよりは小さな幸福を噛みしめる雰囲気だ。じわじわと込み上げる幸福感は、得も言われぬ感触を呼び起こす。胸がきゅうと締め付けられる、切ないような感覚だ。
 それを知っている八雲は、もうからかうこともせずに紅茶に口を付けることにした。
 と、その前に竜王をちらと見る。紅茶を啜りながら、竜王は目線で勧めてくる。

「いただきます」

 煌びやかではないが、しかし質素な美しさを持つカップを口許に運ぶ。少し熱いくらいの紅茶は口腔内で香りを解き、鼻腔にまで届かせた。以前どこかで飲んだことがある味わいだ。
 ほどよい甘さと茶葉の風味が舌と鼻腔を楽しませる。しかし一息に飲んでしまうのも風流がない。八雲はひとくちだけ楽しむと、カップを戻した。

「美味しい」
「それはよかった。味がわかる男でわしは満足じゃよ」
「一気に飲み干したくもなるけどなぁ」
「わからんでもないが、わしはゆっくり楽しみたいんじゃよ。年寄りは残された少ない時間を大事にするもんじゃ」

 こともなげに言う竜王。八雲は処置なしと首を竦めると、わざとらしく片目を開いて竜王を見据えた。老体ではあるが、一体何百年生きてきたのだかわからない。

「俺の方が先に死にそうだよ」
「ほっ。ロクに生きとらん若造がよく言うわい。年寄りは案外ぽっくり逝くもんじゃ」

 竜王がニヤリと口許にニヒルな笑みを過らせる。どこからどう見たって健康体だ。

「だとしても竜王はまだまだ生きるだろうさ」
「そうだといいがなぁ。わしも孫が結婚する姿を見んことには死ねんからの」
「孫がいるのか?」

 尋ねると、竜王は満足そうに頷く。よほど可愛がっているのだろう。深い皺を湛えた顔には「わしの孫は世界一ィ!」と書いてある。親ばかならぬ祖父ばかである。
 八雲は視線を一瞬落として、また戻す。気づかぬうちに、八雲はわずかながらも羨望を宿した笑みを浮かべていた。

「この場にいないのは人見知りだからじゃ。あとは……」
「その子の人見知りだけが原因じゃないわけだ」
「まあ、わしが大丈夫と判断した奴にしか会わせんよ、たぶん」
「たぶんて、そりゃまた曖昧な答えだな」

 八雲がけろりと言いのけると、竜王は苦々しい渋面になった。

「わしはあの子の意思を尊重するからの。もしあの子が会いたいと言えば会わせる」
「孫想いの爺さんだ」
「今じゃ唯一の取り柄じゃよ」

 はぁ、と溜息を吐く竜王。こうしていると、竜王に抱いていたイメージがいい意味で払拭されていく。ここまで優しいとなると、いっそ親近感すら湧いてくる。
 いや、実際湧いているのだろう。でなければここまで気安く話などできない。この暖かな親近感は、竜王が持つ不思議な魅力なのかもしれなかった。

「さて、そろそろ本題に入るとするか」
「ちょ、ちょっと待ってくれませんか」

 長話を続けていると決心も揺らいでしまいそうだ。そう切り出した八雲を止めたのは、意外にもアリスだった。戸惑った八雲は、どうしたのだろうと眉根を寄せる。

「私が身体を取り戻してからでもいいですか? 私もちゃんと聞きたいんです。八雲さんはこのままでもいいのかもしれませんけど、私はそうもいきません」

 先ほどとは打って変わって真剣みを帯びたアリスに八雲と竜王は目を見合わせる。
 竜王はともかく、八雲の答えは決まっている。

「ああ、アリスがそう言うのなら」
「わしはどちらでも構わんからの」

 言うが早いか、八雲と竜王は立ち上がる。もちろん八雲は片手にアクア、もう片方に聖剣(アリス)を携えて。

「俺もついて行っていいか?」
「え……少し恥ずかしいんですけど……」

 恥ずかしそうに声をすぼめるアリスだったが、しかし八雲の問いに答えたのは竜王だった。

「いいぞい。どうせ魂の依り代を移すだけじゃし」
「簡単に言ってくれますね!?」
「だって簡単じゃもん。ほれ、こっちじゃ」

 ダメです、と言い募るアリスを無視して竜王は八雲を先導する。はたしていいのかと疑問に思いつつも、八雲は己の好奇心に従った。好奇心猫を殺すとは言うが、関係ない。

「わ、わたし裸じゃないですよね……?」
「さあの。忘れたわい」
「ちょっと竜王さん!? 裸だったらどうしてくれるんですか!」
「なに、減るもんでもない。存分に見せてやればええんじゃ」
「私の精神が削れるんです!」

 八雲はちょっとだけドキッとした。もちろん、少し想像したとは口が裂けても言えない。
 竜王についてある部屋に入ると、そこには地下へと続く階段があった。まだ下があるのかと驚いている八雲を気にも留めず、竜王はマイペースに下りていく。

 階段の先には、これまた廊下があった。天井から垂れた煌水晶が照明代わりになって足許を照らしてくれている。ものも言わずに進む竜王を追うと、重厚な扉に行きついた。
 扉の隙間からはわずかに白みがかった冷気が漏れだしており、この先にある空間がアリスの身体の保存場所であることを悟らせる。

「さ、ここじゃ」
「わ、わたし裸じゃないか確認させてください!」
「大丈夫じゃよ、ちゃんと服は着とる」

 何気なく言った竜王は悪びれもせずニヤニヤしている。
 これにはさしもの八雲もアリスに同情した。異性に裸を見られるのは八雲だって嫌だ。それが年頃の女の子となれば尚更だろう。
 八雲が溜息を吐くと、アリスは猛襲するかと思いきや涙ぐんだ声で抗議した。

「ひ、ひどいですよぉ……わたし、怖かったんですからね……」
「す、すまん……許してくれんかの」

 アリスの反応が予想外だったらしく、竜王は白い髭を揺らして狼狽えている。これはこれで面白い。八雲はアリスに同情しつつ、いいぞもっとやれ、と歓声を上げていた。
 もし心中が読まれたら斬首ものである。

「ぐすっ……仕方ないです……ちゃんと戻してくださいね?」
「もちろんじゃ! だから泣かんでくれ……わしが悪かった。すまんの……」
「はい! 私、竜王さんのこと信じてますから!」

 アリスの純真なひと言に、竜王が喀血する勢いで上半身をのけぞらせる。八雲は半眼になって情けない竜王を見つめた。

 ――自業自得だろ。

 ふざけるのも好きだが、案外アリスのように純粋な子の涙には弱いのかもしれない。かく言う八雲も弱いが、男は大抵女の涙には勝てないのだ。仕方ない。

「さて、なら早速魂を移すとしよう」

 ギィィ、と鈍い音を伴って、鉄扉が開かれていく。空気中の水分が凍りついているのではと思わせるほどの寒さが肌を刺す。吐く息は白く、八雲はぶるりと身を震わせた。

「寒いな……」
「まぁ、いくら封印を掛けたと言ってもこうしておいた方がいいからの」

 竜王が応え、八雲はガチガチと歯を打ち合わせる。この場にいるだけで凍えそうだ。

「八雲、聖剣を」
「ああ」

 竜王は聖剣を受け取ると、なかに入っていく。それから指をぱちんと鳴らし、何かの魔法をかけた。振り返った竜王は八雲の不審そうな顔を見てやれやれと息を吐く。若干イラッときた。

「空気を暖かくする魔法じゃよ。と言っても、これは火属性と風属性を混ぜただけじゃがの」
「無詠唱で魔法が発動させられるのか?」
「知らんのか? まぁ、王国じゃ知られていなくても不思議ではないの。アリスには教わらんかったんじゃな」
「アリスに魔法の仕組み自体はだいたい教えてもらったが……」

 無詠唱で魔法が発動できるとは聞いていない。しかしよくよく考えてみれば、可能だということくらい予想できる。なにせ契約の手順を無視するだけだ。心で唱え、脳でイメージを起こせばいいだけの話である。

「ま、あとでわしが魔法に関する講釈くらい垂れてやるわい」
「ぜひとも頼むよ」
「とにかく入るといい。アリスも準備をしてくれんかの」

 わかりました、とはアリスの声。少しの緊張を保ちながら、八雲はなかに足を踏み入れる。ヒヤッとした冷気が足許にあるが、だんだんと空気が温まってくる。
 ドライアイスを撒いたように白い冷気が漂う、やけに広い空間の中央にそれはあった。
 硝子製の、棺にも似たケース。そのなかに、遠目からでも分かる女性の身体がある。

 八雲は近づいて、彼女の姿を目に収めた。そして、言葉を失った。
 真白の奔流を纏わせる、女性の肢体。少しのくすみもない、透き通るような金色の髪。肌は新雪のような白さで、思わず手を伸ばしてしまいそうなほどだ。閉じられた瞼。長い睫毛が八雲の視線を絡めとる。綺麗に通った鼻梁はいかにも異国のお姫様風で、その下にある唇は、生気を宿しているかのごとくほんのり桜色である。
 神に祈る修道女(シスター)のように組み合わせた両手を豊かな胸の上に置いている。しかし服装は修道女(シスター)と違い、舞いを披露する踊り子のようだった。が、下品ないやらしさはなく、不思議な神秘性を持つ衣を羽織っている。

「準備はええかの?」
「……はい」

 八雲が見惚れていると、竜王とアリスは粛々と儀式を始める。八雲はハッとしてかぶりを振ると、その場を離れて真剣な面差しになる。

「では、始める」

 竜王がアリスの手に聖剣を握らせる。蒼い宝石がまるで本当の所有者を見定めるかのように煌めく。竜王が何某か口中で呟くと、聖剣の刃に刻まれた文字が蒼く浮かび上がる。八雲はもはや呼吸を忘れるほどに魅入っていた。
 淡い光の粒が漂って、パチパチと弾ける。蒼い、眩い光が白波のように立つ。シャボン玉のごとく浮かび上がる魔力が、弾けては消え、再び浮かび上がる。空間を満たす、蒼い魔力。八雲の知らない、魔法の世界。もしかすると、二人には違う世界が見えているのかもしれない。己の視界に留まらない、広大な世界をその瞳に映しているのだろうか。

 ――これが……。

 八雲は、奥底から沸き立つ衝動に驚いた。しかしそれを抑えることはせず、いま目の前で行われている神聖な儀式に集中した。
 知らず身体が熱くなって、感情が昂っていく。全身が慄いて、ゾクゾクする。
 聖也と麗華の試合を見たときとは比べ物にならない。いままでに見てきた魔法が、本当に魔法だったのかと疑ってしまう、それほどの美しさと神秘性を兼ね備えている。
 魔法の神髄を見ている。いま、この空間を彩るのは、蒼穹を思わせる魔力の奔流。すべてがひとつの魔法に繋がり、すべてがひとつの魔法で終わる。何もかも、いまこの瞬間のためだけに存在しているような、目がくらむほどの錯覚。
 八雲には理解できない言語が、竜王の口から紡がれる。彼の紡ぎ出した言葉に応じて、聖剣から浮かび上がった文字列が一文字ずつ輝きを強くしていく。
 そしてすべての文字が蒼く輝いたとき、膨大な魔力の奔流が巻き起こった。

「【汝の魂を器へ】」

 峻厳な声が響く。魔力の奔流が渦を巻いて、アリスが糸でつられるように上へ引っ張られる。と同時に、聖剣をも持ち上げた。

 ――なっ……!?

 八雲は驚愕に目を見開いた。
 聖剣の切っ先がアリスの胸に突き立った。そのまま落ちていく聖剣は、しかしアリスの身体を傷つけない。中ほどまで刺しこまれたが、剣先が背から伸びることはなかった。

 つまるところ、アリスの身体に聖剣が入り込んでいるのだ。
 八雲は息を呑んでその光景を見守る。声を出さないように心掛けているのは、自分でもなぜだかわかっていない。しかし、声を出すなと言われている気がした。
 そして、ついに聖剣が沈みきった。アリスの身体がゆっくりと下降して、元の位置に戻る。

「これで完了じゃ」

 竜王がころりと表情を変えて笑った。八雲は安堵だかなんだかわからない、重い溜息を吐くと、硬く凝っていた筋肉を弛緩させる。いつの間にか、力が入っていたらしい。
 それにしても、聖剣は一体なんなのだろう。

「聖剣とアリスは何かのつながりがあるのか?」

 八雲が尋ねる。すると竜王は、ふむと頷いて、顎髭に手を添える。

「あれが神託というやつじゃな。勇者の身体に埋め込まれた、いや、少し違うの……勇者の魂に書き込まれたもんじゃ」
「……つまり、一心同体ってことか」
「そうなるかの」

 竜王が難儀そうに眉をしかめた。そうか、と答えて八雲は再びアリスに近づいた。先ほどとは違ってわずかに桃色に染まった頬が、命が宿ったことを感じさせる。

「なんじゃ、アリスのことが好きなのか」
「いいや、そういうわけじゃないさ」

 動じることなく八雲は否定する。いま、アリスに抱いている感情は色恋の類ではない。ただ純粋な気持ちだけだ。腕の中で震えるアクアをなでつつ、八雲はアリスに微笑を向ける。

「ならどうしてそんなに見つめておるのかの?」
「感謝してるんだよ、こいつには。アリスがいなかったら、俺はたぶん吹っ切ることができなかった。……いや、まだ吹っ切れてはないけど、その覚悟を決める手伝いをしてくれたんだ」
「ほう……だったら感謝せんといかんな」
「まったくそのとおりだ。俺には感謝しないといけない人がたくさんいるよ」

 それがこれからの目的のひとつだ。生涯を通して、感謝しても感謝しきれない、返せないほどの恩を生きることで返していく。それで、いいんだろう。
 八雲は穏やかな気分に浸りつつ、アクアにアリスを見せる。

「ほら、アクア。これがアリスだってさ。なんかイメージ狂っちゃったな」

 苦笑した八雲の腕で、アクアがぷるぷる震える。もしかしたら、喜んでいるのかもしれない。しかし八雲の予想に反して、アクアは跳びあがった。

「あ……」

 揺れる蒼い球体。可愛らしいそいつは、見事なまでに――、

「こふっ!?」

 アリスの鳩尾に着地した。しかも、器用に身体を揺らして着地時点で最大の衝撃を与えられるよう計算されつくした動きである。アクア……恐ろしい子……。
 アクアの突飛な行動に唖然とする八雲と竜王。そんななか、鳩尾を急襲されたアリスは上半身を跳ね起こし、寝ぼけまなこのまま辺りをきょろきょろ見渡した。

「ななな、なんですか!? 人が気持ちよく眠ってるときに!」
「いやお前このまま寝るつもりだったのかよ」
「当たり前ですよっ! ……って、あれ? 身体に戻ってる?」
「憶えてないのか?」

 アリスはうーんと唸り始める。こいつマジか、と思わないでもない八雲だったが、これまでのアリスを思えばこれくらい普通だ。
 それにしても、まったく残念な美女である。端麗な容姿に似合わない、子供っぽい雰囲気がすごく残念だ。これがもしお淑やかだったなら、どれだけの男を魅了したことだろう。
 しかし八雲にはこっちの方が親しみやすかった。子供っぽい雰囲気や言動も、微笑ましいものだ。見ている方まで明るくしてくれる、それがアリスの魅力なのかもしれない。
 八雲が微笑を過らせると、アリスはやっと思い出したらしく、愁眉を開いた。

「戻してくれたんでした!」
「まったくお主は……正直言ってうるさいのう」
「そんなこと言わないでくださいよー……だって久しぶりの身体ですよ?」

 いいじゃないですかぁ、とでも言いたげにアリスが唇を尖らせる。八雲はくすっと笑みをこぼすと、竜王に代わって返答した。

「ま、それもそうだよな。存分にはしゃぐといい」
「そうですよね! やったー!」

 言うが早いか、アリスはアクアを抱えて硝子の棺から飛び降りる。可憐な花が咲いたような、明るい笑顔だ。これは、イメージどおり。

「いえーい!」
「い、いえーい」

 両手を出すアリスに、八雲は戸惑いつつも合わせて両手を突き出す。パチン、と音が鳴ると、アリスはますます嬉しそうに拍手した。

「わわっ! 本当に身体があるんですね!」

 八雲は苦笑しながら「よかったな」と素直に祝福する。
 自分が何を言っているのかわかっているのか。感動する気持ちがわからないわけでもないが、少々大げさすぎるだろう。
 だが、これがアリスなのだ。八雲は自分で納得して、うんうん頷く。

「なんかすごい嬉しいです……よかったぁ……」

 じわりと涙を浮かべるアリス。嬉し泣きする姿を見かねた竜王が深い溜息を吐いた。

「なんじゃ辛気臭いのう。お主はもっと元気にはしゃいどればええんじゃ」
「えへへ……ありがとうございます……」

 アリスが人差し指で頬を掻く。その仕草はどうにも女性らしさを意識させる。

「あ、そうでした!」
「ん? どうかしたのか?」

 訊くとアリスは頬を赤らめる。そのうちもじもじしだして、指と指とを突き合わせ始めた。何か言いたいのだろうが、恥ずかしくて言い出せないらしい。
 八雲がどうしたものかと肩を竦める。それに気づいたアリスは、しょぼんとして、しかし聞いてほしそうに八雲を引き留めた。

「あ、あのっ」

 今にも目を回しそうな勢いだ。噴き出しそうになるのを抑えて、八雲は言葉の続きに耳を傾ける。ちゃんと聞いてやらないと、あとで怒られそうだ。
 アリスはようやく決心がついたように、深呼吸して息を整えた。
 そして、八雲の目を見つめた。翡翠色の、ぱっちりとした、碧眼。涙に潤んで、心なしか吐息も荒い。いよいよ八雲はドキッとして、言葉を待った。
 桜色の唇が、言葉を紡ぎ出す。

「初めまして、って言うのも少しおかしいかもですね。けど、初めまして、八雲さん。私の名前はアリス、あなたの相棒(パートナー)です」

 照れくさそうに言って、アリスはにこりと微笑んだ。このときをずっと待っていたような、しかし儚げな笑顔。それはまるで、手の届かない高地に咲いた花のごとく、綺麗だった。

「……」

 思わず、目を奪われた。ごくりと喉を鳴らし、生唾を飲み込む。
 しかしアリスは小首を傾げ、終いには頬を膨らませる。なぜかと考える前に、気がついた。返答が、まだだった。

「わ、わるい……。そういえば、初めましてになるんだよな。その、初めまして、服部八雲です……よ、よろしく頼む」

 緊張と恥ずかしさでしどろもどろになりながらも、簡単な挨拶を終える。アリスは再び笑って、八雲を指さした。

「あはははっ! 緊張しすぎじゃないですか?」
「うるさいな……突然だったからだよ」
「この身体では初めましてですからね~」

 陽気に笑うアリスが、記憶のなかの誰かと重なる。しかしそれは、どちらにも失礼だ。彼女はもういない。それに、彼女を投影するなんて最低なことだ。

 ――もう、いないんだ。

 これからの旅路に彼女はいない。きっと話すこともない。魂という存在があるんだから来てくれれば、なんて淡い幻想も抱いてはいられない。

 過去は追うものではない。振り返るだけのものだ。
 だから振り返ることを忘れてはいけない。そして、彼女らの想いを背負う。自分を生かすための犠牲になったなんて考えは彼女らに失礼だ。知ってたじゃないか。

「どうしたんですか? 怒っちゃいました?」

 アリスが不安そうにのぞき込んでくる。額を指でつつく。「あうっ」とのけ反ったアリスが、半眼で睨んでくる。彼女は、他の誰でもない。今を生きている人間だ。

 信じると決めた彼女(アリス)に、そしてアリス(彼女)の信じた竜王に、伝えよう。
 八雲は目を閉じて軽く息を吸い込むと、言葉とともに吐き出した。

「さて、俺もそろそろ話さなきゃいけないときがきたのかな」

 アリスと竜王が、そろってこちらを見据える。そんなに堅くならなくていいさ、と言って八雲は肩を竦めた。これでも結構緊張していると言うか、恐ろしい。
 思い起こしたときに沸く感情を抑えきれるかがわからないし、まだ割り切れていないところも、自分が気づけていないだけで、きっとあるだろう。

 それでも話そう。すべて、この身に起こったことを。

「悪いけど、リビングを使ってもいいか?」

 さて、二人はどう思うだろう。はたしてアリスはついてきてくれるだろうか。竜王は拒絶しないだろうか。たった二人なのに、ここまで怯えていたら世話はない。
 先ほどまでの冷気はすでになくなっていた。しかし、膝が笑っている。きっとアリスも竜王も気がついているだろう。
 しかし八雲は、震えをいなすように笑顔を作ると、虚勢を張った。

「ここじゃまだ、どうも冷えるみたいなんだ」

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